第5話
由芽とこれから会うことができるのは図書館での読み聞かせのときだけだ。由芽と海鮮丼を食べた次の日に届いたメールいわく、これ以上透くんに迷惑はかけられないから、帰りにご飯を奢ってもらう必要はないし、なにか奢ろうと気をつかう必要もないのだという。それが彼女なりの僕への礼儀だとでも思っているのだろう。どんな人にでも気をつかわせまいとすることが、今の彼女の譲れない矜持になっているはずだ。
僕は相変わらず自分の部屋で図書館から借りてきた文献に目を通し、それを先行研究としてまとめる作業をしている。本格的な調査はまだ始まったばかりだし、問題意識もしっかりと考えている――しかし、ここに来て研究目的に揺らぎが生じているような気も禁じ得ない。僕がこの研究をしようと思ったのは僕が僕自身のことを社会学的に知ろうとしたからだ。それは確かだ。今の自分の来歴の外堀を確実に埋めるために、幼児期および幼少期の倫理道徳教育の如何について知ろうとした。他者のために、学術的貢献のために、周囲にはそう取り繕いあるいは嘯いて修士論文生としての確信的な納得を与えているが、それは外面的な説明でしかない。内面的な理由は徹底的に自分のため、自己のためであり、それが結果的に他人のためにもなるのだろうというある種の上から目線のような自己中心私感のような、そんなものでしかないのだ。父さんは由芽と再会した日の夕食時に参考資料として用いるかも知れないと言っていたが、僕はそんなことのために研究しているわけではなく、ましてそのために目的を見出したわけでもない。僕は僕だけのために自分についての研究をしている。その真意を誰にも知られることなく――気付けば無心になってワード文書にそのことを叩き打っていた。机の上に開かれた文献は知らぬ間に閉じられており脇に寄せられてあった。中途半端な位置から件のおかしな文章が続いており、その箇所をドラッグして少し躊躇ってから削除キーを押した。ぱっと白紙に戻されたその文章は、しかし僕の感覚となって記憶の中に強烈に焼き付いた。
今日もあまり進まないかもしれない。頭の中の雑音が多すぎた。あれこれと無駄なことばかり考えてしまい作業がまるで進まない。こんなときは仮眠でも取って、すっきりした頭でまた臨めばいいだけだ。それだけで、少しぐらいは前に進めることができるだろう。
パソコンは点けたまま、文献は当該ページを開いたままで、僕は椅子から立ち上がるとベッドに倒れ込んだ。
そしてそのまま。
「今日はなんの作品を読むんだ」
僕は図書館に着いて由芽に会うなりそうたずねた。これまで幾度かの読み聞かせ会に参加し、その様子を眺めて、いつの間にかその日に読み聞かせる本のタイトルをたずねる習慣が身に付いていた。そうして僕が聞くと毎回同じようにグループ学習室で本を整理している由芽がそのまま答えるのだった。
「今日はちょっと古い作品だね。難しめのやつ」
「いつもは簡単なやつから始めるんじゃなかったか」
「子どもたちからのリクエスト。この地域の小学校合同の読書感想文大会で他の子に差付けたいんだってさ。難しければ難しいほど先生から褒められるってわかってるんだね」
「でも、難しすぎて感想は書けないだろうと」
「うん。たぶんね」
由芽の言葉で僕たちは笑い合った。子どもらしい単純な承認欲求だろうと思った。けれど、それが自分の身に余るものかは、また別問題。
由芽は整理していた本から一冊の文庫本とコピー用紙の束を綴じたものを取り出した。
「『灰色の記憶』。作者は久坂葉子。難しいって言ってもそこまで難しくないんだけど、多感な子供にはちょっとした感動があるよ。結構長いから抜粋して再構成してる」
「それはどういう本なんだ」
ごく自然な興味を投げ掛けると、彼女はすましたようにやや固まった。
「たまにはさ、なにも知らないまま本の内容に浸ってみない?」
由芽の呆れたように放った言葉の意味が僕にはわからなかった。ただ「それもそうか」と生返事のようなものを返し、薄く笑みを浮かべた彼女の表情を見届けた。
今日は少し長い小説だったので、その一冊を読んでいつもと同じようにその日の読み聞かせ会は終わった。その日の内容はよく覚えている。主人公の一生をなぞるように展開されたもので、子どもに読み聞かせるものとしては暗いものかもしれなかった。
……
……
