第4話

「悪いけどなんの話かわからなかった」

「結局なんにもメモ取ってなかったしね」

 僕たちは図書館近くの居酒屋に来ていた。いっしょに夕飯を食べないかと誘ったのは僕だが、店を選んだのは由芽。なぜ居酒屋なのだと聞くと、このところ豪勢にお酒を飲む機会にも恵まれず、危うくアルコール欠乏症になるところだった、とのことだった。酒は飲み放題だが、その代わりつまみは三品まで僕の奢りだ、そう告げるとまず頼んだのはウイスキーのダブルと生ビールのジョッキ一杯。生ビールとウイスキーって最初からそんなに飲んでいいのか、とたずねると、これくらいじゃないと酔えないんだよ。彼女が苦々しそうに答えた。

「ごめんね。割り勘したいんだけどお金なくて」

「奢られるときは潔く奢られろ。あとで由芽にも機会ができたときにだれかに奢ってやればいい。先輩の受け売りだけど、そういう巡り合わせが大事なんだ」

「それでもやっぱり悔しいものは悔しいって。だって同年じゃん」

 酒が飲めない僕に代わって、彼女が美味しそうに生ビールで喉を鳴らす。ごくごくと一気に半分も飲み下し、気持ちよさそうに息を吐いた。まだつまみも来ていないのに空っぽの胃につらくないのだろうか。

「由芽ってけっこう豪快な人間だったんだな」

 頬杖を突きながらなんともなしに言う。

「わかってよ。昔はこんなんじゃなかったよ。大学時代はさ」

 郷愁の念を込めて溜め息混じりに、大学時代は──その言葉がさっくりと胸を薙いだ。

 由芽は、大学時代はとても大人しそうな人に見えた。さらりとしたセミロングの黒髪に、カットソーにスキニーパンツといった整ったラインの服をよく着ていた。ファッション誌に掲載されるような装飾過多な衣装に着飾られることなく、彼女はいつも動きやすくすっきりと整った感じのいい格好をしていた。それは今も変わらない。ゼミには毎回出席していたし、レジュメの出来栄えも良く、研究の進捗も上々で、評価されれば大学院への進学だって推薦で打診されていただろう。僕以上に学問の道がふさわしい人間に見えた。それほど大学時代の彼女と今の彼女は明らかに違う感覚を与えてくれた。当時の彼女は清楚系、容姿端麗、才色兼備、岡目八目といった四字熟語の似合う人。いつでも客観的な印象というよりも、自分でさえ客観に置いているという印象だ。けれど今は子どもっぽさが見え隠れしていて、当時より随分活発な印象で、かつ自分に自分を据え付けていられている。けれども彼女の中にあっただろう鋭い刃のようなものは、すっかりなまくらと化している──とにかく、そんな感じだ。

 そんなことを考えながらまったり二人で水や酒を飲んで待っていると、ようやくつまみがやってきた。テーブルの上は海鮮丼に焼き鳥やたこわさびといった副菜みたいなものを付けた少し豪華な定食風のいろどりになる。海鮮丼に、僕は昆布だしの醤油をかけ、由芽は本醸造の醤油をかける。

「いただきます」

「ごちそうになります」

 二人して手を合わせ食事の号令をし、箸を手に取り一口食べた。もぐもぐしながら由芽を見ると、まだ手を付けていない。代わりに一旦箸を置き、生ビールをまた一口飲んでからようやく海鮮丼に手を付けた。

