第20話
「ここって……」
日が沈み、月のない夜だった。海上の戦況は相変わらず皇国の一方的な攻撃が続いていて、砲撃の一部がついに軍港を襲い、皇国軍の上陸も迫っている。王国海軍も黙ってやられているわけではなく、軍港以外から押収した船で出撃するも、軍艦に全く近づくことができなかった。
まるで海すらも皇国に味方しているようだった。
道中、ルノも心配で何度も海に目を向けるが、そこに映る状況は変わらない。王国側がやられていく状況が酷くなっているだけだ。
エトも同じように何度も確認していたが、その度悔しげに口元を引き締め、足を進める速さが増すばかりだった。
そんな中、エトがルノを率いてやってきたのは、オルミスの端にある地区アスムで、その地区の大半を占める海に面した岩場。二人はその岩場にある洞窟を前に立っていた。
「ルノは暗視の魔法は使える?」
エトが肩で息をしながらも、落ち着いた低い声で、洞窟の暗闇を見つめつつ尋ねた。
「使えます。でもあんまり長くは持ちません」
「使えるなら問題ないよ」
「灯りを出しては駄目なの?」
ルノは慣れ親しんだ方法を提案したが、エトは静かに首を横に振る。
「それじゃここに僕たちがいることを示しちゃう。それとも僕が手を繋いで先導しようか?」
軽く口の端を吊り上げて、振り返るエト。緊張からかうまく笑えていなかった。でも冗談を口にできるぐらい余裕ができたようだ。
「もう、大丈夫よ。そんなことしなくても一人で歩けるわ」
「良かった。なら行こうか」
エトは口元を引き締め、小さく呪文と唱えて暗視の魔法を使うと、洞窟へと足を踏み出した。
○ ● ○
アスム地区の大半を占める岩場は、潮の満ち引きでその姿を変える。二人が忍び込んだ洞窟は岩場の中でも高いところに入り口があるためか、満潮のときでも海水に飲まれることはなかった。
洞窟の中は長く、緩やかに下へ広がっている。
ルノは三回目の暗視の魔法を使った。
エトと同じ魔法であるが、ルノは系譜の違う魔法をなかなかうまく扱えず、エトとは比べ物にならないぐらい拙い魔法となっていた。
エトは歩みの遅いルノを時折振り返る。
歩調もルノを気遣って緩やかなものだった。
洞窟の中は足元にぬめりや海草が不規則に点在し、侵入者の進みを邪魔した。ルノは当然そんな中をまともに歩けず、普通に歩くよりずっと遅くなった。転びそうになったのも一度や二度ではない。ルノはそんな有様だったが、エトは難なく先を行く。歩きなれているのか、それとも彼の靴にはスパイクのような鉄のトゲでもついているのだろうか。
無理についてこない方が良かったかもしれない。
自分はエトの足手まといに違いない。
ルノは魔女だ。そして魔女は生活に密着した魔術師である。魔法をよりよい生活のために用いる。それが魔女だった。森の中で暮らす魔女、街の中で暮らす魔女、その系統は様々だが、その魔法は戦うためじゃない、生きるためのものだった。
魔女の魔法は包丁であり、剣ではなかった。
しかしここ二年近くエトと仲良くしていて、気付いた事がある。
エトの魔法は包丁ではなく、剣に近い。完全に剣というわけではなく、ダガーのようなものだ。それは戦うための形をしていて、使い方は日用品といった感じだろう。
しかしどのような平和的な使い方をしていようと、エトの魔法はダガーであり、包丁とは全く違った。
何も別にユニオンは魔女の集団ではない。魔力持ちの共同体。魔術師も参加していると聞いているし、エトがそういう魔法が使えてもおかしくはない。
エトの師であり、ユニオンの長であるエルウィンがエトに魔女の証を刻まないのには、ユニオンという共同体だけが理由ではないような気がした。
そしてエト自身もエルウィンも、エトが包丁ではなく、ダガーや剣を持つことを望んでいるような気がした。
もしかしたら今回エトがオルミスを守るために危険をはらむ行動を起こしたのは、その理由に関係しているのかもしれない。
アスム地区から伸びる洞窟は曲がりくねっているものの、下へ伸びている。下から冷たく湿った風が噴吹き上がる。下がどうなっているか、暗視で周辺の様子は分かっても、その先は暗闇だ。行ってみないと分からない。
暗い中、時計もないし星も見えない。
暗視の魔法の回数からして、ここに入ってそれなりに時間が経っていることが分かる。でも正確な時間が分からないことが不安を煽った。
ルノは足を滑らせるも何とか片足で踏ん張り、転ぶことは避けられた。
エトは心配そうな顔で振り返るので、ルノは大丈夫だとぎこちない笑顔で頷いた。
そしてやはり彼の足取りは安定していた。
慣れているのだろか。
何か魔法を使っているのかもと考えたが、エトの魔法は暗視だけのようだ。
大分深いところまで来たようだ。
大人が横に五人並んで歩けるほど広い道であったが、洞窟の壁や天井はルノたちを飲み込もうと狭まっているような気がした。
不意にエトが立ち止まった。ルノは気付くのが遅れ、エトの背にぶつかる寸前でようやく足を止めた。
どうしたの、と口を開こうとして、エトを見上げる。エトが口の前で人差し指を立てて、喋らないようにと仕草で伝えた。
彼がそうした理由はすぐに分かった。
洞窟の暗闇の向こうから、音がする。
耳を澄ましてみると、それは話し声だと分かった。反響していて、聞き取りづらいところがあったものの、だいたいは判別することができた。
「全く、迷惑な話だ」
その声は凛とした男性のもののようだ。
