第14話

 あ、あの人って。


 ルノが大通りに出ると、見覚えのある後姿と背負う剣が目に留まった。それは先日ルノの下を訪れ、剣に付呪を頼んだあの男だった。彼は大通りの人の流れに合わせてゆったりと教会前の広場に向かって歩いていた。


 まさか、ね。


 さすがに収穫祭で周辺の農村からも人が集まり、混雑した中で馬鹿なことはしないだろう。だが妙に気になった。彼が大柄で、剣を背負っているのがはっきりと見えたからかもしれない。いや、鎧を着ているからだ。戦う準備が整っている。


 鎧を着ている彼は、人ごみの中でも浮いていた。


 ルノはいつの間にか男を追うように歩いており、彼が一人ではないことに気が付いた。男の隣にスカーフで頭を覆った人物がいて、どうやら一緒に歩いているようだった。背丈や体つき、歩き方を見ても、女性で間違いないようだ。


 人ごみの中から頭を突き出した男の様子を見る限り、二人は話しながら歩いているようだ。

 そのとき男の方が道をそれ、あっという間に大通りから姿を消す。鎧を着込み、剣を背負っているのにも関わらず、身軽な動きで、彼がその格好に慣れていることが伺えた。


 体格の差から、もうルノは彼に追いつけないだろう。だとしたら男と別れても人の流れに合わせて、ゆっくりと大通りを進む同伴の女を追うべきだ。幸い、彼女はルノに気付いていない。


 あの女も、仲間だろうか。


 スカーフで頭を覆った女は、大通りの両側に立ち並ぶ屋台に一切目をくれず、真っ直ぐ教会前の広場を目指していた。もしかしてルノの疑いすぎで、彼女はただ聖歌隊の合唱を聞くために広場を目指しているのかもしれない。


 疑念が渦巻くルノの視線の向こうで、ちょっとしたことが起こった。

 子どもが彼女にぶつかった。そして解けかけたスカーフを直そうと上げた右手首の内側に、魔女の証が刻まれているのを見た。


 あの男の目的が竜晶石なら、魔女がいたら、手に入ってしまう。


 まずい。あの二人は本気でシアンを狩る気でいる。


 ルノがいち早くシアンのいるであろう広場に向かおうとしたときだ。


「あら、魔女さんじゃない」


 近くの屋台で働いていたおばさんに、運が悪いことに話しかけられてしまった。


「良かった。これ、食べて行って! いつもお世話になっているもの」


 と、牛肉の串焼きを差し出される。


「ご、ごめんなさい。今ちょっと急いでいて」

「あんた、魔女さん来ているよ」


 ルノの言葉はおばさんには届かず、屋台の向こうで知人と酒瓶片手に盛り上がっている主人を呼びつけていた。


 この夫妻は木工屋を営んでおり、仕事柄、ルノの薬によく世話になっていた。そのこともあって、日々のお礼を今このとき返そうと、ルノにサービスを惜しまなかった。おばさんからはもう一本の牛肉の串焼きを渡され、主人からはよく冷えた果汁入りの瓶を渡され、すっかり逃れられなくなってしまった。


 結局ルノは、牛肉の串焼きをもう二本、何とか胃に詰め込んで、あの魔女の後を追うことができた。

 しかし当然見失っており、このときはもう聖歌隊の合唱が迫っているとあって大通りの流れが教会前の広場に向かって動いていた。


 ルノはそのどこか抗いがたい流れに身を投じ、魔女を探すが、教会前の広場に着いても魔女を見つけることができなかった。


 逆に考えてみることにした。

 シアンを先に見つけるのだ。魔女監視官とはいえ、普段は司祭として働いている彼だ。今この広場にいる可能性は高い。


「フー、いる?」


 さすがにルノ一人では大変だ。幼い体は人ごみの中で人探しに向いていない。ルノは鼻のいいフーに手伝わせることにした。彼ならいつも氷をくれるシアンが大好きだったので、すぐに見つけてくれるだろう。


