第6話

 市街地に新しくオープンした選書ツアー会場の書店の前にはたくさんの人がいた。事前に調べた限り一店舗五階建ての書店は、一階がテナントの入った広いアトリウムになっており、四階までが分類ごとの書籍売り場となっていて、五階がCD・DVDのレンタルショップやゲーム売り場、家電量販施設になっている。出版不況と呼ばれるご時世でここまで大規模な書店が出来たのは、子どもの学力全国一位を誇る知事のおかげだろうか。県内随一の売り場面積を誇っているのは明白だった。

 僕はオープンの十時までに開店を待ち望む人でごった返す書店前に来ていた。県立図書館の選書ツアーの一団だというプラカードを掲げた職員さんがあちらこちらに向けてそれを振っているのが見え、そちらに向かう。一団の前にたどり着くとすでに由芽と子どもたちは来ていた。どうやら由芽が引率として図書館から率いてきたようだ。

「おはよう」

「あ、透くん。おはよう――こらみんな、楽しみだからって駆けない。はしゃがない。周りの人たちに迷惑でしょ――すごい人だね。びっくりした」

 由芽が興奮して落ち着きのない子たちを必死でまとめあげながらそんなことを言う。

「たしかにすごい人だな。こんなに書店に興味ある人がいたんだな」

「案外真新しいもの見たさかもよ。立ち読みとかさ。あ、でもここ立ち読みは電子書籍リーダーでやってるんだった」

「電子書籍リーダー?」

「そう。実験的に端末の立ち読みコーナー作って、電子書籍で少しだけ試し読みできるようにしてあるんだって。大事な商品傷付けられたくないもんね。上手くいくかはわからないけど」

 そういえば書店の人たちが一番苦慮していることは万引きだという話を聞いたことがあった。それで経営が芳しくなく、なかには万引き被害を苦にして店をたたむ事案も小耳に挟んだことがある。現物を用いての立ち読みは本が傷むばかりでなく、万引きのしやすさにも拍車をかけているというのだろう。

「なるほど。立ち読みコーナーに電子書籍リーダーか。書店側もやるもんだな。金かけてる」

「そ。なんでも本の注文もその端末でできるんだって。リーダーで試し読みして、書店に無かったら端末で自宅まで配送注文もできるみたい。結構賢い方法かもね」

 つまり、本が置いていなかったらその場で注文して家に帰り、あとは本が届くのを数日待っているだけで済む、ということらしい。

「選書ツアーに参加の方は発行した参加証と引き換えにチケットを受け取ってくださーい」

 大衆のざわめきの中ふいに耳に飛び込んできたその掛け声に僕は気付いた。

「あっちで引き換えやってるから行ってきなよ」

「ああ」

 僕はしばし由芽と離れてチケットを受け取りに行った。封書で届けられた参加証を差し出すと、宮内透さんですね、と言われ茶封筒を手渡される。その場で開いて中身を見ると現金三万円分の引き換えチケットが入っていた。参加者の大まかな人数と照らし合わせると公立の図書館なりにかなり奮発した値段だ。本の種類にもよるがこれだけあればかなりの冊数の本が買えるだろう。漫画本や雑誌は不可、三万円以内が原則、といういくつかの注意事項さえ守っていれば、自分の好みの本ならなんでも選んで良いことになっている。

 僕は「ありがとうございます」と職員さんに一声掛けて由芽の場所へと戻った。

「三万円か、結構な額だな」

「そうだね。でも子どもたちは一万円。私たちよりちょっと少ないけど、小学生にしては初めて持つ大金でさ、さっそく落として泣く子も出た」

 そう言ってびいびい泣いている女の子の涙をハンカチで拭ってあげる由芽。しかし、チケットとは言え一万円分の大金だ。この人だかりのなか落としてしまったものは戻っては来まい。これにはさすがの由芽も泣くのをやめるようあやすことしかできないようだった。選んだ本はチケットと一緒に係の職員さんに渡すことになっているし、これは仕方がないだろう。

「だから、チケットの管理は私がすることになった」

「職員さんに言われたのか」

「うん」

「信頼されてるんだな」

「そうだね。今の私にはなにものにも代え難いよ」

 そう言ってにっこり笑う由芽の表情を見て自然と僕も笑みが溢れた。

 由芽はもしかすると、今の状況にもそんなに苦々しい感情を抱いていないかもしれない。子どもたちと触れ合えて、読み聞かせで感動を与えられて、彼らの成長を見届けることができる。社会を変えることが夢だったとか自分の境遇に納得がいかないという心情は吐露していたが、子どもたちの将来を見据えてできる範囲で活動することも立派に社会を変える一助になるだろう。現状に納得はしていないが、理解することはできている。

