第10話

『ルノ、どっかいくの?』


 ルノが出かける支度をしていると、日当たりのいい特等席でくつろいでいたフーが首を持ち上げる。


「イスミアの森に採取に行くの」

『ふーん』


 フーは興味がないのか、そのまま首を下ろした。

 ルノは屋敷を出て、門扉のところにかけてある看板を引っくり返して「外出中」とした。前世で喫茶店などで見られたこの簡単な案内看板は街の人にも好評で、店を構える人たちも真似し始めて、今ではどこでも見かけるものとなっていた。

 ルノが大通りを出て、街の外に向かっていると、巡回兵と行き会った。


「こんにちは」

「やぁ、買い物かい?」

「イスミアの森に行くんです」

「そうか、気をつけろよ」


 ルノは笑顔で頷いて、また歩き出した。彼らに何も言われなかったということは、今のところイスミアの森では何も起こっていないようだ。たまに狼などが出回っていることがあるから、森に入るときは気をつけなければならなかった。


 街の衛兵たちとは良好な関係を築いていた。と、いうのも街の衛兵たちはルノの薬の大事な納品先だったからだ。それも大口で、定期的に買ってくれる。だとしたら、とても無下にできるはずがない。

 今日向かうイスミアの森とは、ラナケルの外に広がる農地のその向こうにある小さな森だった。この地の精霊を祭ったという祠が中央にあるだけで、普通の森だ。


 ただ、手近でそれなりの種類の素材が手に入るので度々足を運んでいた。途中畑で働く農民にいくつか薬と野菜を交換した。彼らは手持ちの現金がないことが多いので、物々交換も珍しくない。ルノは出かけるときは肩掛け鞄をするようにしていて、交換して得た野菜をその鞄の中に詰め込んでいく。野菜を入れても鞄が膨れることはない。鞄の中の影に干渉して、ルノ自身の影に繋げて、全てルノの影の中に放り込んでいるのだ。こうすれば変に怪しまれずに影の中の物を出し入れすることができた。


 鞄は手近なところに影を作る大事な道具だった。周りの人はその鞄を魔女の鞄と呼んでいて、ルノの持つ不思議な道具と思っているようだ。この鞄自体、何の変哲もないただの鞄だったけど。


 ルノはラナケルに来るまで師匠と共に森に住んでいたが、それでも森は怖い。足しげく通っているイスミアの森でも日が昇っているときでないと、とても足を踏み入れられない。


 森に着くと、手早く必要な素材を採取して、影の中に突っ込んだ。そして、森の中心にある精霊の祠に立ち寄り、挨拶程度に祈っておいた。

 自然に閉ざしていた目をゆっくり押し開け、そのまま森を出ようと踵を返したとき、ふと焦げ臭い匂いが鼻に付き、足を止めた。


 この森はこの祠周辺以外に焚き火をできる広場はなかったはずだ。


 焚き火なんてあっただろうか? いや、ルノは森の中で誰とも行き会っていない。そもそもこんな小さな森の中で焚き火なんて危ない。

 ルノが振り返ると、石が積まれてできた祠の向こうに大きく黒い何かが地面に張り付いていた。一瞬細長く黒い絨毯が敷かれているのかと思った。

 しかし何度か瞬き、見つめていると、それは目の赤い、とても大きなトカゲだと分かった。


「うえっ!?」


 奇妙な声を上げて、ルノは固まった。

 別にトカゲは苦手ではない。ラナケルの街でよく見かけるのもあり、慣れてしまった。しかしあの大きさは衝撃だ。ルノより大きい。大人一人分はゆうにある。そんな不気味なトカゲを前に、怖くないはずがない。