結末のないお芝居の幕が降りようとした。その幕が降りきらないうちに観客はあくびをして立ち上った。幕は中途半端なところで中ぶらりんに垂れていた。
……
最後のこの言葉が気に入ったな、とそう思った。けれども、小学生が単に好奇心で読むならまだしも、読書感想文の題材として読み聞かせするには話が暗すぎる。最後の一文だって、どことなく尻切れ蜻蛉のような物悲しい終わり方だ。題名も『灰色の記憶』と黒でも白でもないどっちつかずのもの。半分まで下がった垂れ幕の向こう、そこまでは描写されていなかった。
「今回のお話、ちょっと長かったね。読書感想文の題材にするには長いから、これを機に図書館で本借りてってね」
息を吐いて本を閉じ子どもたちにそう呼び掛ける由芽。釣られて彼らのほうを見ると、半分寝てしまっているのかうつらうつらしている子や、もはや完全に寝てしまっている子もいた。最後まで起きている子は片手で数えられる程度だった。それでも、自由に入退出できる読み聞かせ会で一人も部屋を出て行かなかったのは素直に感心した。二人で本を片付けてから図書館を出ようとすると、玄関近くの貸出しコーナーで子どもたちがその本の取り合いをしていた。
「結構借りていくもんだな。ていうかあれ止めなくていいのか」
「私が読んだ本は必ず取り合いになるね。あと、ああいう些細な問題はなるべく子どもたちだけで解決するべきだと思う。だから基本手出しはしない。ばいばいって言って通り過ぎるとぴたっとやんじゃうから。子どもたちも案外そういうことはわかってるんだよ」
そう言って彼らの前をばいばいと言ってにこやかな表情で通り過ぎると、彼女の言った通り子どもたちの取り合いは止んだ。そして、冷静になって話し合いを始めた。
図書館を出ると僕はまた彼女を食事に誘うことにした。彼女は数週間前と同じように、いいよ、と以前より素直な様子ですぐに返事をした。あのメールはもしかしてはったりだったのだろうか、そんなことを思いながら気にしないようにしつつ、僕たちは図書館を後にし飲み屋に向かった。
その場所は由芽の最寄駅である北大路駅から歩いて数分の距離にあった。駅の裏手にあるからか表ほどの活気はない。しかし、それゆえ落ち着いた雰囲気のあるその場所は由芽の性格には適っているだろう。僕と由芽は電車内、徒歩中と他愛ない会話をしながらその飲み屋へと足を踏み入れた。
「へえ、こんな場所あったんだ」
席までの道で店内を観察しながらそんな感想を呟く由芽。
「探したんだ。居酒屋みたいな騒がしいところよりずっと話しやすいだろ」
「ワインバーかあ。まあ乙女心にはこっちのほうが来るかな。どっちでも良かったんだけど」
「じゃあ今日はこっちだな」
「はいはい」
僕たちは席に着いた。ワインバーはワインの価格帯によって設定されており、僕たちは四段階ある価格帯のうち、二番目にグレードの低い五〇〇〇円コースを選んだ。とは言ってもこの店の価格帯設定は三〇〇〇円から一万円で、二人分を一人で支払うにしても二万は超えない。由芽はそれこそ「そんな高いの奢ってもらうわけにいかない」と突っぱねていたが、「世の中プライスレスなことが多いだろ。僕はそう思ってる」と柄にもない台詞が出てきて、彼女は身を少し後ずさりさせたあと渋々ながら納得したふうな顔を見せた。料理は数十種類のバイキング形式から数種類を選び、それからバーに赴くとそれぞれ価格帯で一番高価なワインを一杯グラスに注ぎ入れた。その際、チーズやクラッカーといったお通しも同時に選び席に戻る。
乾杯、と控えめに鳴らしたグラスを各々口元に寄せて一口飲んだ。飲んでみない、と誘われた僕もグラスを傾けたときの甘い香りに後押しされ、口に含む。けれども慣れ親しんだぶどうの果肉の甘みはまったくと言っていいほどなく、代わりに皮に特有の渋みは強く感じられた。その後、口直しのためチーズをひとかけら口に入れた。しかしこれがなぜか、いつも食べているようなチーズよりずっと美味しく感じられた。
「五千円のワインどころか酒も初めて飲んだけど、なにが美味しいのかわからないな」
「こういうのって慣れらしいからね。味覚の世界だから、習うより慣れろって感じで」
でも、なんかウイスキーとかビールよりずっと飲める気がする。と由芽が言う。
「同じ銘柄でも一本分までなら飲み放題らしいし、たくさん飲めばいいんじゃないか」
僕がそう言うと彼女は少々間を置いて沈み込むように頷いてみせた。