「どうしたんだ」僕はその挙動についてたずねる。

「なにが」彼女は応える。

「そのヘンな間」

「ああ」彼女はたこわさびを摘んで食べる。「儀式みたいなさ」

「儀式」

「そう」

 私なりの、と言うと、今度は丼を持ってがつがつと海鮮丼を食べ始めた。その動きで本当に海鮮丼が美味しそうに見えて、僕もつられて丼を持ちがっつくように食べた。

 彼女なりの儀式、とはなんだろうか。この場で取って付けたような行為のようにも思えたが、儀式などと大げさな言葉を使われるとたずねづらい。

「今さ。儀式ってなんだよ、って思ってるでしょ」

 驚いて思わず「うん」と頷く。

 わかりやすいなあ、と微笑んだ彼女は「まあ、なんとなくだよ。大した意味なんてないって。透くんもそういうときぐらいあるでしょ。願かけ願かけ」と言う。

「そりゃあるけど」僕は答える。「食うの躊躇ってるようにも見えたし。気兼ねしなくていい」

 そう言うと由芽は一瞬だけ目を見開き、「気にしてないよ。今はそんなの気にしてられないからね」次にはその一瞬をなかったかのように繕った。

 誇り、謙虚過ぎる矜持、とでもいうのだろうか。彼女のような完璧人間が持っていそうなプライド。僕にはプライドなんてありゃしないが、それもまた、どうして僕にないものを彼女は持っているのだろうとか、どうして彼女にはそういうところがあるんだろうとか、思ってしまう。気になるところだが、それでもこればかりは調べようがない。

 でも、聞くことはできる。

「由芽」

「ん」

「由芽ってどんな人生だったんだ」

「なにそれクッサ」

 あまりにも跳ね除けるような言い方がほんの少し胸に刺さった。

 しかし次には、でもね、と姿勢を正してくれる。お酒も入ってるし教えてあげてもいいかなあ、と。こちらは水しか飲んでいないので素面しらふだが、彼女は空きっ腹に酒を入れたせいかだいぶ酔ってしまっているようだった。僕は、いいよ、聞かせてよ、と告げ、彼女のしばしの沈黙を受け止めた。

 その沈黙ののち彼女は騒がしい店内で、酒に酔っているにもかかわらず凛とした声で語り始めた。

「私、すごく貧乏な家の生まれでさ。でもずっと親に頼りっぱだったんだよね。一人娘だし、いろいろ手間かけてやりたいって気持ちがあったんだと思う。ずっとずっとお金ないのに私のために気い張ってさ。別に行かなくてもいいって思ってた遠足とか修学旅行とか、全部行かせてもらってた。親の頑張りのおかげで、私は世間体を気にしないでいられてた」

 そういうのが続いてた。

 彼女は続ける。

「お父さんが過労で倒れてから収入が一気に不安定になったの。中学生のとき。もともと持病持ちだったんだけど、そのときにやっと気づいた。私が頑張らなきゃって。今までお父さんにもお母さんにも頑張ってもらって、すごくいい思いできたから、今度は私が頑張ってお返しする番だ、って。しばらく待っててって親にも言った。いい大学出て、いいお仕事に就いて、絶対に恩返しするからって。今考えたらさ、世間知らずの馬鹿だよねえ。ま、若気の至りってやつ」

 僕にはそう動かしているように見えたのだが、彼女は──みじめだなあ──わずかに口だけで呟いて続きを話した。

「成績は、高校時代は良かったほうだけど上には上がいるでしょ。学力の面でも家庭状況の面でも。あの大学、奨学金の審査結構厳しめだって噂あったじゃん。お父さんは転職して働いてたけど、私も選考から外れちゃって。合格したはいいけど学費と生活費、どうにかこうにかかき集めなきゃならなくなったんだよね」

 上手くいくわけがなかった。

 今度は弱々しい声で呟いた。

「バイトしないでとにかく成績上げて、頑張って一部免除くらいはしなきゃと思ってたよ。でもま、国公立大の魅力って私大より学費がめっちゃ安いってところでしょ。今だったら圧倒的に。だからそもそも経済的に厳しい人が多いわけじゃん。私よりやばい人なんていくらでもいたんだね。日本だけでも世界は広かった」

