第3話

 ここはどこだろう。


 見渡す限り、青々とした草原が広がり、風の筋が幾本も走っている。地平の果てまで草原が広がり、空には雲ひとつなく、気持ちのいい景色が続いている。


 師匠に転移させられたのでなければ、存分にこの大草原を満喫していたことだろう。


 今、ルノは手ぶらだった。


 持っているものといえば、身に着けている服と、そのポケットの中にある飴玉二つ。魔女としての器具や書物も何もない。本当に身一つの有様だった。


 信じられない。ここまでする?


 師匠がわがままで、強情で、ルノを振り回すのはいつものことだったが、それはルノのことを身内だと思ってくれていたからだと思っていた。しかし、こうもあっさり放逐されるとは考えたこともなかった。

 師匠は人嫌いであったが、何百年と生きた魔女である。その魔法の腕も力も凄まじく、ルノではとても太刀打ちできない。それなのにルノが影の力に目覚めた途端、放逐とは、よほどこの力を怖いと見える。


 ルノは草原の中に立ち尽くし、頭を振る。


 とにかく頭の中がごちゃごちゃしていた。


 まずは自分自身が竜の血を引く竜の子であったということ。ルノ自身は全く気付いていなかった。と、言うか気付けるはずがなかったように思う。ルノの知るこの世界は、森とその近くの村、その村に一番近いところにあるちょっと大きな町ぐらいだったからで、その中で魔女は自分と師匠だけ。竜の子どころか、竜すらいない。この世界に竜がいう生物がいるとは知られていても、実際に目にしたことがある人なんていなかった。


 そしてルノの竜の力は、影だという。師匠は何でもかんでも飲みこんで、飲みこんだものは全てルノの意のままだと言っていた。

 何だかすごそうな力だが、いまいちよく分かっていない。


『ここどこ?』


 ルノの影の中から、艶やかな黒毛の猫フーが出てきた。

 黒猫のフーは猫の姿をしているが、もう猫ではない。ルノの影の僕(しもべ)であり、ルノの影に潜む者の一つであった。


「分からないわ」


 ルノの知る限り、こんな大草原、あの森の近くにはなかった。

 ルノの影の力を恐れる師匠が、すぐに戻ってこられるところに飛ばすはずがない。もうあの森に帰ることができないと考えるべきだろう。


『ねぇ、ルノ』


 フーがルノの足に擦り寄る。本当はもう猫でないのに、姿かたちが猫であるためか、猫のような仕草をした。全くの猫というわけではなく、前と違って喋るようになったけど。


「どうしたの?」

『お腹すいた』

「そうね」


 師匠とのあの話し合いは、朝食の前。ルノはすっかりお腹が空いていた。そしてフーも朝から何も口にしていなかった。


『お腹すいた』


 フーは繰り返すも、ルノにはどうしようもなかった。

 フーに何か食べさせたいし、ルノ自身、いつまでもここに突っ立っていても仕方ない。とにかく歩き始めた。せめて日が暮れるまでに人里に着きたい。飴玉二個でこの先、生きてゆけるわけがない。


 ルノは魔女であったが、それはただの魔法が使える人間の肩書きの一つに過ぎない。いや、今朝方ただの人間ではなく竜の子と分かったけど、やっぱり食事や休息が必要だ。


 魔女だなんて言っても、万能ではない。


 前世では魔法が使えたならな、と夢見たけど、実際に使えても大したことがない。現実はそう甘くなかった。


 だが、せめて人里に着けば何とかなる。

 魔女は人の中で生きる魔力持ちの代表格なのだから。

 しばらく歩いてゆくと、ルノはある生物を見つけた。


「牛?」

『おいしそう』

「ダメよ」


 牛はのんびりと草を食んでいる。草原の向こうを見遣ると、他にも点々と牛がいて、めいめい自由に過ごしている。牛が野良のわけがない。この大草原は放牧地として使われているようだ。

