第5話
このラナケルという街は、とある貴族の領地の中の街の一つで、ルノにとってはとても大きな街に見えるが、それでも田舎の一都市という位置づけであった。実際に領地の中で最も大きな街に領主は住み、それ以外の街はその街の市長と、教会に運営を任せているらしい。
教会兵舎を出て規則正しく、平らに並んだ石畳を踏みしめ、ルノは道を進む。視界には青灰色の石を積んで築かれた建物で埋まり、圧迫されているような気がした。
『ひとがいっぱい』
大通りを歩いていると、影の中からフーがひょっこりと顔を出し、その人の多さに目を丸くした。
森の近くにあった村の全住民を集めても足らないぐらいの人が、忙しなく行き来している。本当に大きな街だった。こんな街で魔女としてやっていけるのか、ルノは不安を抱く。
「そうね。まずは大紅葉の屋敷に行かなきゃね」
ルノはフーを抱え、巡回の衛兵を見つけると道を尋ねた。
そして、教えられた通りに道を辿ると、やがて一軒一軒が大きく、静かな住宅街へと入った。そして、やがて奥まったところに石塀よりも高い紅葉の巨木の枝葉がのぞく。
「あそこね」
衛兵の話にも一致している。その紅葉があるところが、ルノの目的地だった。
その目印にもなっている庭からはみ出るほど大きな紅葉が、この屋敷の名前の由来にもなったという。
このラナケルは区画整備も隅々まで成され、住宅街の端にある道でもきちんと舗装され、石畳が敷かれていた。そして、各家はその広い敷地を背よりも高い塀で囲っており、出入り口には鉄柵の門が嵌められていた。
「これなら泥棒にも入られそうにないわね」
塀をよじ登れば目に付くし、そもそも大の男でもよじ登るのが大変そうだ。防犯性の高い設備にルノは安心した。
塀も石畳も、街の建物と同じ青灰色の石で作られていた。しかし、圧迫感はあるものの、寂しいとか暗いという印象は薄かった。青灰色の塀や壁を覆うように蔦状の植物が這っていたからだ。その植物は小さく色とりどりの花をつけており、それが街に彩を添えている。どうやらきちんと手の入れられた植物らしく、街の人が平穏に暮らしていることが察せられた。
そして、大紅葉の屋敷の鉄柵門の前に立ち、ルノは愕然とした。
『ここにすむの?』
鉄柵門の向こうにはひどい光景が広がっていた。ルノの腰まである草が地面を埋め、その向こうに青灰色の二階建てらしき大邸宅があるものの、何十年も放置されていたらしく、窓ガラスは白く曇り、壁には蔦が生い茂っている。
フーの声音にも、抵抗が滲んでいた。
ルノはここじゃなければいいな、と思いつつ、シアンから受け取った鍵を、門扉の鍵穴に差し込んだ。
鍵はぎこちないながらも確かに刺さり、奥まで入りきる。そして、手首を捻ると不気味な音を立てつつ回ってしまった。
やっぱりここで間違いないようだ。
フーはそれを見て、ひげを垂らし、逃げるようにルノの影の中に滑り込む。この僕は主を手伝う気がサラサラないらしい。
ルノは小さくため息を吐いて、錆びた門扉に手をかける。が、その門扉の蝶番すら錆びていて、なかなか素直に動いてくれない。
「もう」
初っ端からこれだ。
ルノは蝶番に魔法をかけて、門扉を滑らかに動くようにした。そこでルノはハッとした。
そうか、そうだった。
自分は魔女だった。追い出されはしたけど、師匠に立派(?)な魔女に育てられたのだ。こんなたった数十年放置されていた屋敷ぐらい、すぐに何とかできるじゃないか。
ルノの魔女魂に火がついた。
○ ● ○
魔法というのは簡単に言うと、魔力を精霊に与え、精霊に現象を起こしてもらうという一連の流れのことだ。これが基本にして絶対。魔力なくして精霊に触れられず、精霊なくして事は起こせない。
そして、基本が単純なために、応用の幅が広い。魔法の種類は夜空の星の数より多いと言われていた。もし世界中の全ての魔法を使いこなせる人がいるのなら、その人は全知全能の神に違いない。とにかく魔法は幅が広くて奥深い。魔法を極めるとはすなわち、底なし沼に沈んでいくようなものだった。
そして魔女というのは、魔法をより身近なものに利用しようとした者と、その技を受け継ぐ者のことを指す。もちろん、全ての魔女がそうであるとは言い切れないが、人の暮らしの近くにいる魔力持ちといえば、魔女だった。魔女を無理矢理魔術師と呼ぶのなら、その頭に民間という字が付くだろう。
とにかく魔女の魔法というのはチマチマしたものが多く、人々が思い描くような大軍を焼き払ったり、一瞬で湖を干上がらせたりということは適していなかった。
しかし、今のこの状況は、魔女にとってうってつけであった。
ルノは鉄柵の門扉の向こうに広がる草むらをかき分けて、ようやく屋敷の玄関に辿り着く。ふと門扉を振り返ると、草の丈が低いところが門扉から玄関へと真っ直ぐ伸びている。よくよく見てみると、その部分は草の根元の辺りに青灰色の薄い石板が転がっていて、どうやら以前それが敷かれていたらしい。
ルノは魔法で風を操り、とりあえず門扉から玄関までの道を作った。
風で草を刈った。この魔法はルノの十八番でもある。
表は今はこれまでにしておいて、せめて今夜寝る場所だけでも整えなければ。
ルノは意を決して、玄関扉のノブに手をかけた。そして、勢いよく引き寄せると、むわっと埃臭い空気が扉の向こうから押し寄せて、ルノは二回くしゃみをした。しかしくしゃみをしただけでは鼻のムズムズが解消されず、袖口で鼻を押さえつつ、屋敷の中に足を踏み入れた。
