第2話
前世の記憶があって得たものといえば、その胆力のように思う。なんせすでに二十数年生きた経験があるのだ。初めこそは戸惑ったものの、一年もしないうちに順応してしまった。
むしろ前世では人生を失敗したかもと軽く絶望していただけに、一から人生を始められるということに気付いたとき、嬉しくてたまらなかった。
しかし、今生においても悩みというものはあり、当然、容姿についてのものもある。たとえば今ルノは十八歳だ。しかし、どういうわけか、ルノの体は十八歳のそれではない。ようやく十二歳ぐらいに見えるようになった。森の近くの、たまに買出しに向かう村に住む少女たちは年相応に成長し、体つきも女性らしく、もう結婚話だって出始めている。それなのにルノは一人子ども体型。ルノが十八と知っている村人たちもその見た目から、ルノを子ども扱いしているように感じる。でも全く悪いことばかりではない。頼みごとのお礼に手に入りにくいお菓子をくれたり、まけてくれたりすることだってある。でもやはり十八歳というと、若さを楽しむ年頃である。それを知っているからこそ、もどかしい思いを抱いてしまう。
それとも魔女というのはこういうものなのだろうか。師匠は何も言わないので、分からなかった。
そうこう思い悩んでいるうちに、ルノは目指していた大モルドンの下へやってきた。
モルドンとは木の種類のこと。この森には常緑種のモルドンという木がたくさん生えている。大モルドンはモルドンの木々が密集している辺りの中心に生えている、一際大きく、一際太い一本のことだ。森の中での目印としても使われた。もしかしたら、この森のモルドンの木の始まりなのかもしれない。
森の中に住み、森によく出歩くルノであったが、森の全てを把握しているわけではない。大モルドンの洞に魔物が住み着いているとは知らなかった。
この辺りは美味しいきのこが生えている。師匠の好物でもあるから、採れないと困る。丁度いいから片付けておこう。
大モルドンの洞は入り口は小さくて、くぐりにくいものの、中は広い。突然の雨でもぐりこんだことがあるので、よく知っている。
ルノは足を止め、周辺の生物反応を調べた。すると、洞の中に大きいものと小さいものが一つずつあった。きっとあの小さい反応がフーで、大きいものが魔物だろう。小さいものの反応がほとんど消えかかっていた。
まずい。早くフーを助けなくて。
このあたりに出る魔物というのは光とか炎を特に嫌がる。そして、きのこ探しで大モルドンの周りを何度も行き来したルノはこの辺りの地形をよく知っていた。さっきの生物反応を照らし合わせれば、もう暗くても十分に手に取るように分かる。
ルノは魔物を驚かして洞から引きずり出そうと、光の玉を木の根元に放り込むと、突然の光の出現に洞の中の魔物は驚愕の声を上げて飛び出してきた。
黒い、狸のような魔物だった。赤い目を怪しく光らせ、珍問者をにらみつけた。
大した魔物じゃない。すぐに片付く。
ルノが精霊に魔力を与え、火を具現させようとしたとき、ルノの背後の茂みが揺れた。黒い影が飛び出し、ルノのがら空きの背中を狙う。咄嗟に魔法をそちらに向け、背後からの急襲を防ぐ。洞の中の反応しか気を向けていなかったのだ。しかし、目の前の魔物がその隙を見逃すはずがない。ルノに襲い掛かろうとしたが、また別の何かに襲われた。
目で追うと、魔物と違う、艶やかな黒い毛並みを持つ何かが鋭い声を上げて、魔物に噛み付いていた。
フーだった。
それまでフーと思っていた洞の中の弱弱しい反応はフーではなかった。フーは大モルドン近くの茂みから飛び出したのだから。
フーは確かに弱っていたが、主人の窮地を救ったのである。
しかし、そこまでだった。魔物とただの猫。体の大きさも違えば力も段違い。フーは果敢に魔物に喰らいかかるも、あっさりと魔物に押さえつけられてしまった。フーと魔物の接戦に、魔法がフーに当たるのを恐れてるのは何もできなかった。
魔物がフーに食いつこうとしたその瞬間、ルノの心は急冷却し、全身がぞわりと総毛立つ。辺りの空気が張り詰める。そして、凍てつくような心の冷たさがじわじわと全身に伝う。その間、まるで時間が止まったかのように、辺りの様子も動かなかった。
しかし、変化は突然現れた。
魔物に押さえつけられていたフーの体が、水に沈みこむようにとぷんと地面の中に落ち込んで、溶け込んでしまった。その怪異に驚いたのはルノだけではない。押さえ込んでいた魔物も、押さえていた相手の消失に困惑していた。
『ルノ』
フーの声がした。
ルノは猫のフーがしゃべっていることへの驚きはなぜか全くなかった。それどころか今何が起こったのか、唐突に理解した。フーは地面に溶け込んだのではない。影の中に落ちたのだ。そして、影の中からルノに呼びかけた。
「フー、先にあいつを」
『わかった』
フーは頷くと、ルノの影の中からひょろりと現れて、より深みを増した黒い毛並みに淡い夜光を艶めかせ、呆然とする魔物に飛び掛る。
一瞬だった。
フーはその猫の骨格を、顎を大きく歪めて口を広げ、魔物を丸呑みにしてしまった。
そして、元通り可愛らしい猫の顔をして、ルノを振り返る。
『こいつ、そんなにおいしくない』
「そ、そう」
丸呑みしたら、味も何もないのではないだろうか。
○ ● ○
「そりゃ影の僕(しもべ)さ」
翌朝、ルノは昨日あったことを師匠に話し、解説してもらった。
「影の僕ですか?」
この家には魔法の書籍が山のようにあって、そのほとんどに目をとしたことのあるのに、ルノはその単語が何を意味するのか分からなかった。
「そう、あんたの力さ」
「どういうことですか?」
「なんだい、あんた、気付いてなかったのかい」
「何がですか?」
「とっくの昔に気付いているもんだとおもったけどね。案外あんた鈍感なんだね」
「お師匠様、きちんと説明していただけませんか? 私にはさっぱりです」
「そうかい。ま、いいだろう。ルノ、あんたは竜の子だ」
「ええ!?」
突然この人は何を言い出すのか。
竜の子は、竜と人間の間に生まれる混血児のことだ。人の形をした竜ともいい、人間より丈夫で、力強く、そして何より長命だ。
「あんたが竜の子だって聞いたから、育てたのさ。私の後継者にしてやろうと思ってね。そしてあんたはいい魔女になった」
嫌味や、わがままばかりの師匠の口から出た思わぬ言葉にルノはギョッとする。
いい魔女になった? 師匠がルノのことをそう見ていたのか。
師匠の言葉がじわじわと心に沁みこみ、喜びが沸々と湧き上がる。喜びが表に噴出そうとしたそのとき
「でもね」
師匠の言葉のトーンが途端に落ち、鋭く、冷え切った。
「影の竜だなんて冗談じゃないね」
「ど、どうしてですか」
「昨日フーが影の中に落ちたって言っただろう? それが影の力、あんたが親から受け継いだ力さ。何でもかんでも影の中に飲み込んじまう。そして飲み込んだものは全てあんたの意のままさ」
師匠はそこで大きく長く、ゆっくりと息を吐いて、杖を立てて立ち上がった。師匠が定位置である椅子から立ち上がるなんて珍しい。そして部屋の中心に突っ立っているルノの周りをゆっくりと杖で床を突きながら歩き始めた。
「全く、とんでもないね」
木の床が痛がるように甲高い音を立ててゆく。
「とんでもない? この力はそんな恐ろしいものなのですか?」
師匠がルノの背後に回り、ルノは体の向きを変えた。
「ああ、恐ろしいね。魔法でどうこうできないじゃないか。自分で使えたなら嬉しいさ、でもまだ子どものあんたが目覚めたなんて、笑えない」
師匠の杖が床を穿つ。
「子どもって、私はもう十八ですよ」
「まだ十八だ。あんた魔女は千年竜は万年って言葉を聞いたことはないのかい」
「何ですか、それ」
それを言うなら鶴は千年亀は万年だろうに。
いや、ここは地球じゃないんだ。鶴も亀もいるとは限らない。実際、そういうのをこれまで見たことがなかった。たまたまそういうのがいる環境にいないってのもあるだろうけど。
そして、似たようなことわざの意味は生物の長寿を現す言葉だった気がする。
魔力を持つ魔女も長生きだと知っているし、竜はさらに長く生きる。実際に万年も生きられないだろうけれど、人間とは比べ物にならないほど生きられる。
「竜にとって、力に目覚めるのはようやく卵の殻を割って出られたようなものらしい」
「そうなんですか?」
「聞いた話さ!」
そこで師匠は苛立ちをぶつけるように杖で床を突いた。威嚇するような音にルノは思わず身を縮ませた。
その会話の間に、師匠は杖で床を突きながら、ルノの周りを二周も回っていた。普段は尻から根が生えたように椅子から動かない師匠が珍しい。
そして、いつも腰掛けている椅子の前に戻ると、床を二回、素早く杖で突く。
始めは苛立っていると思っていた。けれど、その瞬間、気付いてしまった。
違う、これ、魔法だ。
あの師匠が意味もなくルノの周りをぐるぐる回るわけがない。杖で床を突きながら、範囲を指定していたのだ。
「お師し」
「ったく、話が違うじゃないか。こんなのなら引き取らなければよかったよ! あのクソエメルダめ。こんなものを押し付けやがって。絶対に許さないよ」
ルノの呼びかけを師匠は怒鳴り声でかき消した。
そして、気付くのも遅かった。すでに師匠の魔法は完成していたのだ。
ルノが師匠が杖で突いて指定した範囲の外へ手を伸ばそうとすると、電撃が走ったように痛んだ。結界だ。
師匠がルノの周りを二回回ったことで、二つの魔法の範囲が指定されていると予想できる。一つは結界。それならもう一つは
「お別れだよ、ルノ。どこへなりとも行ってしまいな」
師匠は怒りに顔を歪ませて、ルノにそう別れの言葉を吐き捨てた。
瞬間、ルノは眩い光に包まれ、目を閉じる。突然ひんやりとした空気に頬を撫ぜられ、風が気ままに走り抜ける音に恐る恐る目を開けると、ルノは見知らぬ草原に一人佇んでいた。
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