『なに?』


 フーはすぐにルノの前に現れた。口の周りがアブラトカゲの油でテカテカしていたけど、今は叱っている場合ではない。


「シアン様を探しているの。手伝って」

『シアンならあそこにいるよ』


 フーは尻尾である方向を示す。ルノは人ごみの隙間から、確かにシアンらしき人物を見つけた。


「フー、行くよ」

『なんで?』


 首を傾げる彼を置いて、ルノはシアンの下へと向かう。しかしシアンに近づくと、その傍にあのスカーフが覆った頭がチラつく。何かを探すように首を動かしていた。

 まだ彼女はシアンを見つけていないようだ。


 なら、まだこっちのが有利。


 ルノは聖歌隊の合唱を聞くために集まっている人の間をすり抜けて、シアンの下を目指す。このときばかりは小さい自分の体がありがたい。そして、人ごみの中をスルスルと突き進むルノは、人ごみがいい隠れ蓑になって、気付かれにくいだろう。


 あの魔女はルノが魔女だと知らないはずだ。見た目も子どもだし、知らなければ魔女と分からない。


 ルノは人ごみの中をかき分けて、遠回りでも目立たないように聖歌隊から少し離れたところに控えているシアンに近づく。

 ついに聖歌隊がその口を開き、美しい歌声を広場に響かせ始めた。


 そのとき、シアンの後ろにあの鎧を着込んだ傭兵の男が立っていることに気付いた。今の今まで彼のことを忘れていたのだ。


 教会前の広場の、石畳が敷き詰められた地面に、あの剣が叩きつけられる。轟音が歌声をかき消し、人々に驚きとどよめきが広がった。


 やがて悲鳴がかすかにあちこちから上がるものの、恐慌に至ることはなかった。

 数人の衛兵が暴漢に対処しようととび出し、衛兵の邪魔にならないように、あるいは暴漢から逃げるようにその場所を遠ざかるように人が離れていった。離れていく人の中にシアンの姿もある。


 このチャンスを逃してはならない。ルノは遠ざかる人の流れに逆らいつつ、シアンの下にようやくたどり着いた。


「シアン様」


 ルノが顔を真っ赤にして駆けつけると、シアンが目を丸くする。


「どうしたの、ルノさん」

「あの人、シアン様を狙っています」

「この前の手紙のやつだな?」


 シアンはすぐに気が付いた。

 そして険しい顔つきになって、暴漢とそれに対処している衛兵の下に向かおうとした彼を引きとめた。


「ルノさん?」

「反魔法をかけます。そうすれば、魂を捕らえる魔法を防げますから」

「頼む」


 ルノは咄嗟に掴んだ彼の腕を放し、両手に魔法の光を宿した。その光をシアンに振りかけようとしたとき、どこからか硬いものが飛んできて、ルノの手の甲に当たり、ルノは痛みで魔法を散らしてしまった。


「余計なことをしないでくれる?」


 女の声がした。手の甲をもう一方の手で包み込み、顔を向けると、ルノが追っていたスカーフの女がそこにいた。いつの間にか聖歌隊の合唱を聞きに集まっていたラナケルの住民や祭りの見物人は街の衛兵たちの手により、広場から避難させられたようで、辺りはがらんとしていた。


 そして特設舞台で並んでいた聖歌隊も、教会の中に逃げ込んだようだ。

 教会前の広場には、暴漢とそれを対処しようと取り囲む衛兵と、ルノたちしか残っていない。広場の向こうから、応援の衛兵が駆けつけた。


「君は……」

「久しぶりね、シアン」


 女がスカーフを取り払うと、美しく艶やかな金髪が露となる。押さえつけられていた髪が花開くその瞬間のように広がる。雪のように白い肌に、リンゴのように真っ赤でぷっくりとした唇。しかし、ルノは思わず身を引いた。彼女の顔はとても美しい。うらやましいまでに完成された美。しかし、まるで仮面舞踏会で被る仮面のように、顔の上半分を黒く緻密な刺青で覆われていたのだ。