「お前はずっと昔からここにいるというのに、阿呆な人間がここを乱して、騒ぐ。それでは飽き足らず、お前を勝手に守り神としてあがめる。ただ暮らしているだけだというのにな」
男の声に答えるように、くぐもった、うなるような生き物の声がした。その声の低さ、響きからして、その生き物は明らかに人間ではない。人よりもずっと大きな生き物のようだ。
「それもそうだな。お前のような広い心がうらやましい」
男とその生き物の会話は成り立っていた。話題は明るいものではなさそうで、さらに気だるげだった。
エトが何かに気付いて、小さく息をのんだ。
「まさか、リヴェータ!?」
彼は驚きと共にその名を口にした。思わず飛びだしたその声は洞窟内に響き渡り、洞窟の先にいるであろう男と生き物の耳にも届いてしまった。
「何だ」
男が立ち上がったのか、衣擦れの音がした。生き物が何か告げるように唸った。
「様子を見てこよう。密漁者かもしれない」
近づいてくる足音。エトは自分の失態に焦り、後ずさるも、足音が迫る方が早い。どの道、今ここで彼に見つからずに立ち去るというのは不可能だ。
ルノも焦っていた。
見つかってはいけない。迫る男が敵か味方かなんて分からない。それにエトが何かしようとしている。それが誰かに気付かれてはいけないと薄々と察していた。
咄嗟の行動だった。
後で振り返ってみても、どうしてそんなことを思いついたのか、どうしてできると分かっていたのか、分からなかった。
ルノは自分の影を掴み、それを布のように引っ張り上げ、自分とエトを覆った。
エトは影に覆われたが、何が起きているか分かっていないようだ。それもそのはず。これは魔法ではないから、魔力も発せられない。
彼にとっては突然ルノが後ろから薄く黒い布を広げたように見えただろう。布であるというのに、頭や顔にかかることなく、自分の周囲を半円を描き、浮かんでいる。ただただ不思議な出来事に目を丸くしていた。
今度はルノが口の前に人差し指を立てた。
エトも不可解さに困惑しながらも、ぎこちなく頷いた。
ルノが広げた影は薄ぼんやりとした膜を張って、二人をすっぽりと覆っている。
暗視の中、洞窟の向こうから長身の人影が現れた。
その人は灯りの入ったカンテラを持っていたが、頼りない明るさで、持ち主の足元と周りを照らすには十分だったが、幸いなことにルノたちを覆う影を貫くほどではなかった。
「風か?」
男は、影に覆われた二人には気付かなかった。
カンテラの灯り、男の足音が遠ざかる。
ルノは信じられないと口の前に手をやった。
カンテラを手にしたあの凛とした声の主は、あの日アスム地区で目が合った、異国風の建物の窓辺にいたあの男だったのだ。
なぜ彼がここに?
おかしくはない。この洞窟はアスム地区に入り口があるのだから。でも、まさかここで遭遇するとは思いもしなかった。
目が合わなかったせいか、あのときのような凄まじい恐怖感はない。でもじわじわと背筋が凍てついてゆくような悪寒は残った。
「さて、私はここで退散しよう。少し前から海の方から嫌な気配がする。私を連れ戻しに来たわけではないだろうが、遭遇はしたくない。居場所を知られるのも面倒だ。王国を離れるのも悪くないかもしれないな」
残念がるように生き物が、切なげな声を上げた。
「安心しろ。もう会えぬわけじゃない。オルミス(ここ)が落ち着いたら、戻ってくるつもりだ。ここにお前がいる限り、私はまたここに戻ってくる」
男の言葉に生き物は安心したように吐息を漏らす。それから別れを告げるように喉を鳴らした。
男が再びルノたちの元へと迫る。洞窟はここに至るまでの道は大きな一本道。まるで大きな蛇がゆっくりと這い上がったようだった。
男は再びささやかな灯りが宿るカンテラを手にルノたちの元へやってきた。彼が外に出るのはここを通るしかない。
カンテラの灯りが、床に白い円を描き、近づいてくる。
見つかるわけにはいかない。
彼が怖かった。彼が敵か味方か分からない。彼が何者かも分からない。以前アスム地区で目が合ったときの衝撃的な恐怖を思い出して、胸の奥がぎりぎりと絞めつけられるようだった。
その恐怖に彩られるように、ルノの影は深みを増す。
エトは自分が黒い何かに包まれるのをただ黙って見ていた。その横顔には困惑が色濃く滲んでいる。
カンテラを手にした彼は一歩ずつ確実に迫る。騒げば間違いなく気付かれる。
エトが口を閉ざして、この状況に身を任せたのは、その不可思議な黒い何かはルノが広げたものだと分かっていたからだろう。
ルノも迫る男に恐怖で震えだしそうなのを必死に堪える。影を保持するのに意識を向ける。まるで捕食者に追われ、辛くも隠し場所を見つけた獲物のようだ。影を維持できなければ、すぐさま彼の餌食になってしまう気がした。
だからルノは必死に影で自分とエトを覆い、その影で周りの影と馴染ませる。
男はルノたちに気付くこともなく、二人の前を通り過ぎた。その姿とささやかなカンテラの灯りが見えなくなり、ようやくルノは気を抜くことができた。
その場にへたり込む。
地面のぬめりや海草に服が汚れるのなんて気が回らなかった。
影ってこんなことができるんだ。
思わぬ影の使い方に、ルノは驚いた。
ルノの集中が途切れると同時に、影も泡が弾けるように消え去る。
「うまく、やり過ごせた……のかな」
エトは心を落ち着けるためにゆっくりと息を吐き出す。ルノは何も言えず、ただ頷いた。
「ルノ、立てる? 目的地はすぐそこなんだ」
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