 成績がいいだけじゃ駄目なんだって気づいたよ。もっと同情とか涙を誘うような物語が背後に無きゃさ。負けたよ。いろいろ負けた。

 それでも彼女は笑っていた。僕には酷く深刻な話に聞こえたが、彼女にとってはそうではないのだろうか。

「それで、由芽はどうしたいんだ。大学に入り直すとか」

「さすがにもう無理だよ。中退にもいろいろ理由あるだろうけど、私のは世の中の有象無象と比べたら些細で平凡なものだもん。それにさ」

「それに」

「問題はお金のことだけじゃないの。気持ちの問題もあるの。私より苦しい思いしながら、それでも頑張ってる人なんてたくさんいるでしょ。そういう人がいるのに、なんで自分だけ甘い蜜吸おうって思えるんだろう。もう無理だよ。私は今までずっと頼りっぱだって、そろそろ自分の足で立たなくちゃ。奢られてる身分で言うのも、実はすごく恥ずかしいんだけどさ」

 そのまま彼女は乾いた笑いをしながら、飲もうとして一度手に取ったウイスキーをゆっくりとテーブルに置き直した。そのときにはもう彼女の表情は余裕がなくなっていた。

「ごめん、調子乗り過ぎて戻しそう。お手洗い行って来る」

 矢継ぎ早に告げるとさっさと立ち上がり、急いでトイレへと向かって行ってしまった。後ろ姿を見届けると、僕は水を注ぎ足して飲み干す。息を吐いた。体調が良くないのに、もしかして誘ったから付き合う他なかったのだとしたら問題がある。

 もっと由芽のことを気にかけてやるべきなのだろうか。

 そう考えてかすかに首を横に振った。彼女は彼女なりに考えていることもあるだろう。それに、自分の足で立たなくてはという彼女の決意のようなものは、きっと僕が食事を奢っている今でさえかなり傷付けてしまっているはずだ。しかし、問題はお金だけじゃなく気持ちの問題もあると言っていたのは気になる。両親にも中退を打ち明けていないというなら、彼女にとって一番大きな拠り所すら頼れなくなっているはずだ。それを見越しておいて僕になにができるのかわからないが、とにかく、側にいてやらなければならない。

 僕にできることがないかそれでもしばらく考えていると、やがて由芽が戻ってきた。腕時計を見ると十五分もトイレに籠りきりだったことがわかった。彼女はふらふらと力なく歩んでおり体調が悪いのは一目瞭然だった。僕は席を立ち、彼女を抱えた。

「大丈夫か」

「うん、ごめん。また迷惑かけそう」

「歩けるか」

「ぼちぼち」

「今日はもうお開きだな。アパートまで送っていく」

 僕がそう言うと、由芽はばっと項垂れていた頭を上げ、「そんなの悪いよ。ここから二駅くらい遠いんだから」と断る。

「じゃあタクシーだな。店の前に呼ぶから」

「それも駄目だって。迷惑かけちゃう」

「迷惑じゃない。奢られるときは奢られろ」

 彼女はむっと眉間に皺を寄せ、口をへの字にしてあからさまに嫌そうな表情になる。きっと余計なお節介だと思っているのだろう。しかし、泥酔一歩手前の体調を崩した女の子ひとりを夜遅く歩かせるのは危険なうえ、良心の呵責に大いに障る。

「もう、駄目って言っても聞いてくれなさそう。わかった。じゃあアパートまでよろしく」

「ああ」

「そのかわり」

「ん」

「なんにもしないこと」

 明らかな不審感を募らせた視線を僕に向けると、彼女はすぐにそっぽを向いた。完璧主義の彼女に対しそんな真似などできるわけがないし、僕自身そんな不貞な真似はしない。「わかったよ」

 ほら、担ぐぞ。と彼女を支えてやると、僕は会計を済ませてタクシーを拾った。

「北大路交番近くまで……」

 北大路交番ね、と復唱してカーナビに入力すると、運転手は何も言わず車を発進させた。進路は確かに北大路へ向いており、僕は信号で停車した時を見計らい、ビニール袋を受け取って彼女に渡しておく。看板のネオンとロービームがさあーさあーと過ぎ行く車内で、僕は静かに寝息を立てる由芽を見た。ネオンの明かりだけでも彼女の顔は酷く青ざめているのがわかり、あそこで飲みを終了させて良かったと思う。そのとき彼女のバッグからスマホの着信の音が鳴った。しばらく鳴り続いた後、ぴたりと止まる。その後、無事に北大路交番の前に辿り着いた。