ほどなくしてメイン料理が届いた。ステーキに似た肉料理だった。これが鹿肉らしく、市周辺を取り囲む山々で狩猟された鹿を買い取って料理にしたものらしい。ナイフとフォークで丁寧に切り分けてから口に運ぶと、この間食べたビーフシチューの牛肉より少し噛みごたえのある癖のない肉の味が口の中に広がった。由芽のほうを見ると僕と同様に鹿肉は初めてだったのか、興味津々といった表情で次の一口を切り分けていた。備え付けのソースを絡めると、これがまた鹿肉の食感に合うさっぱりとした大根おろしの和風ソースだった。
「やだなあこれ、すっごい美味しい。鹿肉のくせに言われてるほど臭みもないし」
苦虫を噛み潰したような面持ちだが美味しさに笑みを浮かべずにいられない、そんな複雑な表情をしながら由芽が感想を言った。僕も美味しいと思った。グラスを傾けて口直ししてから次の一口を切り分けた。
それなりに料理を食べ終わったとき、由芽がコンソメスープの残りを嚥下した後、こんなことをたずねてきた。
「ねえ。そういえば透くんはどうして社会学に興味あったの」
どうして社会学に興味あったの――そんなことを唐突に聞かれて咄嗟の返答に困った。答えは既に僕の中にあったが、質問の意味が曖昧過ぎたのだった。だから僕は聞き返した。
「どういう意味だ」
すると由芽はワインを飲んでこう言った。
「何で社会学に興味あったのかなあ。なんか就きたい職業とかあったの」
「そういうわけじゃない。興味あっただけ」
「でも大学生が本当に興味だけで修士の道を突き進むってのもおかしくないかな。なにかしら他人には譲れない将来とか信念みたいなものがあったんじゃないの」
そんなことを言われても、今の僕の不純な動機が由芽に理解され受け入れられると思えない。なにより、徹底的に自分のためという動機を打ち明けてしまったら、きっと由芽に愛想をつかれてしまうに違いなかった。だから嘘を吐いた。
「子どもの頃の経験がその後の人格形成に与える影響は大きいだろ。それを社会学的に捉えたかったんだ。非行に走ったりする未成年の増加は今に始まったことじゃないけど、人生棒に振るような行動したらいろんなものが台無しになる。そういう子を少しでも減らしたくて」
由芽は一度だけ頷いた。
「由芽はどうなんだ。どうして社会学に興味が」
僕への話題を逸らすために、僕は彼女に話題を振った。彼女はまたワインを一口飲んだ。
「私は単純に、自分の境遇を変えるために、かなあ。記者になりたかったのも、自分がどうしてこの場所にいるのかってことの確認と、やっぱりどこか社会を変えたいと思ってたのかも。親が一生懸命働いてても裕福どころか貧乏だったしさ。なんでこんなんだろうって納得がいかないのもあった。自分のことなんかどうなってもいいから、私とか、私の家みたいな矛盾した存在があって、これからもそんな存在が在り続けるのって、すごく納得がいかなかったから。ま、大層なこと言っても今はこの有り様だけど……」
由芽の口から取り留めなく語られたその言葉は、酒の作用か、気持ちの整理がついていないのか、酷く乱雑にまとめられているように感じられた。けれど、そこには僕の自己中心的な信念ではない、僕とは正反対の徹底して他者のためという種類の利他的な信念が見え隠れしているように思えた。僕と由芽は違うのだろうか。ふとそんなことを思った。それを考えるのは決して無駄なことではないとも感じた。僕の研究のためにも――ぼうっと霞みがかったような頭の片隅で、それは良くないことだとも同時に感じられた。いくら彼女のことばかり注視しようと、それは学問の範疇ではなく至極個人的な興味関心に組み込まれることになるだろう。これは僕の研究目的とも学問的関心とも性質を同じくしていないのだ。だとしたら、この、心臓をぐっと握られたような感覚はなんなのだろう。
「それは由芽の本心?」
「え?」
「社会を変えたいとか、納得がいかないとか」
由芽は黙った。また僕お得意の少しこねくり回したような質問なのだろうと思い、考えているに違いない。彼女は数十秒ほど目を瞑って思案したあと答えた。
「本心ってより使命感に近いかな。言われてみれば。なにが違うんだって言われたら答えにくいけど。言葉にしにくい。でもそんなもんじゃない。自分はこれをするために生まれてきたんだって思えるほうがおかしい。そういうのはわかってる。現にこうしてそれは叶わなかった。それをこれから叶えるには、時間もお金も随分足りない」