玄関扉を開け放ち、埃舞う屋敷の中を見渡し、目に付いた窓を全て開け放って回る。各部屋のドアも開けっ放しにして、また窓を見つけては限界まで開ける。
小柄なルノでも窓の外に身を乗り出せるときは、窓から落ちそうになるほど体を外に出して、新鮮な空気で肺を満たした。
そして、屋敷中の窓とドアを開け斬ると、ルノは一階の吹き抜けの廊下に仁王立ちし、今日一番の大魔法に備えた。備えると言ってもルノの魔法は呪文も特別な動きも何もないので、何もしない。ただ、目を閉じて、魔力をかき集めるだけだ。
そして大魔法に必要な魔力を集め終えると、イメージと共に魔力を精霊に渡し、ルノの足元から風が吹き出した。
風は開け放たれたドアを抜け、窓へ飛び出す。風は家中の埃を掻っ攫い、逃さず全て外へと押し出した。
「ふう……」
埃一つない木の床に、ルノはへたり込む。
まだやらないといけないことはいくつもあるけど、少なくともくしゃみと鼻のむずむずからは解放された。
今日の夕食は外で食べることにして、その前に寝床の用意に取り掛からなくては。
日が沈むにはまだ時間がある。
ルノは居間にやってきて、三人掛けの大きなソファの前に立つ。ルノが横になるには丁度いい大きさだ。二階の寝室に大きなベッドがあったが、今日はこちらで寝ることにする。残された時間、きちんと掃除できるのはこのソファーぐらいだったからだ。
しかし当然すぐに寝るどころか、座ることもおっかなくてできない。いくら風で埃を吹き飛ばしたとはいえ、汚れやらダニやらは残っているのだから。
『あっ!』
歓喜の声を上げながら、影の中から飛び出したフーは、今まさにルノが取り掛かろうとしていたソファーを飛び越え、開け放たれたままの窓から入り込んだトカゲをペロリと平らげた。
「こら、フー! 何食べているの!」
『トカゲ』
「変なものを食べないで!」
『へんじゃないもん』
フーは拗ねたようにツンと顔をそらし、そのまま窓の外へ飛び出していってしまった。
「全くもう」
本当にあの猫は言うことを聞かない。
フーが食べたもの――――食べた、というより飲み込んだもの、だ。彼は何でも一のみにしてしまって、咀嚼はしない――――は全てルノの影の中に入ってしまう。彼が今食べたトカゲも、ルノの影の中に入ってきた。
影の力とはこれまた面白いもので、生き物を飲み込めば、それは影の力に侵され、ルノの新たな影の僕となってしまう。飲み込んだときに死んでいたら、死体のまま、影の中にあり続ける。
フーはどっか行ってしまったが、放っておいても大丈夫だ。影の僕はルノからそう遠く離れることができない。
フーのことは気にせず、ルノはさっき屋敷中の窓を開けて回ったときに見つけたバケツを手に、台所の勝手口から出た先にある井戸に向かう。当然ここにも草が生い茂っていて、風の魔法で草を刈らねばならなかった。
ルノがこの草を刈る魔法が十八番なのは、村の収穫を手伝っていたからだ。村には老人やら腰を痛めた人やら、自分で麦の収穫ができない人が、ルノに収穫を頼んだのだ。魔法でパパッと行えてしまうので、彼らには大変感謝された。
しかし、そうやって稼いだお金も全部もう手の届かないところにある。
せめて師匠も転移(と)ばすなら、ルノに準備をする時間をくれても良かっただろうに。おかげさまで無一文だ。
だが、魔女というのは大変便利な職業で、ちょっとしたお手伝いということにはすごく向いている。だから小金稼ぎという点においては何ら困ることがない。もしかして師匠はそういうことを見越して転移させたのだろうか? だとしても、迷惑なのは変わりないけど。
ルノは八分目まで水で満ちたバケツをソファーの傍において、ソファーの掃除に取り掛かる。ソファーと言っても、結局でかくて固いクッションのようなもの。
だとしたら、うってつけの魔法がある。
ルノは先ほどと同じように魔力とイメージを精霊に託し、バケツの中の水を熱い蒸気へと変換する。そして熱い蒸気をソファーに当てた。
ソファーの布や綿部分をじっくりと蒸気で綺麗にしてゆく。
そう、これは魔法で再現した布団クリーナーのようなもの。
ルノが師匠から教わった魔法というのはイメージが肝心だ。イメージ次第で簡単にどうにでもなる。もちろん、思いついても魔力が足りなくて実現できないなんてのもよくある。でも、使える魔法だけでも十分にこの屋敷をピカピカにできるだろう。
魔法はとても便利だったが、全てを一度にこなせるわけではなかった。その辺は前世と同じで、家電が進化したけど、一瞬で何でもできるわけではなかった。やはり最低限の時間や手間がかかるのだ。
ソファーの掃除は丁寧に行ったこともあって、終わるとソファーの色は変わっていた。黄土色っぽかったソファーはベージュ色になり、ふんわりとした質感を取り戻していた。
ソファーが終わるとまだ時間に余裕があったので、毛布も同じように洗濯し、ソファー周りの床も綺麗にした。
明日はこの居間と隣にある台所に取り掛かろう。台所は食料庫に通じていて、食料庫の地下には素材保管庫が広がっていた。前の住民も魔女だと言っていたし、ここは魔女のために建てられた屋敷のようだ。
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