「そろそろ開店の時間だぞ」

「あ、ほんとだ。――みんなー、お姉ちゃんとこ集まってー」

 僕が腕時計を見て十時五分前の針の位置を確認して言うと、由芽は大声で周囲に呼び掛けた。すると、先程まで散り散りになっていた子どもたちがどこからともなく現れて彼女の前に整然と並んだ。のん君、と呼ばれている野球帽を被ったいつもの子もいる。

「本を決めた時はどうするかみんな知ってるね」

 一階の休憩コーナーにいるお姉ちゃんのとこに行く! と子どもたちみんな声を揃えた。

「そうだね。それで、職員の人に選んだ本とチケットを渡したあとはどこで待ってるんだっけ」

 お店の一階にある椅子の所で待ってる! と、これまた声を揃えた。

「うん。みんな基本的には二人ひと組で行動してね。それで、お店の外には出ないこと。わかった?」

 わかったー! と一際元気な声が発せられ、よろしい、という由芽の頷きで話は締め括られた。

 書店はその三分後に開店し、僕たちはお店の中に入っていった。

 由芽はいったん子どもたちと行動を共にし、店内が落ち着いてから一階の休憩所で待っているということにしたらしい。透くんもなにか買いたい本があるんでしょ、という由芽に促された提案により、僕は「じゃあちょっと行ってくる」と告げ四階の新書・学術書階層へと赴いていた。ワンフロアすべてが分野別にまとめられた場所で出版社やレーベル別の区分は数える程度だった。僕は人文科学系統のコーナーに行き、教育分野の棚へと足を踏み入れていた。蔵書数はかなり多く、見えている範囲だけでも数百冊はありそうだった。倫理道徳教育は教育心理学の範疇。僕はさらに細分化されたコーナーへと歩いた。着くと哲学書のように分厚いハードカバー本が棚一面に並び、ほんの少し怖気づく。県立図書館でも大学附属図書館でも見たことのない蔵書量で、ざっと見渡す限りこのカテゴリだけでも三百冊以上はありそうだった。それも高価な本からあまり手に入りにくい専門書まで。無意識に、すごい、と呟いた。これだけあれば資料としてかなりの本が手に入る。関連しそうな書籍を棚から次々と抜き取っていき、あっという間に両手が塞がってしまった。近くで作業していた店員に本をまとめて運べるカゴのような物がないか聞いてみると、特別なはからいで作業用カートを貸し出してくれた。僕はそれに分厚い書籍の山を置き、再び書籍選びに没頭する。

 書籍選びの際に時折他の選書ツアー参加者も見かけたが、由芽の姿は見かけなかった。選書ツアーが終了するまで一階のレジ前で待っているつもりなのだろうか。子どもたちのチケットの管理をしている以上あの場から離れるわけにはいかないだろうが、子どもたちだってぎりぎりまで本を選ぶかもしれない。そうなれば彼女はせっかく自由に本が選べる権利を行使することなく時間切れになり、ツアーを終えてしまうことになってしまう。僕はそう思うと書籍選びの手を速めた。選書ツアーに誘ってくれたのは彼女でその恩は間違いなくある。とすれば、僕がさっさと切り上げて、彼女の代わりに子どもたちのチケットの管理をするのはどうだろう。

 書籍選びはちょうど棚の端までやって来たことにより終了した。他の棚にも分野別の棚が続いていないか確認したがそれもなく、僕はフロアごとに配置された選書ツアーの係員に本とチケットを託し、急いで一階の由芽の場所まで向かった。そこにはやはりまだ彼女の姿があった。手持ち無沙汰な様子で店内の客を眺めていた。

「あれ、早かったね。目当ての本は見つけられた?」

「ああ、係員の人がドン引きするくらいには」

「意外と厚かましいところあるんだね……」

 悪戯っけのある発言は聞き流した。

「由芽もチケット渡されたんだろ。なにか選んでこいよ」

「でもチケットの管理あるし、ここにいなきゃならないよ。子どもたちが全員本を選び終えてからじゃないと」

「もしかしたらぎりぎりまで粘って考えるかもしれないぞ。そしたら由芽の時間がなくなる。チケットの管理は僕がしとくから、由芽も選書ツアー楽しんでくればいい」

 由芽の視線は泳ぎ、どうしたものかと考えているようだった。あくまで図書館の臨時職員としての肩書きで子どもたちとチケットの管理を任されている由芽と、図書館とは事実なんの関わりもない僕とでは形式的な問題があるのだろう。たとえ由芽の友人だろうとそこは譲れないのかもしれない。

