第16話
魔法ってやっぱり便利。
濃い霧の中を歩くルノは、しみじみとそう実感した。
部屋から出て、濃い霧の中を歩く。霧が出てからもう五日目。霧は晴れるどころか薄まることもなく、今も尚オルミスの街を白く埋め尽くしていた。
五歩先も分からぬ視界で、すれ違う人もいる。ルノは自分の存在を示すために頭上に魔法の光を浮かべ、念には念を入れて生命探査の魔法も使いながら歩いていた。
オルミスで霧は珍しくない。しかしたいていは昼前には晴れてしまうのだ。こんなにも長く、濃い霧が残るなんて、少なくともルノがオルミスに来て一年半、なかった。
この霧はオルミスという街を止めてしまった。
霧が濃ければ船は出せず、海路は途絶え、海路を断たれた大陸の端の街はいつになく静まり返っている。
死んだように静かなオルミスの街であったけれど、ルノの心はわずかに躍っていた。いつもとは違う、非日常感を楽しんでいたのだ。
ルノの心境が伝わったのか、隣を早足で歩くフーの足取りも軽く、ステップを踏んでいるかのようだ。
いつもより時間をかけて辿り着いたユニオン本部、白薔薇の館は白い霧の中でも際立つ白さを誇り、その豪華で荘厳な佇まいを崩さなかった。
ルノは白薔薇の館に足を踏み入れると、中はシンと静まり返っている。そして扉につけられた鈴の音を聞きつけたユニオンの職員が、カウンターの奥から顔をのぞかせた。
「あら、ルノ様? どうされたのですか」
驚いた様子の女職員のユイナ。ユイナは若く、年の近いルノとも気が合って、仲の良い職員の一人だった。そしてこの濃霧では他の魔女や魔術師もわざわざユニオンには来ないのだろう。
ルノは用意していた理由を口にした。
「こんなときにごめんなさい。薬を作ったら思いの他できてしまって。中身が変わってしまう前に納品しようと思いまして。今日って納品を受け付けていますか?」
「もちろんです。さ、こちらへどうぞ」
ユイナは納品カウンターへとルノを手招いた。
「それにしてもたくさん作られましたね」
ルノは肩掛け鞄から続々と作成した薬を取り出し、カウンターの上に並べてゆく。
さもこの霧が出ている間、やることがなくて薬を作っていたけれど、霧が全く晴れないで、薬の鮮度は落ちていくし、困り果てて売りに来ましたという風を装う。
本当は確かに薬は作っていたけれど、影の中に入れておけば鮮度なんか気にしなくてもいい。でもユニオンにはこの肩掛け鞄はルノの師匠から渡された、見た目以上に物が入る鞄と説明してある。
影の力を覚られ、ルノが影の竜の子であるということを知られたら、ルノはもうユニオンにはいられないだろう。
ルノの脳裏に、あの美しく青い晶石が過ぎる。
「どうされましたか?」
考え事に没頭していたルノは、不思議そうに顔を覗き込むユイナに声をかけられ、はっとした。
「ごめんなさい、なんでしたか?」
「何か難しい顔をされていましたが、何かありましたか?」
ルノは慌てて首を振った。
「大したことじゃないんです。この霧晴れないかなって」
「そうですよね。この霧何なんでしょうね!? 全然晴れてくれないし!」
「季節的なものでしょうか? たまたま霧が残りやすい天気になっていて、とか」
「違うでしょう」
ルノの背中に、突然第三者の声が投げられて、二人が振り返る。
「奥様!」
「エルウィン様!」
ルノもユイナもそれぞれエルウィンに対して礼をとった。
「楽にして頂戴。話し声がしたから覗いてみたのよ。納品にいらしたのね」
「はい。薬を作りすぎてしまいまして」
エルウィンは背筋がピンと伸びた、厳しそうな女性だ。ユニオンの長を勤めるほど敏腕な女性で、魔女としての実力も群を抜いている。彼女を前にしてしまうと、別に疚しいことはないけれど、叱られるのではないかとルノは萎縮してしまう。
「そうなの。では今度は薬の保存に関する魔法を学んでみてはいかが? 役に立つはずでしょう」
「ぜひそうさせてもらいます。ところでこの霧、エルウィン様はどうお考えですか?」
ルノが尋ねると、エルウィンは一呼吸置いて言った。
「長話になるでしょう。まずはこの取引を終わらせ、二階でゆっくりとお茶でも飲みながら話しましょう」
エルウィンはカウンターの向こうのユイナにも声をかけ、お茶へ誘ったので、彼女はパッと花咲くように顔を綻ばせた。途端に納品作業の手が早くなる。別にそれまでは急ぐ理由もなく、いつも通りやっていたのだが、エルウィンにお茶に誘われたのなら、一刻も早く片付けようと考えたのだろう。
