第3話
先週の土曜日から一週間後の土曜日。時間はあっという間に過ぎ、僕は読み聞かせボランティアの日程である時間帯に合わせるように県立図書館に来ていた。この調査のために作った図書館利用者カードをゲートにかざして難なく入館し、読み聞かせが行なわれるグループ学習室へと足を運ばせる。道すがら周囲に目を配らせてみると、勉強中の学生や調べ物をしている年配者などでそこそこ活気づいていることがわかる。子どもの姿はない。そうこうしている間にグループ学習室に着いた。
「由芽、来たよ」
「あ、透くん。本当に来たんだ」
「なんだよ。本当に来た、って」
中へ足を踏み入れると、そこには本の整理をしている由芽の姿があった。胸のあたりに図書館に許可された職員であることを示すネームプレートが顔写真入りで留められていた。紺色の太いボーダーが一本入った白いセーターをゆるく着こなしていて、それでネームプレートが強調されている。気合いが入っているのか、肩まで伸びているはずの黒髪はバレッタで端整にまとめられていた。
よいしょ、と持っていた本を脇にまとめて寄せられた机に置くと、こちらに歩いてきた。
「だって子どもたちへの読み聞かせだよ。すごい感情込めて読むんだよ。見知った人に聞かれるの恥ずかしいよ」
「来て欲しくなかったなら別の場所に調査しに行ったけど」
「いいよそれは別に。透くんだって知り合いなら気兼ねなく調査できるでしょ。ていうか、私のこと論文にどう書くつもりなの」
「そりゃ本名で遠野由芽だろ。論文なんだから。あとでインタビューもするからそのつもりで」
「うっわ、恥ずかし」
目を隠すように顔に手を当ててあとずさる由芽。いちいち挙動がおもしろくて、またほんの少し僕は笑ってしまう。
「そういえば子どもなんていないけど、本当に来るの」
ふと、そろそろ開始される時間にしては主役たちの姿がまったくないことが頭を過ぎり、僕は笑いを脇に置いて由芽にたずねてみた。すると、気を取り直した彼女がはたと気づき、壁に掲げられた時計を見る。
「ああ、子どもたちはだいたいちょっと遅れてくるんだよ。五分そこらね。図書館までのバスに本数がなくて、ちょうどいい感じの時間のが予定時刻オーバーしちゃうの」
「開始時間までに間に合わないんじゃな。一本早いバスに乗るように言えないのか」
改まったような一瞬の間の後、彼女は言った。
「ここに来るの自分で興味持ってくれた子ばかりなんだ。だから来てくれるのは嬉しいんだけど、子どもとは言えいろいろ事情もあるだろうからね。その辺は大目に見てあげないと」
やれやれだよね、と腰に手を当てながらやわらかく笑みを浮かべ、嘆息する彼女。その仕草だけでなんとなく僕は彼女が子どもたちにいたく好かれていることを察することができた。
「おねーちゃーん、来たよー」
そんなことを思っていると、背後から幼い声が聞こえてくる。見ると、そこには学年違いらしい五人くらいの少年少女たちがいた。
「あ、のん君。それにお友達も。これで五週連続だね。お姉ちゃん来てくれてすっごく嬉しいよ」
のん君、という子はどうやら先程声を出した男の子のようだ。背は低く、番号入りの野球のジャンパーを着て、青い野球帽を前後逆で被っている。後ろに引き連れた子たちもどことなく今時の子どもという感じがしない。活発に公園で遊んでそうな子が読み聞かせ会に来るなんて、と少し不思議に思う自分がいた。
「あれっ、おねえちゃんその男の人だれ? もしかしてカレシ?」
その子どもたちのひとりが僕たち二人を指差して言う。
「違うよ。この人は私のお友達で、透っていうの。このボランティアのことを知りたいって、何週間か付き添うことになって」
「へー。じゃあなんでもないんだ。つまんねえの」
つまんなあい、つまんなあい、というのん君の声を皮切りに、まるで合唱のように他の子らもつられて合唱に加わる。そのせいで、由芽がほんの少し困ったような顔をしてこちらを見てきたので、僕は「あんまり由芽を困らせるんじゃないぞ」と軽く叱責してみた。