 美しさと、恐ろしさが同じ場所に存在した。


「君は、フレイラ? どうしてここに……」

「あなたの魂をもらいにきたのよ。今度こそ、必ず」


 魔女フレイラの形のいい唇が、いやらしく釣りあがる。

 フレイラという名前は、前のラナケルの魔女の名前だ。では彼女が前の大紅葉の屋敷の住民というわけらしい。


「諦めの悪い人だ」


 シアンの顔が静かな怒りに染まる。

 二人の間に流れる緊迫した、怒りと欲望に満ちた空気は、明らかに恋だの愛だのという浮ついたものではなかった。まさに、修羅場、戦場のそれであった。


 ルノは、二人の絡み合う視線から火花が散っているような幻を見た。


「エンブリー!」


 フレイラが叫ぶと、衛兵に囲まれていた傭兵が、付呪が施された剣を大きく振り回し、衛兵を蹴散らした。


「うわっ」

「おおっ」


 剣を振るう度に、火が剣の周りを舞う。ルノが施した付呪効果だ。こんなことに使われるのなら、やらなければ良かった。後悔しても遅かった。

 ルノはシアンを守るための、反魔法をもう一度試みる。


「うっとうしいわね」


 フレイラが足の爪先で、石畳を二回蹴る。そして彼女の左右に、一つずつ光り輝く魔法陣が独りでに描かれて、その中から一体ずつの見覚えのある大黒トカゲが現れた。


「火蜥蜴(サラマンダー)」


 ルノの口元が引きつった。ルノ自身は戦う力はほとんどない。全くできないことはないけれど、専門外であるのは間違いない。


「フー」


 黒猫はルノの足にそっと体をすりよせた。


「あいつら、食べて良いわ」

『あんまりおいしくなさそう』

「好き嫌いしないの」


 フーは渋々、トコトコと前に歩み出た。


「あら可愛らしいわね。そんな猫ちゃんで何ができるのかしら?」


 二匹のサラマンダーは脅かすようにフーに迫る。フーは驚き、声を上げて飛び跳ねた。サラマンダーは面白がるようにそれを何度も繰り返し、サラマンダーの召喚主も小さく吹き出した。


「無理しない方がいいんじゃない?」


 だが、フーの逆襲はこれからだ。フーは口を、まるでたこか蛇のように広げ、猫の輪郭や骨格を無視して、サラマンダーを二匹まとめて生きたまま、丸呑みにしたのである。


 フレイラはぽかんと口を開け、衛兵を蹴散らしてフレイラの下にやってきていた傭兵の男エンブリーは肝が据わっているのか、口笛を吹いた。


 二匹のサラマンダーを丸呑みにしたフーは満足げにゲップをした。


「ただの猫じゃないってことね」


 フレイラは目を細めた。瞼の上にも緻密な刺青が入っている。フレイラは同時にいくつもの魔法陣を描き出し、無数のサラマンダーを召喚した。

 召喚魔法は、自分と契約した生物を魔法陣で連れてくるというもの。それを同時に複数使える。それだけで、フレイラが並外れた魔女だと分かる。

 魔法陣を用いた魔法を、最近ようやく会得したルノにしてみれば、フレイラは化け物のように思えた。


 サラマンダーは一斉にフーに襲い掛かった。


「フー!」


 さすがのフーも、一度に何匹も迫られればどうしようもない。そして、ルノがフーに気が向いている間に、シアンも足元に紫色の輝きを放つ魔法陣が広がっていた。

 シアンは魔法陣を崩そうと、地面から石畳を砕いて、氷を突き上げた。魔法陣さえ崩せば、魔法は発動できない。


「遅いわよ」


 不敵にフレイラが笑う。魔法陣から発せられた紫の光が、シアンの体に宿り、シアン自身が淡く紫の光を放ち始めた。


 間に合わなかった。


 彼の魂は、フレイラの魔法に捕らえられてしまったのだ。


「エンブリー」

「分かってるよ」


 エンブリーは捕縛しようとするラナケルの衛兵をいとも簡単になぎ払い、鎧を着込んでいるとは思えない素早さでシアンの前にとび出した。


 まずい。


 今のシアンは魂が魔法によって掴まれている状態。魂が中に留めているのは彼の肉体が魂の檻になっているからだ。本来魂は肉体の死を迎えると、解き放たれる。解き放たれた魂を魔法で捕らえるのは難しく、魂を晶石にするのであれば、魂が肉体に留まっている間にするのがずっと簡単なのだ。


 そして、魂を魔法で捕らえたら、あとは肉体を壊すだけ。


 シアンは氷でエンブリーに応戦するものの、エンブリーの剣は火を付呪されている。ルノは仕事はきちんとやるのが主義なので、シアンの氷を剣がバリバリと砕いていくのをただ見ていた。

 シアンが氷柱を突き上げ、エンブリーが横一文に剣を振る。


「最高の切れ味だ」


 エンブリーは満足げに、満面の笑みを浮かべた。

 フーは苦戦しつつも着実に迫り来るサラマンダーを平らげてゆく。そしてそれは有難い事だけど、予期せぬ危地が迫っていた。


 ルノの影の中の余裕がなくなっているのだ。

 サラマンダーが大きすぎるのか、それとも元々影の中に物が多く入っていたからかは分からない。今日の屋台の食品も少なからず影響しているだろう。


 ともかくルノの別腹、ルノの影は満ちつつあった。このままでは暴走して、影の容量を無視して牛と牛車を飲み込んだときのように、気を失ってしまう。影の中が満ちつつあり、ルノは満腹感に苦しめられ始めていた。


