第15話

 目が覚めて、瞼を開ける前、頬がどんよりとした空気を感じ取った。


 今日は雨か。


 その考えを肯定するように、鼻に湿っぽい匂いが滑り込む。


「フー、雨降ってる?」


 体を起こしながら、愛猫に尋ねる。黒猫は窓辺で体を伸ばしていることが多い。しかし今日は珍しいことに寝台上の棚にいたそして顔を上げるどころか、目も開けずに答えた。


『分かんない』


 少しは確かめる動作をしてくれたらいいのに。

 ルノは腹いせにプニプニのフーの腹をわしゃわしゃと雑に撫でた。

 靴を履いて、そのまま窓の前に立つ。締め切ったカーテンに手をかけて、一気に引いた。


「わぁ、すごい」


 思わず声を上げてしまう光景が、窓の向こうに広がっていた。ルノの声を聞いて、気になったのか、フーは素早くルノの元に駆けつけて、窓の狭い桟に飛び乗った。


『まっ白だ!』


 窓の外に心を奪われているルノはフーを叱ることも忘れていた。


「霧ね。海から来ているのかな」


 窓の外は真っ白に埋め尽くされ、深い霧がオルミスの街を包んでいた。ルノの部屋は小高い地区にあって、さらに四階だ。オルミスに霧が降りても、ここまで昇ってくることはほとんどなかった。それなのにこの部屋の窓すら霧で埋め尽くされているということは、いつになく霧が濃くて分厚いことを示していた。


「雲の中ってこんな感じなんだ」


 魔女は空を飛ぶ術をまだ知らない。魔法で何とかすれば、飛ぶことはできるかもしれない。もしかしたら、どこかの魔女の系譜ではもう見つけているかもしれない。でもルノもユニオンもまだ知らない。


 でも便利な移動方法はある。


 いつか師匠がルノにやったような転移魔法。高度な魔法で、使える人はそういないとユニオンに入って知った。別の系譜の転移魔法ならばユニオンでも学ぶことはできるが、その魔法を使える人はユニオンではエルウィンぐらいだという。

 エトもいつか使えるようになるんだ、と決意をルノに披露してくれたことがあった。

 そもそも転移魔法が使えれば、空を飛ぶ必要もないか。


「駄目よ」


 こっそりと窓を押し開けようとしていたフーを、ルノは鋭い言葉で引きとめた。


『なにもしてないよ』


 しれっと振り返り、愛想を振りまく黒猫。


「うそ。今出かけようとしてたでしょ。今日は出かけちゃ駄目」

『えー、いやだよ。昨日も一昨日もでてない。つまんない』


 影の中は今、丁度いい。暴走には程遠いし、かといってパンパンに詰まっているわけではない。余裕はあるけれど、空腹にはまだ余裕がある。そのせいか、昨日も一昨日もフーは影の中か、アパートの中で自由気ままに過ごしていた。


「霧が濃い間は駄目。もう少し晴れてからね」

『えー』

「仕方ないでしょ? これだけ霧が濃かったら、前もまともに見えないんだもの」


 外を出歩いている人が、突然現れた黒猫に驚いて怪我でもしてしまったら大変だ。それに霧で何も見えないのなら、フーのつまみ食いがしやすい。そっちの意味でも危ないのだ。


『おなか空いたー』


 不満げにフーは訴える。しかし影はまだ空腹には程遠いことはよく分かっている。フーの食欲は影の容量が空くとすぐに湧くので厄介なものだった。

 フーの食欲のままに影に物を詰めていたら、影は暴走しない代わりに影の満腹でしょっちゅう気を失う破目になる。


「まだ大丈夫でしょ? それに消化も終わってないじゃない」


 生きたままの生物を飲みこんで、影に染めて影の僕にすることを、ルノは消化と呼んでいた。

 以前フーが飲んでしまったアルディオンという青年貴族はなかなか精神力の強い人間なようで、消化が進んでいなかった。ようやく半分が終わったぐらいだ。それとも人間の消化はこれほど時間のかかるものなのだろうか。


 ルノには経験がなくて、判断がつかなかった。

 影の恐ろしいところは、一度取り込んだら、中から出られないこと。出るには完全に影の僕になるしかないのだ。僕となれば、ルノの意思の元、出てこられる。


 フーはどういうわけか、自由に出入りができるようだったが。

 そして例外として、影が暴走したときは僕である限り、出られるようである。

 師匠がルノのこの力を恐れたのがよく分かる。未熟なルノではあんな小さな森の家、あっという間に飲み込んでしまっていたことだろう。


 しかし、影の中にいろいろ詰め込んであるとはいえ、街の中で暮らしていくには、そのうちアパートを出て、あちこち出かけ、人に会ったり、日用品を買い足さなければならない。


 ルノはため息のように息を吐いて、窓の外をもう一度見遣る。


 霧は濃いけれど、そのうち晴れるだろう。しばらくは家で大人しくしていよう。次に誰かに会ったとき、この霧がきっと鉄板の話の種になっていることだろう。

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