第19話
王国海軍の軍港からけたたましく警鐘が鳴り響く。
夕闇が夜闇に取って代わられる中、それは始まった。
地上の市民たちは大砲の音と警鐘に慌てて窓から顔を出したり、表に出て騒がしくなる。市民たちに「オルミスから避難するように」と叫びながら、馬に乗った軍人が通りを慌しく駆けた。
海上では皇国の戦艦が何度も大砲を鳴らし、王国海軍の船を攻撃していた。あの大砲が陸に向かないという保障はない。
「エト、ここも危険です。逃げましょう」
海を苦々しい様子で見つめていたエトにルノは言った。しかしエトは首を横に振る。
「駄目だ。僕は逃げるわけにはいかない。でもルノは逃げてくれ。今ならまだオルミスの外に出れば間に合う」
「エト! なんで一緒に逃げてくれないの!? 何でここに残るの? 行きましょう」
ルノはエトの手を掴むも、エトはそれを力強く振り払った。
「僕は、逃げない。行くわけにはいかないんだ」
「どうして……!」
エトの青い瞳は夜闇の中でもはっきりと、強い意思の光を宿していた。
「僕は戦わなきゃいけない。師匠や父さんが守ってる王国(ここ)を、僕も守るんだ」
「無茶よ。エトは確かに魔法は使えるけど、エルウィン様ほどじゃないわ」
ルノは自分が酷いことを言っていると分かっていた。でも、引き下がるわけにはいかない。
「ここは逃げるべきです」
「いいや、僕は戦う。弱くても、できることはあるはずだ」
「例えば?」
「それは……」
問うても、エトは答えられなかった。
「なら、逃げるべきです。分からないのにいても、足手まといにしかならない。見てくださいよ。皇国の戦艦はあんなにもあるんです。エルウィン様のような偉大な魔女でないと、太刀打ちできないでしょう」
海上での戦況は、皇国の有利に動いていた。
あの霧のせいで王国は完全に不意を突かれ、市民の避難すらまともにできず、迎え撃とうにも軍港がすでに皇国戦艦の射程圏内に入っていたのだ。実際、軍港から出撃する王国の軍船はことごとくやられていて、一隻も皇国の戦艦に近づくことができていなかった。
「でも何か戦果を上げないと……! そうだ、皇国には魔術師なり何なり絶対にいるはずだ。そいつの特定だけでも……!」
「エト! そんなのもっと危険過ぎる。できることなんてせめて避難誘導ぐらいでしょう!? それとも何? 竜晶石みたいなとっておきの隠し玉でも持っているの? 私たちじゃあの戦艦に太刀打ちなんてできないよ。それこそ嵐が起きない限りね!」
「……」
エトは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。ルノの言うことが確かで、図星を突かれたからだと思った。
だから、再びルノはエトの手を取った。
「逃げましょう、エト。エルウィン様や王国海軍の方が、皇国の戦艦を倒してくれますよ」
「いや」
エトは小さな声を漏らした。
どれだけ彼は強情なのだろう。ルノも彼の手を引いたが、彼は頑として足を動かそうとしなかった。
「エト」
「できるかも、しれないんだ」
「え?」
「僕にも、あの戦艦が、何とかできるかもしれない」
「馬鹿なこと言わないでください。無理ですよ」
「無理じゃない!」
エトが怒鳴り、ルノは思わず彼から手を離した。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。でも、これならもしかしたら、できるかも……。いやできる!」
エトはルノの隣を通り過ぎ、足早に階段へと向かう。
「待って、エト!」
その背中をルノは慌てて追った。
「エト、急にどうしたの?」
「ルノは逃げて。戦いが激しくなる前に!」
「待ってよ、エト。一人で行くつもりなの?」
「当たり前だろう? 危ないんだ。君を連れて行けない」
「危ないんだったらあなたも行かせられない。私あなたのことをエルウィン様に任せられているのよ?」
「そんなの挨拶みたいなものだろう? 気にしなくていいよ。また師匠に会ったら、僕が勝手に出て行ったって言えばいい」
「そんなわけにはいかないわよ。危ないって分かってて行かせたなら、私にも責任があるわ」
「ルノが気にすることじゃない」
エトは階段を下りる足を速め、階段も三つも四つも跳ばし、ルノと距離を取ろうとした。
彼が行ってしまうと焦ったルノは慌てて影から黒猫のフーを押し出した。
「足止めして」
何となくだけれど、エトがフーを怖がっているような気がしていた。だから、フーが使えると思った。フーは珍しく今日は言うことを聞いてくれて、猫らしい俊敏さでエトを追い越し、そして彼の前を陣取ると、エトはやはり過剰に驚いて足を止めた。
「エト、待ってよ」
「ルノ、卑怯じゃないか」
「分かっているわ。でも、せめて教えてよ。これから何をしようとしているの?」
「それを教えたら、大人しく避難してくれる?」
「まさか」
「だろうね」
エトは口の中でそう呟いた。
「私も行くわ。それならエルウィン様の言うことを守れているし、何かあったら、エトを守れるし」
「僕を守る? ルノが?」
ルノは言葉に詰まる。魔物も精々追い払うのがやっとなルノだ。何が起こるか分からない場所に飛び込むのに、守るなんておこがましい気がする。
「でも、危険なところに行くあなたを放っておけない……! それに、これでもサニシアの森を庭同然に歩き回っているの。戦いでこそ役には立てないかもしれないけど、まるっきり邪魔にはならないはずです……!」
サニシアの森は普段ルノが影の暴走を防ぐために、素材採取に向かう森だ。特に珍しい素材はないけれど、獣や時には魔物もいる。ルノも遭遇して、逃げ延びた。
ルノの固い決意にエトが折れた。
「分かったよ。そこまで言うのなら、ルノもついてきなよ。でも、僕も正直どうなるか分からない。だからせめて自分の身は自分で守ってくれよ」
「分かったわ。ありがとう、エト」
「お礼を言うのはまだ早いよ。本当にどうなるかなんて、分からないんだから」
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