「うらあぁぁぁぁぁぁ!」


 気合の絶叫と共に、エンブリーは剣をシアンの頭に叩き付けた。


「シアン様!」

「よくやったわ」


 ルノの悲鳴とフレイラの歓喜の声が重なった。

 シアンの体はその場に崩れ落ちる。そしてフレイラがローブの裾をはためかせて彼の下に駆け寄った。

 頭から血を流すシアンの胸の上に青く輝く結晶が現れた。シアンの瞳と同じ色をしていると思った。そして目と心を奪う、ただため息しかない、どうしようもない美しさがそこにあった。


 竜晶石が、そこにあった。


「ああ、本当に、本当に…………綺麗」


 魔女フレイラはその美しさに艶かしい感嘆をもらす。


「こりゃすごいもんだ」


 エンブリーも剣をぶら下げたまま、見惚れている。


「いたぞ、魔女だ」


 その竜晶石に見惚れていた一同はハッとして、声のしたほうを振り返ると、教会兵が駆けつけたところだった。ラナケルの衛兵から応援要請があったのかもしれない。


 真っ先に動いたのはフレイラだった。頭に被せていたスカーフを取り出して、それでシアンの竜晶石を包み、立ち上がって、教会兵の来ていない大通りに向かって走り出した。さすがラナケルの前の魔女だけはある。ラナケルの地理をしっかり覚えていた。


 エンブリーも遅れてその後を追う。


 ルノも竜晶石を取り戻そうと、慌てて追いかけようとすると、シアンが自分自身を守るために砕いた石畳の隙間に足を取られ、派手に転んだ。


『ルノ、だいじょうぶ?』


 フーが主の下にやってきた。


「ええ、まあね」

「ルノさん、大丈夫ですか?」


 ルノが起き上がる間に、五人ほどの教会兵が魔女フレイラとエンブリーを追い、別の顔なじみでもある教会兵の一人がルノの前で膝を付いた。


「大丈夫です。フレイラを追わないと」

「今、向かっています。ラナケルの衛兵もいますから、必ず捕まりますよ」


 そう教会兵は言うものの、教会前の広場には、エンブリーにやられた衛兵が十何人と転がっている。

 結局のところ、衛兵は街の治安を守るのが仕事で、戦いを生業とする傭兵とは実力が別次元だったのだろう。


 そして、まだ終わっていなかった。

 視界のあちこちで同時にいくつもの魔法陣が出現し、その中からフーがやっとのことで平らげたサラマンダーが何匹も這い出てきたのである。


「なんで!?」

「サラマンダー! 全員剣を抜け」


 教会兵の隊長は冷静に対応する。時に人々に危害を加える魔女や魔術師とも戦う彼らにとって、魔法生物の対処は朝飯前であった。

 すぐに召喚されたサラマンダーと教会兵の交戦が始まる。


「ルノさん、教会の中へ。石でできているから、燃えません」


 教会兵は、もちろんルノが戦える魔女ではないと知っていて、ルノを避難させようとした。


 ルノは頷き、教会兵はルノの手を引いて走り出した。

 サラマンダーは火を吹き、教会前の広場にあった瓦礫をあぶり始めた。

 魔女フレイラの足止めだろう。

 ルノは突然大量に召喚されたサラマンダーの目的を覚る。本当に無茶苦茶な人だ。これだけサラマンダーを使役するっていう十分な力があるのに、竜晶石を求めるなんて。


 そのとき、広場に面する建物の壁に炎が駆け上った。

 サラマンダーの攻撃かと思ったが、どうも違う。サラマンダーの火にしては、広すぎる。


 どうして。


 ルノは火が駆け上がった原因を何となく考えてみた。どうしようもない現実から、意識を遠ざけようとしたのかもしれない。


「あ……」


 ルノはあることに気が付き、ぞっとした。


「ルノさん、急いで」


 突然足を止め、手を振り払ったルノを、教会兵は不審そうに振り返る。


「待って、まずいんです」

「どうしたんですか。今すぐ避難を」

「そうじゃないです。すぐに火を消さないとみんな燃えちゃう」

「大丈夫です。この街の建物のほとんどが燃えにくい石でできていて、サラマンダーさえ片付ければ」

「油があるんです。トカゲの!」

「トカゲ……?」

「この街にいるトカゲ、アブラトカゲの。あれの油が街中の壁に残っていて、それに火がついたら」


 ルノはつっかえながらも何とか言葉を紡ぐ。


 そう、この街はアブラトカゲの巣窟だった。あちこちにトカゲの残した油がそのまま残っている。壁や屋根は石でも窓やドアは木だ。しかも窓にはガラスがはめ込まれていて、熱に弱い。