 だとしたら、牛の世話をする人間も近くにいるかもしれない。


「もう少しで人のいるところに着くわ。もう少し我慢してね」


 フーは歩くのもすっかり疲れてしまったらしく、ルノの腕の中に抱かれている。影の中に戻ればいいのだが、そうすると食べ物を見逃してしまうと思うのか、頑なに影の中に入ろうとしなかった。

 そしてルノの読みは当たり、牛の向こうに、大草原の緑を横一文に茶色く断つむき出しの土の道が伸びていた。道があるということは、当然そこに人の往来があるということ。


 ルノの中に希望の光が差し込んだ。


 大草原はなだらかな傾斜がついており、道は大草原をゆるやかに蛇行しながら大草原の果てへと続いている。ルノは、弾むような足取りで道を辿り始めた。

 道はよく踏み鳴らされている。そして、大草原の向こうに畑が並んでいるのを見つけて、ようやく安堵の息を漏らした。幸いまだ日は高い。日が暮れるまでには人里に着くことができるだろう。着いたら着いたでまた大変だけど、今はとにかく歩くことだけを考えよう。


 そして、道の左右が草原から畑に変わってすぐだった。


 道の向こうから荷車を引く牛と、その横を歩く農夫がやってきた。ゆったりとした歩調で、のどかな田舎道にぴったりの光景であった。

 良かった。このあたりに住んでいる人だろう。これでようやくここがどこか知ることができる。

 ルノが農夫に駆け寄ろうとしたとき、ルノの腕の中にいたフーがすっと飛び出し、荷車を引く牛の前に立ち止まる。


「ちょっとフー!」


 ルノが慌ててフーを抱きかかえようと中腰になる。ゆったりとした足取りの牛が、目の前に突然現れた黒猫を優しげな瞳を見下ろす。

 だが次の瞬間、フーはその猫の顎の骨格を無視し、牛の背丈よりも高く口を開き、真正面から牛を荷車ごと丸のみにしてしまったのだ。


「えっ」

「なっ」


 ルノと農夫の声が重なる。

 フーは牛と荷車を丸呑みし終えると、満足げに可愛らしく、にゃあと鳴く。それが農夫の恐怖を煽った。


「ばっ、化け物!」


 農夫は悲鳴を上げて、来た道を戻る形で逃げていった。


『すこしふくれた』


 首だけ振り返った黒猫はそうルノに言った。しかし、飲み込んだはずの彼のお腹は全く膨れていない。一体どうなっているのだろう。牛はフーの何倍も大きかった。荷車の上には収穫物らしき野菜が満載で、それを一のみしておいて少し膨れた? 彼が飲んだものは一体どこへ消えてしまったというのだろうか。

 フーはルノの心配、困惑を他所にルノの下に戻ってきて、抱きかかえようとする手をすり抜け、ルノの影の中に入り込んだ。


「フー、フー?」


 ルノの呼びかけにフーは全く答えない。何となくだけれど、さっさと眠り始めたような気がした。

 そのとき、ルノはすさまじい満腹感に襲われた。お腹が膨れると、体がぽかぽかとして、幸福感に包まれるものだが、今のこれは全く違う。胃の中に突然詰め込まれたかのような、暴力的な圧迫感だった。

 何より信じがたい、理解しがたいのは、実際のお腹は激しい空腹感を訴え、きゅうきゅうと鳴いていることだった。


 ルノは混乱しつつも、頭のどこかで冷静に理解し始めていた。


 フーが丸呑みにした牛と荷車とその積荷の野菜。あれはルノの影の中に入ったのだ。フーの口はルノの影の中に通じている。だからフーのお腹が膨れることがなかったのだ。フーが少しふくれたとか、お腹すいたと言っていたが、あれはルノの影の中の詰め具合を示していたのだ。


 ルノの影の力とは、何でもかんでも自分の影の中に詰め込んで、自由に取り出せる。そういう力だったのだ。


 そして今、フーが丸呑みにした牛と荷車がルノの影の内側から激しく圧迫している。ルノの影はまだ小さく、牛と荷車とその積荷は大きすぎたのだ。

 ルノは影からの激しい圧迫感で、その場にうずくまり、動けなくなって、やがて額に汗を浮かべたままに意識を手放した。

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