由芽──と呼び捨ててしまったのがいけなかったのか、それを餌に「よっびすてー」という合唱に切り替わる。さすがに見かねた由芽が「こらっ。あんまりうるさくするとお姉ちゃん読んであげないよっ」と、ほんの少し張った声で叱責してくれた。その声にはさしもの調子づいた子どもたちも驚かされたらしく、はあい、と返事をしたのちすごすごと各々床に腰を下ろし始めた。
その後、落ち着いた部屋にぞろぞろと他の子どもたちも入室してくる。総勢して十五人ほどだろうか。あまり広いとは言えないグループ学習室内はそれでいっぱいいっぱいになってしまう。けれども、それ以上子どもたちが来ることはなくひそひそと話し声が聞こえてくる程度となった。
「結構来るもんだな」由芽に近づきそう言う。
「そうだね。だいたいいつもこんな数だよ」
「今日はなにを読み聞かせるんだ」
「今日はまず、これ」
そう言って整理していた本の中から取り出したのは『ギアッコ少年と豆』というタイトルの、色と線のコミカルな絵本だった。
「聞いたことないな」
「日本のじゃないからね。イタリアの童話だよ。事前に読んでみるんだけど、言葉の使い方がおもしろかったから。今週はこれと……あと、小川未明って人が書いた短編で、『海のかなた』」
「全然わからないんだけど」
「うん、まあそれはこれから聞いてみてよ。おもしろいから」
そう言って読み聞かせ用の椅子に腰掛ける由芽。僕も子どもたちの後方へ回って座り、バッグから小型カメラを取り出して設置、録画を開始した。彼女の読み聞かせや子どもたちの様子を書き留めるためペンとノートを手に身構える。目配せしたあと、彼女が口を開いた。
「はいみんな、こんにちは。今日も集まってくれてありがとうね。先週はなんのお話したっけ。……そう、ちょっと怖いお話だったよね。だから、怖いお話はやめて今日はこれ、『ギアッコ少年と豆』ていうおもしろいお話と、『海のかなた』ていうお話をするね。いつものように一つ目のお話は聞きやすいけど、二つ目のお話は言い回しや物語が少し難しいから、途中退室は自由によろしく。いないと思うけど」
じゃあ、まずは『ギアッコ少年と豆』から。と絵本を取り出し、由芽はページを開く。はじまりはじまりー、という声とともに子供たちの拍手が鳴り響き、静かになったところで彼女は語り始めた。
……
むかあしむかし、ここよりずうっと遠い場所に、ギアッコという一人の男の子がいました。
ギアッコは手にひと握りだけの豆を持っていて、それを、毎日一粒ずつ食べていました。
……
……
十五分ほどかけて、その物語は彼女によって語り尽くされた。おしまい、という言葉とともに「おもしろかった」という感嘆の声と拍手がぱちぱちと鳴り響く。
そんな中、僕はノートに一切を書き記すことなくただ呆然としていた。とにかく驚かされていた。いつの間にか彼女の語りに心引き込まれ、物語に没頭していた。声の抑揚、使い分け、調子、リズム、どれも彼女なりのアレンジが加えられているのだろうが、その上で物語にはまったく関心を向けていなかったこの僕が物語に引き込まれている。今まで感じたことのない不思議な感覚の中、僕は物語にひたっていた。
呆然としている僕に彼女が気づいたのか、「十分休憩するから、その間にトイレに行きたい子は行ってきてね」という言葉とともにこちらに歩んでくるのが、視界の端に写る。
「黙ってどうしたの。どっか悪いの」
「え、あ、いや。なんでもないよ。ただちょっと意外だった」
意外、という言葉に面食らった彼女は、そのまま首を傾げる。
「意外ってどこが」
「話し方とか、調子とか、なんだか由芽っぽくないな。由芽にあんな器用なことできたんだな」
「さすがに失礼じゃないかな透くん。私ってそんなガサツに見えた?」
「いや、そういうことじゃなくて。なんか、よくわからないけど、意外だなと思った」
「ふうん。よくわからないけど、次の作品も聞いていくならちゃんとメモ取っときなよ。なんにも書いてないんじゃ研究者の名が廃るね」
「わかったよ」
休憩の間でそんなやり取りをしてから、トイレに行っていた子どもたちが帰ってくる。それを見た由芽が軽く手を振って僕から離れる。
次の話は、たしか『海のかなた』だ。
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