 しかし、由芽の答えは落ち込みかけていた僕の心情と裏腹だった。

「わかった。いいよ」

「本当か」

「うん。その代わり子どもたちの顔と名前は」

「さすがに何度も会ってるし、話もしたことあるから覚えてるよ。間違いのないようにチケットを渡せばいいんだな」

「そう。……じゃあ行ってこようかな。よろしくね、透くん」

 ああ、と頷くと由芽は僕に茶封筒の束が入ったビニールバッグを渡してくれた。見ると、封筒の一枚一枚には名前が書かれており、渡しやすいようになっていた。由芽らしい几帳面さだと思った。

 それで僕はしばしの間、由芽の代わりにレジ前に立っていることにした。

 待っている間、ひと組、ふた組と子どもたちがやって来て順調に書籍選びが進んでいることを封筒の減り具合で確認する僕。休憩所で子どもたちを待ってから一時間もすると、もう残りの封筒は二枚だけになっていた。そこに書かれてある名前は「のん君」と「れん君」だった。

 まだ本選びに悩んでるのかな、とそう思ったとき、視界の端に由芽の姿が映るのが見えた。手には数冊の薄い書籍。どうやらどれも童話や絵本らしい。そんな由芽だがどこか焦った様子で僕の元へとたどり着くと唐突に「ねえ、のん君知らない」と息切れを起こしながらたずねてきた。

「いや、知らないけど。まだ封筒残ってるからここにも来てないし。どうかしたのか」

「のん君どっか行っちゃったんだよ。本探してる間に他の子にも会ってたんだけど、のん君と一緒のはずのれん君に、のん君が一緒じゃなくて」

 焦燥しきったような由芽の声には明らかな不安の色が見えた。

「はぐれたのか」

「たぶんそうかも。れん君ものん君のこと探してた」

「迷子になったかもしれないな。とりあえず店内放送かけるよう店員に掛け合ってみる」

 小さく頷く由芽に二人の封筒を託し、僕はサービスカウンターのスタッフに掛け合った。するとすぐに了解してくれて、その場で呼び掛けてもらうことになった。

『……市からお越しの小野託也くん。お連れ様がお探しです。至急一階サービスカウンターまでお越しください』

 幾度か繰り返された文句。しかししばらく待っていても彼が来る気配はない。僕は繰り返し呼び掛けるよう店員に促し、自分で探しに行くことにした。

「由芽はここで待っててくれ。僕が探しに行く」

「わかった」

 そして、エスカレータに乗り込んで、絵本や童話が陳列されている二階へと向かった。

 二階は半分が絵本や童話のコーナーとなっている。残り半分は資格取得本や自己啓発本といった本のコーナーだ。のん君がいるとすれば絵本と童話のコーナーだ。僕はそこを重点的に探してみることにした。棚の間、奥まった階の端、子どもは忙しなく常に移動している可能性があるから、何度も同じ場所を探してみた。しかし、姿は見ない。推測だが、彼は他の階やコーナーにいるのではないかという気がしてきた。多感な小学生だ。少しは絵本や童話以外の本も気になる年頃だろう。だが、他にのん君が行きそうなコーナーというのに皆目見当がつかない。仕方なく僕は由芽の所に戻り、彼の情報を聞き出すことにした。

「のん君の興味だったら、図鑑とかかもしれない。その、保護者の連絡でそういうのが好きだって聞いたことあるから」

「そうか、よしわかった」

 踵を返す時、あ、と何か言いかけたような由芽の口の形がきになったので振り返った。

「どうかしたのか。まだなんか言いたげだったような」

「いや、なんでもない。ほら、早く行かないとまたのん君どっか行っちゃうかも」

 少し気にはなったが特段なにもないことを確認し、急いで僕は三階へと向かった。

 控えめな声でのん君、のん君と呼び掛けながら歩き探していると、生物学関連の書籍が置いてあるコーナー、様々な動物の図鑑が並んである棚の前でじっと立ち尽くすのん君の姿があった。ようやく見つけたことに安堵し、僕は彼の肩に手を置く。