 その窓が燃えて煙が中に入ったら? 安全と思って閉じこもっている人たちはひとたまりもない。

 そしてルノが言わんとしていることを説明するように、教会の外壁に残っていた油を伝って、火が駆け上る。傍の窓ガラスが一斉にけたたましい音を立てて割れた。


「でもサラマンダーを放置できませんし、消火活動なんてとても」


 この街は上水も下水もすべて地下にある。そして、石の壁に安心しきって、火事に備えた設備すら用意されていない。


「雨でも降ってくれたらいいんですけどね!」


 教会兵のやり場のない怒りと焦りからか、ルノに意地悪く吐き捨てた。

 しかし今の時期は雨が降らず、晴天が続く。空気も乾燥していて、火が広がりやすい。


「待って、雨……!」


 ルノはあることを思いついた。雨を降らせることはできる。でもそのためにはとにかくたくさんの水が要る。


 視界の端に、シアンの亡骸が入り込んだ。


 水はある。


「できます。雨を降らせます!」


 ルノは教会兵に笑顔で宣言した。


「無茶なことは言わないでください。とにかく教会の中に」

「お願いです。やらせてください。本当に雨が降らせることができるんです。信じて」

「ですがね、そんな魔法聞いたことがありません」

「魔法はいくらでも自由に作り出せます。そういうものなんです。ダメだったらすぐに教会に逃げます。だから、三分、いや一分でいいんです。やらせてください。うまく行ったら、サラマンダーも弱らせられる」


 渋面を作り、本心から不本意な様子で、教会兵は言った。


「分かりました。三分だけです」

「ありがとうございます」


 ルノは肩掛けカバンの中に手を突っ込み、木炭を取り出す。これで魔法陣を描こうと思ったのだ。しかし、いつもは広くて平らな広場の石畳みも、これまでの戦闘ですっかり物が散乱し、十分な大きさの魔法陣を描くことができそうにない。

 一瞬悩んだものの、すぐに妙案が思いついた。


 ルノは自分の中から、フーが勝手に食べて増やしてしまった、影の僕となったトカゲを大量に出した。トカゲたちは折り重なり、段差を埋めて、不気味で歪だけれど、十分な大きさを持つ魔法陣をその体で描き出した。


 その時点ですでに三分は経っていたけど、何が起こるのか気になるのか、それとも忘れてしまったのか、教会兵は何も言わずにルノの行動を見つめていた。

 さすがに忠実な僕でも、トカゲに魔法陣の細かい術式は描けない。ルノは手書きでトカゲの円の中に文字を書き足し、ついに魔法陣が完成した。

 そして、この魔法で最も大事なもの、上から降らせる大量の水。


「フー!」


 ルノが呼びつけると、黒猫は大人しくお座りをしていた。


「魔法陣の中に」


 フーは猫のしなやかですばしっこい動きで、ルノの要望通りの位置に移動した。

 魔法陣は描き終え、フーも所定の位置にいる。あとはルノの腕次第。


 ルノは魔法陣の傍に立ち、一つ大きく深呼吸する。


 大掃除のときに見つけた、雨を降らせる魔法の用意が全て整った。

 この魔法は、この状況を作り出した魔女フレイラが作ったものなのだろう。雨を降らせるために、大量の水が要るというとんでもなく欠陥な魔法で、見つけたときは呆れてしまった。


 けれど欠陥な魔法だったおかげでこの系統では素人のルノでも可能となった。


「行くわよ」


 ルノが魔法陣を通じて、魔力を精霊へと託す。すると、間もなく影の中にあった大量の氷が失われ、ラナケルの上空にルノが広場に描いた魔法陣と同じ、ただ街そのものを覆い隠すほど大きいものが現れ、大粒の冷たい雫が、降り注ぎ始めた。


 ルノは魔力切れと、疲労と、影から来る空腹感に襲われてあっという間に意識が遠のき、その場に倒れこんだ。

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