第17話
街はまだ霧に包まれていた。
広大な海への入り口であるオルミスの港も同じように白に埋まり、雲の中にいるような気がした。霧はゆっくりと流れており、海から陸へと上がっていっているようだった。
いつもは賑わっているオルミス港も、この霧のせいで船が出せないせいか、死んだように静まり返っている。人気もなく、霧に包まれているためか、まるで世界から切り離されたような錯覚を覚えた。
「ルノ?」
波止場に辿り着いたエトは浮かない顔をしているルノを振り返る。しかし考え事をしていたルノはすぐに気付けなかった。エトがもう一度呼びかけて、ようやく彼が話しかけてきていることに気が付いた。
「ごめんなさい。気付かなかったわ。何でしたか?」
「いや、大した用があったわけじゃないんだ。なんか浮かない顔をしていたから。その、もしかして外に誘ったの、嫌だった……?」
「そんなことない!」
ルノは慌てて否定した。
考え事というのも、エトには関係のないことだった。エルウィンが持っていた竜晶石のことだ。美しい輝石であったが、あれはルノにとって死骸も同然。エルウィンやエトたちにとっては金銀のように価値の高いもので、戦利品かもしれないが、どうしても受け入れられなかった。でも竜晶石に対してそう思うのは竜や竜の子だけだろう。だからそんなことをとても言えない。
「えっと、その。竜晶石が……すごかったから」
そればかりを考えていたせいか、ついその単語が出てしまった。それでも何とか誤魔化そうと、適当な言葉を続ける。
「そうだね。あれ、なかなか手に入らないんだよね」
「北の戦線から送られてきたって」
エトは頷いた。
「元々はもっと大きな竜晶石だったんだけど、ここに運ばれてくるまでに何度も強奪されかけたらしくて。それで砕かれてああなっちゃったんだ。あれだけでも師匠の下に届いたのが幸運かな」
「エルウィン様でも竜晶石を手に入れるのが大変なのですね」
「そうだね。竜や竜の子ってこの辺にはまずいないからね。いてもその事を絶対に隠すだろう? だから確実に手に入るとしたら、帝国と戦ってる北の戦線ぐらいしかないんだ。当たり前だけれど、竜は簡単に倒されてくれないからね」
エトの雑談にルノは無理矢理笑顔を作った。
「そうね」
そのとき、ルノの背中に魔力がこもった風が吹きつける。振り返ると、風は強弱をつけながら吹き続けた。
「師匠だ」
待ちかねていたとエトが声が語る。
「いよいよ始まったんだよ」
竜晶石を用いた大魔法。街全体の霧をどう晴らすかも気になっていたが、結局エルウィンは風で吹き飛ばすことにしたようだ。
そもそもその話をしていたとき、ルノは風で吹き飛ばすと提案し、エトは霧の分子を変えると提案した。エルウィンはルノの案を採ってくれたのだろう。それに二つの案を比べると、明らかにルノの案のほうが簡単で、強力な力の塊である竜晶石を試しに使ってみるのなら、そのほうがいいと考えたようだ。
最も、ルノが魔法でできることがあまりにも少ないので、単純な答しか出せなかった。どうにもルノは頭が固いというか、柔軟性がないという欠点があるようだ。
東から吹き付ける風は徐々に強まってゆく。
「ルノ、こっち」
エトは波止場の近くにある漁具などをしまう小屋の陰にルノを手招く。小屋は拙い造りで、強まる風に大きく揺れて、軋んだ。このまま霧と共にこの小屋も吹き飛ばされてしまうのではないかと不安になったほどだ。
海から緩やかに流れてきていた霧は次第に強まる風により動きが鈍り、止まり、やがて海へと押し戻されてゆく。
このオルミスを包んでいた霧は、やはり魔法ではないようだ。そして自然のものでもないだろう。オルミス沖に住む大海蛇が吐いたものにしては、いくらなんでも長すぎる。
エルウィンの言っていた通り、竜のものなのだろうか。
そしてルノ自身、それがあり得ると思っていた。
ルノの竜の力、その影の力は圧倒的で、魔法も使えるルノだからこそ、その力が魔法よりも限定的であるものの強力だと分かった。
どんな竜の力かは分からないが、大都市オルミスを霧で包み続けるぐらい、簡単にできそうな気がする。やはり竜がやっていて、その後ろには帝国がいるのだろうか。
ルノは竜の子であったが、竜のことをあまりにも知らなさ過ぎた。
「そういえばエトはどうしてここに来たかったの?」
風にかき消されてしまいそうな中、ルノはエトの耳にささやいた。
「それは、これからのお楽しみだよ」
懐中時計を取り出し、訳知り顔でルノに笑いかけるエト。彼の時計はそろそろ夕刻であることを示していた。
東からの風は嵐のように激しくなっていて、霧を西へと吹き飛ばす。
始めは薄まりつつあった霧も風の勢いに負けて、薄まる前に押し出されていた。
そして、久方ぶりの空がついにのぞく。
風は最後の仕上げとばかりにより一層強まり、街の白い建物も霧の中から現れた。
空は橙に染まり、霧どころか雲ひとつない。
久しぶりに見る空にルノはどこかホッとして、見上げていた。エトはルノの手を引き、再び波止場へと連れてゆく。
「これを見せたかったんだ」
エトはまだ霧が濃く残る海を指差した。すると彼の動きに合わせるように、一陣の強い風が吹きぬけ、残っていた霧を切り裂くように霧散させた。
「わぁ……」
霧が取り払われ、ルノは海の広がる西の光景に思わず声を漏らす。丁度日暮れ、空も海も沈みゆく太陽に赤々と染められていた。
「すごいだろう? この季節の夕日は特に綺麗なんだ」
得意げにエトは語る。
「本当にきれい……」
そうか、これはオルミスならではの光景なのだ。ここが王国の最西端で、海に面していて視界をさえぎるものがないから。ここに住むエトだからこそ、知っていたのだ。
ここに住んで一年半は経っているはずだが、ルノはこの景色を知らなかった。
まだ世界には知らないことがたくさんあって、この海の向こうにも知らない人がいる。世界はずっと広いんだ。ルノは改めてそのことに気が付いた。
「あれは……」
ふと海上に黒い影がいくつか浮いているのが見えた。その形からして船のようだ。それもかなり大きい。百人は乗れそうな大型船だ。
「商船かな」
エトは目の上に手をかざし、呟いた。
この霧で船が出せなければ、港に入ることもできなかったはず。だから海上で待っていた船だろうか。
沈みゆく太陽を背にした船影を見るのはなかなか目に痛い。
「ここも騒がしくなるだろうから、一度館に戻ろうか」
「そうね」
海上の船影もオルミス港を目指しているし、漁師や商船の船員が霧が晴れたために仕事をしようと港に出てくるはずだ。夜になるから船が出て行くことはないだろうけれど、やれることは山のようにある。彼らの邪魔にならないように二人は退散することにした。
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