「のん君、大丈夫」

「あ、お姉ちゃんの彼氏の」

「彼氏じゃない。のん君、みんな心配してたぞ。勝手に友達と離れちゃいけないじゃないか。ほら、戻ろう」

 腕を掴んでぐっと引き寄せると、のん君は踏ん張って抵抗した。

「どうしたんだ。行きたくないのか」

 首を振るのん君。

「図鑑が欲しいのか」

「うん。でも、高くって」

 ハードカバーで大判本のそれを抜き取って本の値段を見てみると、一万二千円もする高価な動物図鑑だった。続いてページを開き、中身を確認してみるとフルカラーで、しかも本来小難しい内容をかなり砕けた表現で丁寧に解説されてあり、子どもから大人まで幅広い層に楽しめそうな図鑑だった。その上かなり分厚く、見るからに五〇〇ページ以上はありそうな大著だった。たしかにこれは一万円超の値段が付いてしまうのも無理はないだろう。

「これが読みたいのか。どうして。他にもいっぱいあるぞ」

 僕が疑問からそう言ってみると、のん君は小さく首を振った。これじゃなきゃダメなんだと頑なに言い張った。

 困ったことになったな、そう思った。選書ツアーで子どもに許可されている金額は一万円だけだ。それ以上の本を買うには自費負担が必要になる。けれども、のん君があと二千円のお小遣いを持っているか否かといったら否だろう。持っていたら今頃は喜んで僕の所へやって来てチケットを受け取り、係員に図鑑を渡したはずだ。

「とりあえずチケットは持ってこよう。由芽も心配してたし。いったんその図鑑は元に戻して」

 のん君はまた小さく頷いてうやうやしく図鑑を棚に戻した。そして由芽の所へと戻った。

 エスカレータでのん君と軽く会話をして、すぐに由芽のいる一階に着いた。そして、こちらに気が付いた由芽が駆けてきてのん君を引っ張って店外に連れ出した。

「のん君! あれだけ注意したのにどうして約束破ったの! 心配かけて……みんなに謝らなきゃいけないけど、まずれん君に謝りなさい!」

 のん君に怒りを顕に怒鳴りつける由芽。通行人は僕らの様子を見てそそくさと離れようとしていた。

「……れん君、ごめんなさい」

「いいよ別に。どこもケガしてないし、連れ去られたわけでもないし」

「ごめん……お姉ちゃんも、彼氏さんにも」

「透くんは彼氏じゃないてば。それよりどこにいたの。本当に心配したんだから」

「由芽。それなんだけど」

 僕はのん君から少し離れて、のん君が図鑑コーナーの前で立ち尽くしていたことを打ち明けた。欲しい図鑑は一万二千円と子どもたちに支給されたチケットの金額では買えないこと。それでもその図鑑が諦められずにずっと立ち尽くしている他なかったこと。れん君と早く合流しなければならないことはわかっていたが、その場を離れると図鑑を誰かに先に買われてしまうのではないかと怖かったこと。

 それを話すと、由芽はのん君をじっと見つめながら黙ってしまった。

「由芽」

 どうしたんだと言おうとした次には彼女の口が開いた。

「のん君、図鑑が欲しかったの。透くんから聞いたよ。でも、そこは辛抱しなきゃいけない」

「え」

 無意識に呆気に取られた声が出てしまった。

「お金がないのは仕方ないよ。この選書ツアーは渡されたチケットの金額でどれだけ必要なものを得られるかっていう駆け引きでもあるんだから。選ぶ本は自分の好きなものでいいし、だからなおさらそうなんだけどね。それをお金が足りないからって好きなものの前からずっと離れなかったり、言い付けられたことを破って周りに迷惑かけちゃダメ。きちんと自分でお金を稼げるようになってから本当に必要で好きなものを買うんだよ。わかる? それまではその気持ちを心の中にしまっておいて、大人になったら大事に大事に使っていくの」

 由芽のその言葉にのん君はゆっくりと頷いた。恐らくのん君は由芽の言っていることがよくわかっていないだろう。とりあえず現時点で図鑑は諦めなければいけない、ということだけ、由芽の言うとおり心の内に秘めて。

「でもね」

 僕ものん君もはっとしたように顔を上げた。

「その図鑑、なんに使うつもりだったの」

 由芽が問うた。

 のん君が言う。

「おれ、将来動物博士になりたいなと思ってて。それで、今からそういうこと知ってておいた方がいいんじゃないかと思ってて、それで図鑑が欲しかったんだけど、高くて。欲しかったけど買えなくて。悔しくて」