由芽はぎこちない笑みを浮かべグラスに口を付けた。
「いや、変なこと聞いてごめん。あの由芽が……すっかり鈍らな感じになってて違和感が」
「鈍らって。でもその評価、あながち間違ってないかも。だって私、今すごく自堕落な生活してるし」
「自堕落」
唐突に由芽から発せられた意外な言葉に僕の頭の霞がぱっと晴れた。
「買い物とバイトと読み聞かせボランティア以外にはほとんど外出してないんだよね。暇な時間はみんな図書館で借りた本読んでる。読み聞かせの図書の選出も兼ねてね」
本、図書、と僕は
「どんな本を」
「基本はなんでも。でも童話とか児童文学とか、小学生レベルの本がほとんどかな。目的は読み聞かせ図書の選出だから。他にも読む本あるけど、まあそんなとこ。透くんは」
そこで由芽は、あ、と気付いたように目を開いた。修士論文のための本ばっかで、童話とか児童文学なんて読む暇ないよね、とそう言った。
童話、児童文学。言われてみれば由芽の発言は的を射ていた。なんのために読み聞かせボランティアに来たのかは、子どもにとっての読み聞かせの意義ということだけでなく、読む本なども当然考慮に入れる必要があるだろう。読み聞かせに訪れる子どもたちはこのボランティアへの参加歴は長いようだし、彼らにもインタビューをしたりアンケートを取る必要は当然ある。
「いや、研究とは意趣が同じだし、子どもの頃に読む本にも注目するのは大事かもしれない。たしかに今は先行研究しか読んでないけど、今度からはきちんとそういう本にも目を通してみようかな。ありがとう、由芽」
そう言うと、彼女はほんの少し頭を捻ってから。
「目を通すじゃなくて、読む、だよ。透くん」
と呆れたような声で言った。
それは悪かったと頭を僅かに傾けた僕は、鹿肉を切り分けて口に運んだ。
「でも、私の言葉が役に立つと思わなかった。なんかちょっと嬉しいな」
それを聞いて頭の中の霞は、そのときにはほとんど消えていた。
その日の夜の先行研究まとめは今までの滞りが嘘だったと感じられるほど順調に進んだ。家に帰ってパソコンを立ち上げすぐさまワードを開いてから、かれこれ三時間は経っていることに気づいた。時計を見るともう時刻は午前一時を回っていた。僕は上半身が凝り固まっていることにも気づき、座ったまま大きく伸びをした。
ふと充電していたスマートフォンを見ると、着信が一件入っていた。由芽からのメールだった。休憩がてら気になってメールを開いてみると、件名には「返信よろしく」。着信時刻を見ると、先行研究まとめに夢中になっていた時刻だった。内容には、今日はまた奢ってくれてありがとうという感謝の旨と、今度は私の奢りでどこかに出かけないか、という誘いのメール。どこに行くかわからないが、とりあえず異論はないことを送信すると、彼女もまだ起きていたのか数分と経たずメールが返ってきた。
『よかった。じゃあ再来週の土曜日に開店する大型書店でいいかな。』
『大型書店? なんだってまたそんなところに。』
『実は県立図書館の企画で選書ツアーがあってさ。いつも読み聞かせに来る子たちも参加させてみないかってことになったの。もしよければ透くんも参加してみない?』
僕はその文面を見て、選書ツアー、おもしろそうな企画だ、と思った。おそらく由芽の算段では僕にも子どもたちのお守をしてもらおうという魂胆なのだろう。それはそれで構わないし、子どもたちが自発的にどんな本を手に取るのかも気になるところだった。
『いいよ。わかった。』
『詳しいことは来週の読み聞かせの後に伝えることになるんだけど、本当にいい? 一応私たちにも選書分の予算は渡されるからキャンセルするなら今のうちだよ。』
『僕にも選書の予算が渡されるのか』
ふとした疑問を返すと、彼女は言った。
『うん。私から図書館長さんに話付けておいたから。』
どっちにしろ有無を言わせる気はないらしい。僕は『キャンセルしないよ。僕も行く。』とこの場で約束として取り付けておくことにした。
『ありがとう。こんな夜遅くにメールしてごめんね。また来週。』
『来週。おやすみ。』
それで僕たちはやり取りを切った。再来週の選書ツアー。
とても楽しみな気分になって十分な気分転換もできたところで、僕は気分が乗っているうちに先行研究まとめを再開することにした。
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