エルウィンを待たせてはいけない、というわけではない。
エルウィンのお茶会では美味しくて普段目にすることもできない異国の茶葉や高級な菓子をつまめる。願ってもない幸運だ。
手早く納品を終え、ルノとユイナは二階のエルウィンの下を訪れると、どんよりとした外の陰鬱さを吹き飛ばすような、色鮮やかな菓子の数々だ。
ルノもユイナも、思わず目を輝かせた。
「わぁ! すごい! エルウィン様、ありがとうございます」
「さぁ、座って。お茶も丁度いい頃なのよ」
二人はいそいそとエルウィンの向かいに腰を下ろす。給仕が丁寧に丁寧にお茶を淹れ、二人の前に置いた。
ほんのりと果物の香りがする。南にある皇国からの輸入品のようだ。
「ルノも、あなたも、今日はご苦労様。大したものではないけれど、楽しんでいって頂戴」
「ありがとうございます」
ルノとユイナの声は重なった。
「そうだわ、ルノ。あなたが前に提供してくれた魔法なのだけれど」
「ごめんなさい、どの魔法でしょうか」
ルノは知りうる限りの魔法をすでにユニオンに提供していた。それがユニオンの加入条件でもあったからだ。
「あなたが大火を鎮めた魔法よ」
「水を上空から降らせる魔法ですね?」
「そうよ」
刺青の魔女フレイヤがラナケルに残した魔法陣だ。ユニオンではすっかりルノの魔法になっていて、その魔法の話をされると少々居心地が悪い。一応この魔法はフレイヤという魔女が作ったものであると伝えてあるが、ユニオンとしては開発者より提供者を重視するようだ。
フレイヤは仲間じゃなくて、ルノは仲間ってことが大きいのかもしれない。
「あの魔法、製塩に使っていたでしょう? でももっと効率的に作業するために手を加えたいの。だから魔法ごと買い取りたいのだけれどいいかしら」
「あんな魔法でよければぜひ。願ってもないことです」
あの魔法はまたもルノを助けれくれた。魔法の権利の買取ということだから、今後魔法が使われても使用料を受け取ることはできないけれど、それなりの額がまとまって入る。元はただ同然で手に入れた魔法だ。金になるなら願ったり叶ったり。悪いことなんて何もない。
「それならこの話はこのまま進めましょう。事務方にもそう指示を出しておきます。ユニオンもあなたのような優秀な魔女を迎えられて、本当に喜ばしいことです」
「ありがとうございます」
きっと半分、いいや大部分はお世辞だろう。ユニオンにはもっと優秀な魔女が何十人も在籍している。彼女たちの発明や魔法が、オルミスやオルミスの海運を大きく発展させたということは、ここに来てすぐに知った。
それにしてもエルウィンは丁寧だった。
ユニオンに提供された魔法というのは自由に手を加えてもいい事になっている。わざわざ現在の権利者に伺いを立てる必要などないのだ。それをあえてした、ということは彼女なりの誠意なのかもしれない。
「そうです、エルウィン様、この霧って……」
職員のユイナが切り出した。
「そうでした。この霧、この辺りでは霧なんて珍しくもないけれど、これほど長くあり続けるなんてこれまでありませんでした。遠目の魔法を使ってみたら、オルミスの街とその港、沖合い全てをすっぽりとおおっていたのです」
遠目の魔法は、確か魔法で遠くのところのものを見る魔法だった。エルウィンの系譜の魔法で、エトも使えたはずだ。壁などの障害物や、距離や高さも無視して、見たい場所の今を目にすることができる大変便利な魔法だった。
ルノは系譜が違うことと、その魔法がとにかく難しいことから、早々に習得を諦めた。また気が向いたら、頑張って習得するかもしれない。
「かなり広い範囲ですね」
「さらにこの五日間、全く晴れることもなく、ね」
「そんなこと、ありえるんですか?」
霧はいつか晴れるもの。それは誰もが分かっていることだ。そもそも霧が出るような季節はとっくに過ぎている。
「もしかして守り神様でしょうか。守り神様って潮の流れを変えたり霧を吐いたりするじゃないですか。何か思うことがあって、霧を出し続けているとか……?」
「私も初めはそう考えました。あの方は気まぐれに霧を吐いては波を立て、人を困らせるのが好きですから」
「でも魚を集めてくれるじゃないですか」