 二千五百円です、と間延びした声で眠そうに言う運転手に僕から支払って由芽を起こす。

「由芽、起きろ」

 呻き声を上げおもむろに車から降り、僕も降りるとタクシーはさっさと行ってしまった。僕は彼女を支えながら彼女に問う。

「歩きながら案内できるか」

「寝ぼけてなければ」

 大丈夫そうだな、と僕が言うと彼女は、とりあえずそこの小道に入って、と呟く。

 彼女の案内に従って歩き続けると、次第に街灯が少なくなる。真っ暗とまでは言わないが、中途半端な薄暗さのせいかひとりで歩くには少しばかり怖い。こんな場所に由芽が居を構えているのかと思ったが、バイトでの生計なのだからそれなりの安物件でなければならないのかもしれない。しばらく歩くと、入り口あたりに街灯が立っている小奇麗そうなアパートが見えた。

「あそこ。二〇五号室」

 由芽が呟き、僕はアパートの簡素な門を開いて二階へ行く。二〇五号室に着くと、いつの間にか鍵を取り出していた彼女からそれを手渡された。受け取り、鍵を開ける。静まり返った閑静な夜の住宅街にがしゃんと大仰な音が響き、これ以上音が立たないようゆっくり扉を開けて中に入った。玄関近くのスイッチに手を触れると明かりが点き、そのまま短い廊下と小さなキッチンの横を過ぎて部屋へと着く。

「電気点けるね」

 由芽は僕から離れ、部屋の明かりを点けた。ちかちか何度か点滅したあと眩しいほどの明かりが点き、無意識に部屋を見渡した。

 部屋はとても質素で、ベッドと木製テーブル、絵本や文庫本、資格のテキストがたくさん詰まった背丈ほどの本棚、それに壁にかけられたグレーのスーツが一着のみ。クローゼットは開け放たれており、中には小さな衣装箪笥と衣装ケースがひとつずつあるだけで、ほかは何も無い。年頃の女の子の部屋という印象からはかけ離れ、独房に近いという印象を与えられた。パソコンもテレビも無いが、スマートフォンだけで事足りるからだろうか。あるいはお金の足しと毎月の出費のために売り払ったのか。両方あるかもしれない。

 僕がそんな部屋の様子に突っ立っている中、彼女はベッドに体を預けて呻いていた。適当なコップで水を汲んで彼女に手渡すと体を起こして飲んでくれる。

「あー……。だいぶよくなったかも。ありがと」

「いいよ。こんな僕でも体調くらい気づかわせてくれ」

「ふっ、いいこと言う」

 そのまま一気に最後まで飲むと、大きく溜め息を吐いてテーブルに置いた。

「それにしても由芽の部屋って前からこんな感じなのか」

「んなわけないじゃん。大体の家具とか服は売ったよ」

「生活の足しに?」

「うん。それに、そんなお洒落って感じの人でもなかったでしょ、私。情報収集とかバイト求人とかはスマホで十分」

「パソコンないと困らないか」

「なんで? ゼミの資料作成なんてもうする必要ないし、最近じゃスマホでもそういうのできちゃうし、問題ないよ」

「そうか。そうだよな」

 おかしなぐらい奇妙な感覚がしてしまったのは、僕が彼女をまだゼミ仲間のひとりだと錯覚しているからだろうか。それとも、以前とまるで変わらない考え方で彼女が一連のことを済ませているからだろうか。どちらにしろ、今の僕には到底考えの及ばない場所に由芽はいる。

「もうひとりで大丈夫か」

「うん。透くん出てったらちゃんと鍵もかけるし、大丈夫」

「じゃあそろそろ帰るぞ。いいか」

「心配性だなあ。いいよ大丈夫。また図書館でね」

「ああ」

 僕はベッドに体を横たわらせながら手を振る彼女に別れを告げ、そのままアパートを後にした。

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