 ルノはトカゲに睨まれ――――いや、本当に睨んでいるのかどうか分からないけど、視界に入っているのは間違いない――――、すっかり身が竦んでしまった。


 突然強い風が吹き、木々がざわめく。

 トカゲはそれに触発されたように数歩ルノに迫った。


 声にならない悲鳴を上げ、より一層体が硬化した。

 あんなトカゲ、飛び掛られれば勝てるわけがない。トカゲのすばしっこさを考えたら、ルノはもうトカゲの手中も同然。


 どうしよう。


 ルノは魔法が使えるが、戦うための魔法はあまり知らない。森で魔物退治をしたことはあっても、それは弱い魔物相手で、ルノでも勝てる見込みがあるときに限っていた。ルノの専門は薬作りとか、生活のための魔法だった。


 そして、こういうときは一瞬の隙を突いて逃げる。それがルノに今できる最善策だった。

 隙を見出すために、じっと大黒トカゲを見つけた。するとトカゲの下、その影の部分がやけに濃い気がした。違う、あれは焦げているんだ。さっきからしている焦げ臭い匂いは、あそこからしていたようだ。


 焦げている地面はトカゲの下のみ。どうやらアブラトカゲがその腹部から油を分泌するように、あのトカゲは腹部から排熱しているようだ。

 ルノがトカゲから目を離せないように、トカゲもルノをじっとその円らな赤い目で見つめていた。


 ルノとトカゲの見つめあいは長く続いた。


 トカゲの腹の下からプスプスと白い煙が立ち上る。焦げている土はかなり熱いだろう。しかしその上のトカゲは全く気にした様子もなく、平然としていた。当たり前だろうけど、あの腹部は熱に強いようだ。

 そしてあんな大黒トカゲ、この辺に生息しているわけがない。

 排熱器官を持っていることを考えると、熱いところに生息しているはずだ。


 そんなものがどうしてこんなところに?


 あんな大きくて、腹部に排熱器官を持っているトカゲ、連れてくるだけでも一苦労だ。しかも目的が分からない。こんな小さな森を燃やしても仕方ない。開墾するならもっといいところがあるのだし。そもそも一体誰がこんなことを。


 あの大黒トカゲが自ら来たとは考えにくい。あんなトカゲが生息していそうなところは近場にはない。迷い込んだとはとても思えないので、連れてこられたと考えられる。

 いや、今そんなことを考えている場合ではない。トカゲは目の前にいるのだから。

 どれくらい見つめ合っていたか分からないが、日が傾き始めたことを考えると、一刻は経っているだろう。ルノの影が伸び始めた。


 ルノは自分の間抜けさに呆れた。

 どうしてこのことを忘れていたのだろうか。

 ルノはこっそりと影を通じてフーに呼びかける。


『フー、起きてる?』

『おきた。ルノ、おそいよ。どこにいるの?』


 いつもならとっくにラナケルに戻っている時分。フーは帰ってこないルノに不満げだった。

 ルノは心の中でフーに謝りつつ、影の中からフーを押し出し、命じた。


「フー、追い払って!」


 フーはルノの影の僕。普段言うことを聞いてくれないけど、このときばかりは従ってくれた。

 フーは命令を受けた途端、全身に電流が走ったかのように体を震わせる。そして毛を逆立てて甲高い声を上げながら、目の前の大黒トカゲに飛び掛った。


 トカゲは突如現れた黒猫に驚き、一目散に森の茂みの中に消えて行く。

 やがて足音も気配もなくなって、ルノは緊張の糸が途切れてその場にへたり込んだ。


『何あいつ、でっかいトカゲ!』

「助かったわ、フー。もうどうなることかと……」


 ルノはフーを抱き上げて、ギュッと抱きしめた。温かく、陽だまりのような匂いのする毛皮に顔を埋め、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「少し休んでから帰ろう」


 日が暮れるまでに森を出れば大丈夫だ。夜道は危ないけど、森の中よりマシだろう。

 それにしてもイスミアの森にあんなものがいるなんて。

 ここはルノの足でも気軽に来られる人の集落に近い森だ。下手したらあの大黒トカゲが人の集落に出てきてしまうかもしれない。


 街の衛兵に伝えておきべきだろう。

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