「結果で言えば、ですよ。あの方に飲まれるのを逃れるために魚たちが群れとなって逃げ回っているだけです。あの方は別に人のためにそうしているわけではありませんよ」
「守り神様がこの霧を吐いているってことですか?」
「おそらく今回は違うでしょう」
「でも始めはそう思ったっておっしゃいましたよね?」
「言いました。でもあの方の霧がここまで長く残るのもおかしな話です。あの方が霧を吐くのは地上に顔を出すときだけで、基本的に海底にいらっしゃいます。あの方も魚のようなものですから、水の中でしか生きることができないはずです」
「それじゃあ霧は別のことが原因なんですね? 魔法でもこんなに長く、広くそれに濃くなんて難しいですよね」
「魔法なら、すぐに分かるでしょう。魔力が必ず発せられますから」
「では他に……」
「竜ではないかと私は考えています」
「えっ」
エルウィンの言葉にルノは思わず声を上げた。
「そんなまさか。だって帝国はまだ中央部に進出できていないじゃないですか」
「陸上ではそうでしょう」
エルウィンはまぶたを伏せ、気難しげな顔をした、
「大陸は海に囲まれています。北の海は秋から春先まで凍てつくと聞きますが、帝国が海を渡る術を持たぬということではありません。大陸全てを手にしたい彼らがあらゆる手を尽くして、それを成そうとするでしょう」
「あの、エルウィン様」
「どうしました、ルノ」
「どうして帝国と戦うのでしょうか? 交易とかで友好な関係を築けば、争わずに済むのではないですか?」
「それができたら良いのですが、帝国がそれを望んでいないのですよ。帝国は竜の国です。竜は人や魔力持ちよりずっと長く生きます。だからこそ、我々には理解できないものがあるのかもしれません。まず確かなのは、こちらがいくら和平や同盟を求めてもあちらが拒んでいる。我らと手を組むつもりはないということです。全く、こちらは戦わずに済むならそれでいいのに、困ったものです。それに……、帝国は大陸を南からも攻めようと画策しているようですね」
「南……。南方諸国ですか? あの辺りはいつも争ってばかりって聞きますもんね。帝国が付けこみ易いでしょうね」
「いえ、私は皇国と帝国が手を組んだのではないかと疑っているのです」
「皇国が? どうして」
「目先においしいものをぶら下げたのでしょう。おかげで皇国産の茶葉が手に入りにくくて困ります」
と言いつつ、机の上のポットにはちゃっかりと皇国産の新茶葉が入っているのだから、エルウィンは侮れない。
皇国の産物は茶葉だけではない。果物や果実酒も多くオルミスに流れてくる。しかし、以前に比べてそれが手に入れにくくなったのはルノも気付いていた。その変化はゆっくりと確実に起きていた。もうその変化は明らかで、皇国が以前のような友好的な商売相手ではないと誰もが気付いていた。
「失礼致します。エルウィン様、エト様がいらっしゃいました」
使用人がエルウィンに耳打ちした。
「あら、別に呼んでいませんよ。でも、いいでしょう。通しなさい」
エトは部屋のすぐ外にいたのだろう。使用人にドアを開けられ、部屋に入ってきた。
「失礼します、師匠。って、あれ。ルノ?」
「こんにちは。納品に来ていたの」
「そうなんだ。この霧の中大変だったね」
エルウィンがわざとらしく咳払いをした。
「それで、あなたはここに何しに来たのですか」
「そうだった。師匠、街の人から霧を何とかしてくれないかって言われてて」
「なるほど。そのうちそんな声が上がると分かっていました。他に何か言われていますか?」
「軍の人たちからも似たようなことが。そのうち海上将軍から正式に申し入れがあるかと思います」
「閣下から言われたなら、動かざるを得ませんね。今すぐにでも何か手を打つべきでしょう。さて、何か言い考えはありますか? ルノ」
「えっ、私ですか? えっと……。それじゃあ風で霧を吹き飛ばすのはどうですか?」
「霧の分子を変えるのもいいですよね。結局は水だし」
エトが言った。
「と、なると街全体に魔法を行き渡らせる必要がありますね」
「街全体!?」
以前ルノはラナケルでそれを成したことがある。でもラナケルとオルミスでは文字通り桁違い。とてもできるわけがないと思った。
そう思ったルノに対し、エルウィンは涼しい顔をしていた。
「丁度いいかもしれませんね。あれを試すには」
「あれ?」
「ええ。以前面白いものを手に入れましてね。それをぜひ使ってみたいと思っていたのですよ。エト、持ってきなさい」
