第2話

 絶対絶命だった。


 エトは利き腕である右の肩を後ろから切りつけられ、左腕で右肩を抱く。血で服を赤黒く染めるエトを五人の男が刃物を片手に取り囲んでいた。

 男たちは皆一様に黒い服を着込み、顔も目の部分だけ切り込みのある頭巾を被っている。

 盗賊ではないだろう。彼らの出で立ち、振る舞い、エトはよく知っていた。彼らは殺しの術を心得た暗殺者だ。


 五人の内の一人が、血の滴る刃物を握っている。その者がエトを背後から切りつけたのだろう。暗殺者たちは舌打ちしたいに違いない。この一撃はエトの不意を突き、確実に仕留めるものだった。だが直前にエトが気付き、体をよじって、刃物の軌道から心臓を外すことができた。それでも利き腕をやられ、囲まれているから、彼らのほうが有利だった。


 魔法で結界を張り、暗殺者との接触を拒む。

 しかし大怪我を負ったエトは魔法が不安定で、何とか結界を張れたものの、いつ消えてしまうか分からない。さらに結界の強度も集中できなかったためにいつもより弱くなっている。そのことは暗殺者に覚られてはならない。


 結界を張れるだけの余力があると、彼らに示して牽制する。

 彼らは見るからに殺しの玄人。殺しの手段が刃物だけとは限らない。


 それにしても、買い被られたものだ。


 まだ十四の魔術師見習いのエトに、五人もの刺客を送り込むとは。奴らはよほどエトを消したいらしい。過剰なおもてなしに、思わず笑みがこぼれる。わずかな動きが肩の傷に響いて、顔が歪む。


 それがきっかけとなって、五人の暗殺者はそれぞれの刃物を構え直す。

 彼らは結界を力任せに打ち破る方法を取った。

 一人が結界を斬りつける。当然結界は弾くが、動じず刃物を振り下ろし続ける。

 エトは一人であるが、暗殺者は五人。結界は攻撃を弾き返すだけで、相手を殺すことはできない。そして結界にも受けきれる限界はある。一人がその限界まで迫り、残り四人でエトに止めを刺すのだろう。


 だから五人も送り込まれたのか。数で押せば必ず仕留められるだろう、という考えで。

 話に聞くとおり、彼らを送り込んできた奴らは用心深いようだ。おそらく刺客の誰かか、全員があの魔女にいろいろ吹き込まれているに違いない。


 結界はエトが思っていたより早く限界を迎えた。泡がはじけるときのように結界は一瞬で消え去ってしまう。瞬間、暗殺者たちが動く。一斉にエトに切りかかった。

 しかしいつまで経っても痛みも衝撃も起こらなかった。

 エトは不思議に思いつつ、いつの間にか閉じていた両目をそっと開く。


 暗殺者たちはいた。五人ともそれぞれの刃物を構えて臨戦態勢であるが、彼らの目は別のところに向けられていた。

 エトは彼らの目線を追って、目を下ろすと、五人の暗殺者とエトの間に小さくて黒いものがあった。いや、いた。


 一匹の黒猫だった。


 その黒々とした毛並みは強い日差しによって生まれる深い影の色をしていた。たいてい黒い毛を持つ猫というのは、黒曜石のような光沢を持っているが、その猫は光を嫌うように日差しを受けても毛を輝かせることはなかった。決して毛並みが悪いというわけではない。ただ、そこだけ切り抜かれたように不自然に浮いていた。


 その異質さが暗殺者たちの目をひいたのだろう。


 エトも突然現れた黒猫に――――本当に黒猫かどうかも怪しい――――注目する。


 もしかして魔物だろうか。このマグノリアの森に魔物がいるなんて滅多に聞かないけれど、ありえない話ではない。この森もかつて魔女が住んでいた森だ。その魔女が育て、広がった森。だから彼女の名前がついている。


 それまで張り詰めていた空気が変わる。

 黒猫は五人の暗殺者たちを見上げ、エトに小さな背中を向けていた。長い尻尾をゆらゆらと体の上で揺らしている。まるでじっくりと暗殺者たちを見定めているようだった。

 まさかエサでもねだろうとしているのだろうか。

 猫は恐ろしい生き物だ。自己中心的で、その場の空気を支配してしまうのだから。


 あの黒猫は何なのだろう。


 魔物かと思ったが、魔力は感じない。ただの猫にしては、異質だ。少なくともあんな奇抜な猫、エトは見たことが無い。


 黒猫が動く。


 音も無く、軽やかな足取りで暗殺者の一人の足元へ向かう。まるで警戒心の感じられない自由な仕草。

 だから次に起こったことが理解できなかった。


 黒猫はその頭を突如投網のように広げ、暗殺者の一人を捕らえた。捕らえた途端にその頭部は元の猫の形に戻り、暗殺者は消えていた。


 さすがにこれには他の暗殺者たちもどよめいた。

 エトだって、我が目を疑うしかない。あの黒猫は一体何をしたというのか。何度確かめても魔力は感じない。魔物でないとしたら、あれは何なのか。


 暗殺者の一人は仲間思いだった。もしかしたら、ただ怖かっただけなのかもしれない。黒猫に手にした刃物を振り下ろした。だが、その刃物が黒猫に届くことは無く、先ほどと同じように黒猫は頭部を投網のように変化させ、また暗殺者を飲み込んだ。


 そう、飲み込んだのだ。飲み込んだはずなのにその黒猫のお腹が膨れることはなかった。そもそも猫は人を食べないじゃないか。よほどお腹が空いていたなら分からないけれど。


 黒猫は暗殺者を二人飲み込んだだけでは飽き足らず、次々に暗殺者を飲み込んでいく。五分もしないうちに、黒猫は四人の暗殺者を平らげてしまったのだ。


 そして黒猫はエトを振り返る。

 黒猫は口の周りを小さな桃色の舌で湿らした。

 ついにエトの番か。暗殺者についに殺されるとは覚悟していたが、まさか奇怪な猫に飲まれるとは思いもしなかった。


 せめて、最後に父が帰るのを待ちたかった。


 エトの瞳から一滴の涙が零れた。


 だが、エトの耳には少し先の茂みが揺れる音が届いた。

 再び知らぬ間に閉じていた目を開けると、そこに黒猫はいなかった。さっきまで暗殺者がいた向こう側の茂みがかすかに揺れている。猫がゆっくりと歩いていくと辿り着く距離だ。

 そのとき、恐ろしい考えがエトの頭に過ぎった。


 どこへ行くのだろう。


 信じ難いことに、あの黒猫の後を追おうという意欲がとめどなく溢れてくるのだ。危険過ぎると頭のどこかで警鐘が鳴るも、好奇心には敵わなかった。

 エトは右肩を庇いながら、触れる茂みが騒ぐのも気にせずに黒猫の小さな背中を追った。

 黒猫は途中何度か振り返り、追いかけるエトに気が付いていたが、近づいたり飲み込んだりすることはなく、気分を害した様子も無く、歩き続けた。



 そして、黒猫がついに行き着いた先には、一人の少女がうつ伏せで倒れていたのだった。

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