「どうして動物博士になりたいの」

「おれ、よくテレビで田舎にいっぱい動物がいて、人と仲良くしてて、どうして街にいる動物はぜんぜん人と仲良くないんだろってふしぎに思ってた。その理由が知りたくて。いっしょに暮らせないのかなって、だから、その……」

 言葉を探しながら話しているのか、途切れ途切れなその言葉に由芽の表情が酷くしかめっ面になっているのが見えた。眉間に深い皺を寄せ、口はへの字に曲がっていた。傍目から見てものん君が彼女の表情に怖気づいているのは明白だった。

「のん君」

「な、なに」

「おいで」

 鋭く放った言葉の後、のん君の手を掴み店の中へと引っ張っていく由芽。

「おい、由芽」

「透くんは先に子どもたちの所で待ってて。私たちもすぐ行くから」

 僕に対しても鋭い語調で言われたものだからのん君同様怖気づいてしまった。由芽たちはさっさと店内に戻っていき、僕とれん君はその場に取り残されてしまった。呆然とする僕とれん君だったが、見たことのないあんなに怖い由芽の言い付けは守るべきだろうとの意識が舞い戻ってきて、僕たちはその言い付けの通りで他の子どもたちと二人のことを待っていることにしたのだった。

 そうして一階で待っていたら、由芽とのん君がエレベータから現れた。のん君の小さな腕には大きな紙の手提げ袋が抱えられていた。当人はどことなく嬉しそうに表情が緩んでいて、どうやらあの袋の中身は例の図鑑だということがわかった。ところが、それと裏腹に由芽の表情が強張っていてしかめっ面のままだった。どう考えても由芽の財布から出たお金でその図鑑がのん君の手に渡ったのだと思われた。

 大丈夫か、と由芽に言う前に、今度は僕の腕がのん君の手の代わりにがっしと掴まれて引っ張られた。

「お。おい」

「ごめん。勝手なことして。でもついてきてほしいの」

 危機迫ったような由芽の言葉にまた背筋をぴんと張り直された気がした。黙って彼女に引っ張られるまま付いて行くと、そこは人通りの少ない階段の踊り場で、着いた途端に腕をぱっと離されると、彼女はその場にしゃがみこんでしまった。小さく体を折り畳んで顔を腕で固く覆う。その肩は震え、明らかに様子がおかしかった。

「私ね」

 震えた声で由芽が言った。

「子どもの、ああいう話、今聞いちゃうと悔しくて堪らない」

 彼女は続けた。

「さっき言ったの、そんなつもりじゃなかった。辛抱なんてしなくていいのに、辛抱しろって言っちゃった。いつも絵本とか童話で、夢のある話ばっかり言ってる私が、そんなこと言っちゃうんだもん。きっと透くんびっくりしたよね。でもそれ以上にのん君のほうが、ずっとびっくりしちゃったと思う」

 なにも言えなかった。

「自分は子どもの頃いい思いばっかりさせられて。その経験があるはずなのにいざ自分がその立場になったら辛抱しろなんて言うの、自分で自分が酷いって、あんまり酷いと思って。どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。私、酷い人だ」

「そんなことないよ。しつけのつもりだったんだろう。十分だよ」

 一拍置いて、それでも震えて定まらない声で由芽が言った。

「実はあの子たち、身寄りがいないの」

 胸が高鳴った。

「ネグレクトされて施設で暮らしてる。だからあんまり言いたいことも言えなくて、我慢しなきゃいけないことがずっと多くて。本当は親御さんのとこにいたいんだよ……仲良くないとか、一緒に暮らせないのかなって、そういうことだ、って……大学時代にそのことで、論文書こうと思ってた。その頃から何度か子どもたちにも会って。大学中退してからあの子たちのためになろうって思って、読み聞かせ会も開いた。だからそれ、すごくよく知ってたんだよね、私。知っててそんなこと言ったんだよ。今自分が辛いからって昔にいい思いされたの一瞬でも忘れてさ。それで子どもに辛く当たるなんて最低だよ私、最低だ」

「由芽、そんなことくらい誰にだって……」

 言いかけて、しまった、と思った。今の由芽にその言葉が、僕から放たれることがどれだけ心に沁みて痛いか。それでも、咄嗟に出てきてしまった。

 けれど、由芽から出てきた言葉は僕の予想を裏切った。

「ごめんね。透くん」

 弱々しく静かに告げ、涙を流していたのか腕でごしごし顔を拭いてからすっと立ち上げると、僕に顔が見えないように俯きながら子どもたちのいる屋上へと戻っていった。

 それから僕は、しばらくその場から動くことができなかった。

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