第13話
まだ心臓がバクバクしてる。
息を吸っては吐いて、落ち着かせようとしているけれど、まるで鎮まろうとしない。
ルノは心にまだ鮮明に恐怖が残っていることに戸惑っていた。もうあの人はいないし、追いかけてきてもいない。もう、大丈夫だ。自分に必死に言い聞かせた。
今のは、なんだったのだろう。
今までにない、強烈で恐ろしいものだった。
そして不思議なのはその感覚に覚えがあるということ。いつ、この感覚を抱いただろうか。鼓動を落ち着かせつつ、記憶をさらってみる。思い至るのはそう昔ではない。
あれは、初めてシアンに会ったときの妙な親近感に近い。
あのときは「あれ」と思う程度で、今回のものとは比べ物にならない。
あの人も竜の子ということなのだろうか。
綺麗な人だったと思う。でも、なんだか怖い。
ルノはその後しばらくゆっくりと深呼吸を繰り返して、ようやく鼓動を落ち着けることに成功した。
辺りを見回してみると、闇雲に走ったせいか、自分がどこからやってきたのか、すっかり分からなくなっていた。だがここはオルミスなのは間違いない。とりあえず海まで出て、あとは海沿いに歩けば必ず知っている場所に出られるだろう。
○ ● ○
「ルノー」
ユニオンの本拠地兼、エルウィンとエトの邸宅である白薔薇の館を訪れると、エトが真っ先に顔を出した。
「久しぶり。元気にしてた?」
「はい、おかげ様で。エトも帰ってきていたのですね」
「昨日ね。今日は薬を卸しに来たの?」
「それと、レシピの提出も、ですね」
「あ、ネズミ除けの?」
ルノは小さく頷いて続けた。
「少し改良を加えたんです。より効果が持続するようになったんです」
「いいじゃないか」
ネズミ除けは倉庫番のロイスが満足いく結果を得られた。しかしオルミス中に広まるほど画期的な品ではなかったようだ。倉庫の多いオルミスではネズミ除けの需要はある。しかしルノのネズミ除けはその需要に答えられなかった。
改良を加えて、もっと広まるようにしないとルノの懐が潤うことはないだろう。
別にお金に困っているわけではない。影の中には食べ物も素材ももちろんお金だって詰め込んである。しかしユニオンの中での立場として、何かしら代名詞となるような商品を開発したいとは考えていた。
もしかしたら、ユニオンの誰かがルノのネズミ除けを基にしてもっと良いものを作ってしまうかもしれない。ユニオンの辛いところは競争相手がいるところだった。
「そうだ、今日この後空いてる?」
「ええ。お茶ですか?」
エトに誘われてお茶を飲んで楽しくおしゃべりすることはよくあった。今日もそうだと思った。
「ううん、船に乗らない?」
エトは輝くような笑顔でルノを振り返った。
ルノはユニオンでの用事を片付けると、エトに連れられて港へとやってきた。南の港で、商船が何艘も停泊している。
そして停まっている船の中では一回り小さい船の前で足を止める。
「この船、ロイスのとこの船」
「小さいですね」
ロイスのところの海運会社はオルミスでも大きなところだったはずだ。てっきりもっと大きな船が出迎えると思っていた。
「瀬取り用だからね」
「瀬取り?」
「港だと停められる船の数は決まっているだろう? だけど荷は運ばなきゃいけない。だから海上で荷の詰め替えを行うんだ。沖にもっと大きな船が停まっているんだよ」
「へぇー」
どこかで聞いたことがある。確か麻薬や密輸なんかで使われるやり方だったか。もちろん今回は犯罪とは無縁だろうけれど。
「おっ、来たな!」
船上から誰かが顔を出したと思ったら、ロイスだった。船の縁からタラップに回り、ルノたちの下にやってきた。
「よっ、この前はありがとな」
「いいえ。またよろしくお願いします。まだまだ改良の余地がありますから」
「そうだな、何かあったら相談するよ。んで、今日はそのお礼、だ」
「お礼、ですか?」
ルノは驚いた。ルノが提供したネズミ除けはすでに納品し、その代金もユニオンを通じて受け取っている。取引はすでに終わっている。なのにこれ以上何かもらうのはいけない気がした。
「そんなあれは対等な取引で、ちゃんとお代もいただいていて……」
「気にするなって。大したことじゃないしな。ちょっと沖に行って返ってくるだけで、子どもが二人乗ってるぐらい何てことないから」
子ども。ルノはオルミスに来て早一年近く経つが、見た目の成長が全くと言っていいほどなかった。エトは少年から抜け出しつつあるようだったが、まだ子どもと言える範囲の中にある。
「いいのですか?」
「大丈夫だって」
エトが楽しそうにタラップに足をかけた。
「もしかしたら、何か新しいことが思いつくかもしれないだろう?」
「そうだな。仕事が楽になる方法を見つけてくれたらありがたいな」
ロイスも続いて賛同した。
二人がそういうなら、とルノもお言葉に甘えることにした。
「それなら、分かりました。お邪魔します」
ロイスが小走りにタラップを進み、ルノもそれに続こうとすると、さっと前に手を差し出される。
顔を上げると、先に渡ったエトが笑顔で手を伸ばしていた。
「さ、危ないから」
「ありがとうございます」
ルノは特に危ないとは思わなかったが、エトの親切に感謝して、その手に自分の手を重ねた。エトはルノの手をしっかりと握り、優しく引いた。
タラップを渡り終え、ルノが船に乗り切ると、エトはそっと手を離す。
「揺れるから気をつけて」
エトの言葉に、ルノは笑顔で頷いた。
二人が船に乗って間もなく、タラップが上げられ、帆が降ろされた。帆が風を受けてゆっくりと海へ進み始めた。
「あっちって、王国軍の港ですよね」
速度がつき始めた船上から、オルミスの港の北側を占める軍港に目を向けた。市民は海軍基地には近寄らないし、海上でもそれは同じような感じだった。
「ああ。最近はどうもあっちの動きが忙しないな」
ロイスが不安げに口にした。
「皇国か?」
エトが尋ねる。
皇国は王国南部の、大陸西岸の茶葉の主要産地だった。ルノも皇国のアンガリア産の茶葉が好きで、よく買っている。しかし最近茶葉が手に入りにくいらしく、値が少しずつ上がっているのはルノも気になっていた。手に入りにくいのは天候不良だと聞いていたが。
王国は大陸を横断するように広がっている。まだ王国まで至っていないが、帝国の南下の壁ともなるだろう。だが同時に南方地域の北上の壁ともなっていた。少なくとも、陸路では北方南方共に王国を通らないと交易もできないのは、面白くないと考える人間もいるだろう。
そのせいか、王国周辺国で海に面している国は王国を迂回できる海路への進出は必須だった。
王国もそういうのも利用しようと、西岸のオルミス、東岸の王都と大陸屈指の大港を所有し、船の経由地としても知られるようになっていた。
「おそらくな。商人たちも警戒してるみたいだ」
ルノは王国海軍港や、波間を眺めつつ、二人の会話に耳を傾けた。
「何が原因だ?」
「噂があってな。帝国が皇国を支援してるって」
ロイスの言葉にエトは耳を疑う。
「本当か?」
「帝国かは定かじゃない。でも誰かが皇国に資金を流しているのは間違いないだろうな。ここ数年で皇国の船が良いのになっているらしい。一つや二つじゃない。まとめて、だ」
「すごい話だな。金脈でも見つけたってわけじゃないんだろう?」
「金が出たならとっくに落とされてるって」
どうやらロイスは小さな倉庫の倉庫番だけでなく、海運会社の別の仕事に借り出されることがあるらしい。そのせいかいろいろなことを見聞きするらしく、オルミスの海上情報に明るかった。
「直接的に何かあるってわけじゃないが、船乗りたちの間じゃ、皇国が海で何かしようとしてるって専らの噂だ。海軍にはもうちょっとしっかりして欲しいよな」
「大丈夫じゃないか? こっちには海上将軍がいるからな」
それはルノも聞いたことがあった。確か王国海軍西岸司令部のトップだったはずだ。
「だとしても、帝国が今の王国を攻めてこないとは言えないぜ?」
「そうだな。大陸の中央では今帝国とカナス公国が戦っている。王国からも友軍を派遣してるし、陸路で南下は難しいだろう。帝国が王国を攻めるなら海か南から、か」
「さすがだな」
「これくらい、できないと困る」
当然だ、とエトは肩を揺らした。
「頼もしい限りだ。だが、エトの言う通り、海は海上将軍がいるから大丈夫だろう。でもそれは西岸の話だ。東岸はどうする?」
「東岸はここからじゃ遠い。何日かかると思っているんだ? そっちはあいつらがやってくれるだろう?」
そのときだった。
波間の向こうから、ゆっくりと近づいてくる影に気が付いた。大きさからして鯨だと思った。
ルノは船の手すりに両手をかけ、海を覗き込んだ。そんなルノにエトとロイスが気付いて同じように海を覗き込む。
「あれって、鯨ですか?」
もう鯨が入れるぐらいの沖に来たのだろうか。
「いや、あれは鯨じゃない。鯨はもっと沖の、海底が深いところに行かないと」
海中の巨影は歩くような速さで、船の下に潜り込む。通り過ぎるとき、船が大きく揺らぐ。足元が覚束なくなったルノの左腕をエトが掴んで支えた。
「ありがとう」
エトは笑顔を浮かべる。
木製の手すりにしがみついていたロイスが驚いた様子で言った。
「ツイてるな。守り神様だ」
「守り神様?」
「ああ、ずっと昔からこの海に住んでる大海蛇だよ。いつもはもっと深いところにいるんだが、たまにこうやって水面まで上がってくるんだ。守り神様が上がってくると魚も上がってくるって言われていてな。漁師たちはありがたがっているんだ」
ルノは感心の声を上げる。隣のエトも海を覗き込んで驚いていた。
「話には聞いていたけれど、ここまで大きいとはね。霧を吐くのも守り神様だったよな?」
「ああ、気まぐれに吐いて、海底に戻っていくらしい」
オルミスではたまに海から霧が吹きあがり、数日晴れないことがある。最初は驚いたものの、さすがに慣れてきた。その霧で船が出られなかったりするために漁師や船乗りたちは頭を悩ましていることだろう。
しかしその霧が守り神とされる大海蛇が吐いているものとは知りもしなかった。
海蛇って霧を吐くんだ、と思ったぐらいなのだ。こっちの世界では知らないことが山どころか星のようにある。
「また霧が出るかもしれないな」
「だな。漁師たちは魚が獲れて喜ぶだろうけどな。霧が出る前に漁に出るしかないだろう。さて、俺たちも早く瀬取りを済ませちまおう」
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