「はい」
エルウィンは弟子のエトを小間使いに言うように命じた。彼らの姿が、かつて師匠に同じように使い走りをさせられていたルノと重なる。
小走りに部屋を出て行ったエトが少しすると戻ってきた。両手で抱えられる程度の小箱を手に。
「エルウィン様、それは?」
エトからその小箱を受け取ったエルウィンにルノは尋ねた。話の流れからして魔法に使うものだとは分かったが、それ以上は思いつかなかった。
エルウィンは小箱を机の上に置き、両手で丁寧に蓋を開けた。中に入っているのは宝石か希少なもののようで、エルウィンは絹のハンカチを取り出して、指紋をつけないようにそれを持ち上げた。
心臓が掴まれたような衝撃を受けて、目が釘付けになった。
エルウィンが手にしたそれは、手の平に乗る程度の緑の輝石。若葉の瑞々しい緑に染めたその輝石は、他の何もかもがかすんでしまう美しさを宿していた。
「竜晶石です。北の戦線から送られてきたのです」
エルウィンは誇らしげに、語る。
北、大陸の中央部では大陸を南下しようとする帝国との戦争が長く続いているという。きっとそこで討たれた竜なり竜の子なりの魂なのだろう。
竜はここでは憎き敵であり、その魂は勝利の証なのだ。
ルノはその事実に気付き、言葉を失う。
「綺麗ですね」
ルノにとっては恐ろしいものでも、生粋の王国人にはそうではない。竜に打ち勝った証の美しさに心を奪われている。
「そうでしょう? 帝国と戦争して得られたものの一つですよ。そうは言ってもこれは欠片の一つですがね。欠片でも十分な力を有しています。一度何かに使ってみたいと考えていましたが、これを使うだけのことってなかなか起こらないでしょう? 今回の霧は丁度いい機会です」
あるなら使ってみたい。そんな純粋な思いも、竜の子のルノにとって残酷に聞こえた。
魔女や魔術師、魔力を持つ者たちの魂も、結晶にすれば魔晶石となる。しかし魔力持ちたちはそれを忌み嫌う。仲間の魂を使うなんて、おぞましいからだ。だから竜や竜の子の魂を使うのだ。
彼らの身勝手さが、ルノに激しい怒りを抱かせる。
しかし、その怒りにやり場はなかった。ここで爆発させたら、ルノはどうなってしまうのか、それを考えられるだけの理性はまだ残っていて、ルノは怒りに震える手をもう片方の手で強く握り締めて堪える。
「さて、善は急げです。東の城門で早速使ってみましょう。霧はどういうわけか海の方から来ているようですからね」
オルミスは大陸最西端。街の陸上の入り口は東にある。そこから何らかの魔法を使えば、西から来る霧を何とかできるということだろう。
拳よりも一回り小さな竜晶石を手にエルウィンが立ち上がる。
「さて、ルノにあなたも。私はこれにて失礼するわ。まだお茶とお菓子は残っているから、好きにしていて頂戴。エト、ついていらっしゃい」
「待って、師匠」
部屋を出て行こうとするエルウィンにエトは縋る。
「僕、港からその魔法を見ていたいのですが、いいですか?」
「港から?」
「はい。えっと、ルノと一緒に。駄目ですか?」
エルウィンはわずか目を見開き、エトを見つめた。そしてふと、口元を緩めた。
「分かりました。でもそういうことはルノに聞いてから言いなさい」
「すいません」
エルウィンはどこか含みのある笑みを残して部屋を後にした。ルノの隣に座り、お茶をすするユイナも何やらニヤニヤとそのやり取りを見ていた。
どうして急にルノも港に行くことになっているのか分からないし、エルウィンやユイナの笑顔の理由も分からない。
エトはエルウィンが去ってから、どこか気恥ずかしそうにルノの前にやってきて、目線の高さが合うように片膝をついた。
「その、順番を間違えてしまったけれど、これから僕と一緒に港に行かないか? ぜひ見せたいものがあるんだ」
「今から?」
エトは頷いた。
ルノが何か言う前に、ルノの肩に手が置かれた。隣に座っていたユイナだった。
「行って来たらいいじゃないですか。お茶とお菓子はいつでも楽しめるんだし」
「え、ええ」
彼女に背中を押されるようにルノは立ち上がり、エトが手を差し出す。
ルノはよく分からぬままその手を取り、エトと共に白薔薇の館を出て、西の港へと歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます