腹ペコにゃんこと影の魔女

アイボリー

第一章

第1話

 ルノには前世の記憶というものがあった。

 地球という惑星の、日本という国で細々と暮らしていた女性の記憶だ。この前世の記憶があるということは、この女性もやはりすでに死んでいるのだろうけど、不思議と怖いとか、残念とか、悔しいとかそういった感情は湧いてこなかった。

 惜しくない一生だったということなのか、それとももう別の人格だから心が動かないのかもしれない。

 ただ、ルノにとって前世の記憶はよく読みこんだ物語という位置づけに近かった。





   ○ ● ○





「ルノ、どこにいるんだい、ルノ!」


 しゃがれた声がルノの名前を叫ぶ。と、同時にガンガンと床を叩く音。声の主が苛立ちながら杖で床を突いているのだろう。別の部屋にいるのにその様子がありありと目に浮かぶ。十八年も一緒に暮らしていれば、それぐらい簡単にできた。

 ルノはうんざりとため息を吐いてから、その声に応えた。


「お師匠様、どうされましたか?」


 師匠はいつも通り、居間の一人掛けのソファーに尻を沈め、身の丈ほどある杖を片手にぶら下げていた。そして、いつもの不機嫌な顔で、部屋の入り口に立つルノを睨みつけた。


「お腹が空いたよ。何か作りな」

「分かりました」


 ルノは努めて明るく答えた。ここで少しでも元気がない顔をしたり、不満げな声を上げれば師匠の機嫌が悪くなるのだ。

 師匠は見た目は三十代半ばの艶やかな髪を持つ美人である。しかし口調や目つき、その仕草は老獪そのもので、妙な違和感を抱かせた。

 ルノ自身、師匠の実年齢を知らないが、見た目通りではないと分かっていた。


 師匠は魔女だった。


 この深い森で閉じこもるように暮らし、自由気ままに魔法の研究をしている。

 師匠曰く、ルノは昔、この森の入り口に捨てられていたそうだ。なんせ赤子の頃のことだから、ルノ自身はよく覚えていない。前世のことはよく覚えているのに不思議なものである。師匠は気まぐれでルノを拾い、十八年間育ててくれたという。そして、魔女としての技も知識も十分に教えてくれた。二人の関係は親子というより、師弟という言葉の方がふさわしいだろう。


 表立っては師弟だけれど、ルノは実際は主人と奴隷に近いとも思っていた。

 師匠はわがままで無茶苦茶だ。ルノはそれに振り回されている。

 ルノは手早くサンドイッチを作り、師匠の下に持っていくと、師匠は顔を歪めた。


「別のものにしておくれ。今はそんな気分じゃないよ」


 だったら先に何が食べたいか言ってくれればいいのに。


 当然口には出さない。言ったら空腹でただでさえ機嫌の悪い師匠を怒らせることになる。それに、希望を聞かなかったルノも悪いとも言える。

 師匠には極力反論や口答えはしないようにしていた。すぐに怒鳴るし、さらには片手で弄ぶ杖でガンガンと叩かれるのだ。だったら素直にルノが謝っておいたほうがいい。下手に師匠の機嫌を損ねたくなかった。

 結局ルノは肉を焼き、師匠はそれに満足したので、先に作ったサンドイッチはルノの分となった。

 そして、腹が膨れ、気を良くした師匠にルノはあることを尋ねた。


「お師匠様、フーを知りませんか? 一昨日から姿を見せないのです」


 フーとは十年ほど前にルノが町で拾った黒猫だった。師匠に頼み込んで飼わせてもらっている。

 フーは一日ぐらいフラッと消えることはあっても、二日もいないということはなかった。台所の傍らにあるフーのエサ皿の中身が全く減っていないので、戻ってきてもいないようだ。


「さぁ、知らないね」


 気にした素振りもなく、師匠は鼻を鳴らした。元々師匠はフーに興味がないようだったので、仕方ない。イラついているときには杖で殴ろうとしたこともあるので、罵倒しないだけマシだった。


「そうですか」


 森の中に出て、どこかで怪我をしているのかもしれない。


「お師匠様、フーを探してまいります」

「もうすぐ日が暮れる。やめておきな」


 夜の森は魔女でも危険だ。ルノもよく知っていた。だからこそ、そこに愛猫フーを取り残すのが許せなかった。それに、夜のほうが都合のいいこともある。


「妖精に聞いてみようと思います」


 すると師匠がムッとして、


「好きにしな」


 と吐き捨てた。

 きっとルノが自分の言うことを聞かなかったから面白くなかったのだろう。せっかく取り戻したお師匠の機嫌を損ねてしまったが、それよりフーの方が心配だ。ルノは調理をするために着ていた前掛けを丸めて放りだし、勝手口から家を出た。


 この世界には魔法がある。

 一口に魔法と言ってもその範囲はとてつもなく広い。医術に薬学、植物学に生物学、ありとあらゆる学問に魔法が根ざしていた。地球での科学のように、魔法が文化、学問の根底にあった。いや、世界の理を魔法と呼んでいるのかもしれない。


 世界の理が魔法であるが、魔法を扱える者というのはそう多くない。魔力を持っている人間というのは限られているのだ。そして、魔法が使えるか否かというのはこの世界において重要な指標の一つだった。

 もしかしたら、あの人嫌いの師匠が赤子のルノを拾い育てたという気まぐれを起こしたのは、ルノが魔力を持っていたからかもしれない。


 ルノは親に捨てられるという不運に遭ったが、師匠に拾われ、その上魔女として育てられるという幸運に恵まれた。そう思うと、師匠のわがままに付き合うのもそう悪くないとも思えるから不思議である。


 さて、魔法というのはどんな形態を取っていようと、魔力を精霊に与え、精霊が現象を起こすというのが基本だ。魔法は精霊無くしてありえない。


 そして、妖精というのは万物に宿る意識のようなもの。乱暴な言い方をすれば九十九神のようなものだ。最も、九十九神のようなありがたい存在ではなく、たまに役に立つという感じで、たいていは人にいたずらを仕掛けて楽しむ、はた迷惑な存在だった。


 でも、ときにその力が必要なこともある。


 ルノは服のポケットを探ると、指が昼間突っ込んだ飴玉にぶつかった。丁度いいものを見つけた。

 この森に名前はない。強いて言えば、魔女が住んでいるから『魔女の森』か。そして、この世界で森というのは人間が容易に立ち入ることのできる場所ではなかった。力なき人間が間違って足を踏み入れると、森にのまれてしまう。森の住民の餌食となってしまうのだ。だから、森の中に住むルノたちの存在は、森の外に住む人間にとって、ありがたくも恐ろしい存在だった。


 ルノは森の立ち並ぶ木々や、生い茂る葉に向かって呼びかけた。


「森の民よ、飴をあげるわ。力を貸して」


 すると、月のない夜の森の中、ポッと淡く白い光が現れ、真っ直ぐにルノの下へと飛んできた。


「まぁ! 飴をくれるの? 大きな飴ね」


 包みの中の飴の匂いを嗅ぐように、ルノの手にとまった小人――――妖精は顔を寄せた。ルノはグッと手の中に飴を握りこむ。飴にしろ焼き菓子にしろ、甘い物やお菓子といった類は妖精の大好物だ。そして飴をただであげるわけではない。油断をしてはいけない。妖精は可愛い見た目をしているけれど、ずる賢くて、厄介なのだ。昔、今のように頼みごとをしようとして、お礼として用意したお菓子を奪われたことが何度もある。


「質問に答えてくれたら、あげるわよ。黒猫のフーを探しているの。どこに行ったか知ってる?」

「もちろんよ」


 妖精が頷く。そして、質問に答えたから、と飴を握りこむ拳に飛びついた。が、ルノは手を緩めることはなかった。不満げに妖精はルノを見上げる。


「どこに行ったの?」

「質問には答えたわ」

「一つだけなんて言ってないもの」

「何よ、ケチ」


 妖精はプクッと頬を膨らませた。


「それで、フーはどこに行ったの?」

「大モルドンのところよ。そこの洞(うろ)に住み着いた魔物に誘い込まれたみたい。きっと今頃骨になってるかもね」


 ルノが飴をなかなかくれないからか、妖精の言葉にトゲが生えた。しかし、ルノはまだ飴を握りこんだままだ。


「それ、あなたの木に誓って真実だって言える?」

「もちろんよ」


 妖精はすぐに言い返した。


 この妖精は木の精だ。髪が木の枝のようになっているからすぐに分かった。それに、肌に薄らと木目のようなものが浮いているから間違いない。

 言葉の力は強力だった。ましてや妖精のように肉体を持たない精神体むき出しの存在にとって、言葉は凄まじい力を持つ。だからこそ、彼らは言葉や、言葉によって結ばれた誓いに逆らえない。

 不満げではあるが、この木の妖精は自らの本体である木に真実だと誓ったので、信じていいだろう。

 ルノはようやく、固く握りこんだ拳を解き、中の飴を妖精にあげた。


「ありがとう。約束どおり、飴をあげるわ」


 妖精はよほど待ちきれなかったのか、飴に飛びつき、そして大喜びで飴と共に姿を消した。いつまでも飴に抱きついていたら、他の妖精に横取りされてしまう。だから安全なところでじっくりと飴を味わうのだろう。


 妖精の無礼で気ままなところは今に始まったことではないし、妖精に礼儀をしつけても仕方ない。とにかく欲しかった情報は得られたのだから、良しとしよう。

 しかし、それにしても魔物か。面倒なことになった。今から魔物狩りをしないといけないとは。でもフーのためだ。やるしかない。

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