第8話
由芽とメールしたその次の週、例のごとく僕は図書館に向かっていた。バスを乗り継いで向かう図書館へは読み聞かせ会の始まる前に着こうと乗り合わせていたものだった。
あれからメールはやり取りしなかったが、冬も終わりかけの複雑な寒暖差の時節、風邪の心配は少なからずあった。先週は結局なんのことはなかったが、ぼんやりとしていただけ今週はなにかあるのではないだろうかと思っていた。先週からの油断を後引いて風邪を引いてしまったなどと言われては、再会してからずっと心配している僕の気苦労も大きい。
ふと、尻ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。取り出して見てみると由芽からのものだった。なんだろう、そう思いつつメールを開いた。
『昨日のバイト帰りね、帰り道で風見鶏を庭先に置いている家を見たの。珍しいなあってずっとくるくる回っているの眺めてたら、夜風邪引いちゃって。そう言えばと思って思い出してみたら、風見鶏、ずっと南を向いてたんだよね。道理でと思った。それで、今日も風邪が治らないので、グループ学習室に先週から用意してあった本、文学雑誌のコピー。今日読むつもりで用意してたそれ、私の代わりに読んでくれると嬉しいかな。それと、ごめんなさい。体勞ってもう寝るから返信はできなくなります。
おやすみなさい。後はよろしく。』
バスの窓辺に肘を掛け、僕はそれで頭を抱えた。懸念どおり、彼女になにかあってしまった。由芽が風邪を引いてしまった。しかもそれが、夜の風見鶏を眺めていたら、だなんて間抜けな理由だ。南の方角を向いていたということは北風が吹いていたのだろう。くるくる回って、風の強いなかずっと。
けれども仕方ないという気はあった。子どもたちは由芽の状態など知らず今日も読み聞かせ会に訪れるだろうし、これを一番の楽しみにしている子も多いはずだ。読むものは決まっているらしく、それがグループ学習室にすでに用意されているとのことも確認できた。子どもたちには悪いが、いつも由芽に協力してもらっている分、今日くらいは僕が読むのも悪くないはずだ。それに彼女が風邪だということを告げれば子どもたちはわかってくれる。
僕は深く大きな溜め息を吐き、「やってやるか」と呟いた。
県立図書館前のバス停で降りグループ学習室に着くと、そこには子どもたちが行儀良く座って由芽の来訪を待っていた。人の気配を感じ取ったのか僕へ振り向く子どもたち。
「あれー? ゆめ姉ちゃんはー?」
「みんな今日はずいぶん早いな。期待してるとこ悪いが由芽なら風邪で来られないそうだ。代わりに僕が読むことになった」
「えー! 彼氏かよー!」
「せめて名前で呼んでくれ。大丈夫。由芽から任せてくれないかってメールで貰ったからな。由芽の許可付きだ。文句は言わせないぞ」
ぶーぶー、とブーイングが湧き上がる。しかし、そこは由芽の言葉だ。子どもたちも仕方ないと思ったのか、何度か続けたあと徐々に静かになっていった。
静かになったことに満足すると僕は由芽がいつも腰掛けている椅子を見た。そこにはたしかにホチキスで綴じられたA四用紙が置かれてあった。子どもたちにもタイトルがわからないように伏せられてあるのか見た目では白紙だった。裏返しているのかもしれない。一瞥したあと子どもたちの横を通り抜け、椅子にたどり着くと用紙を手に取って座った。荷物を脇に置き用紙を裏返してみる。すると、その裏返した側も白紙だった。けれども裏返した側にはうっすらと文字が透けて見え、どうやらこちら側が表紙だということに気づく。
僕はそこでいつも由芽がおこなっているように口を開いた。
「さて、今日は由芽に代わって透お兄ちゃんが読み聞かせをすることになったけど、由芽お姉ちゃんじゃなきゃイヤだ、って子はいないかな」
いるわけないだろー、というのん君の間延びした声が聞こえた。
「読み聞かせは素人だから聞き苦しいところもあるかもしれないが、その辺は適当に聞き流してくれ」
いいよ、いいよ、と全員が声を上げた。
「ありがとう。それじゃあ行くぞ」
僕はみんなが静かになった後、そう告げた。そして、白紙の表紙を開いた。――
『遺書の一部より』 伊藤野枝
息が詰まった。顔が強張った。紙を持つ指先から血の気が引いた。しかし、次にはこれが創作だと再認識し、気を取り直し、僕はタイトルをゆっくり告げ、読み始める。
もう二ヶ月待てばあなたは帰つて来る。もう会えるのだと思つても私はその二ヶ月をどうしても待てない。私の力で及ぶ事ならばすぐにも呼びよせたい。行つて会ひたい。けれども、もう廿二年の間、私は何一つとして私の思つた通りになつたことは一つもない。私の短かい二十三年の生涯に一度として期待が満足に果たされたことはない。それは本当にふしぎな程です。私は何時だつてだから諦めてばかりゐます。またあきらめなければなりませんのです。あなたに会ふことも出来ません。私は本当に弱いのです。私は反抗と云ふことを全で知りません。私のすべては唯屈従です。人は私をおとなしいとほめてくれます。やさしいとほめます。私がどんなに苦しんでゐるかも知らないでね。私はそれを聞くといやな気持です。ですけど不思議にも私はますゝをとなしく成らざるを得ません。やさしくならずにはゐられません。私は自分のぐずな事を悲しみながらますゝぐずになつて行きます。私は悲しいそして無駄な努力ばかしを続けて来ました。私は敵に生命をくれと云はれてもすなほにさし出すやうな人間に生れてゐるのです。私はまだ廿三年の間にたゞの一度だつて不平をこぼしたことはありません。まだ人に荒い言葉を返した事はありません。私は教へてゐる子供たちを叱らうとすると自分の方が先きに泣き出します。私は小さい妹や弟たちからでさへも馬鹿にされて叱られます。それでも私はその弟たちにたゞ一言の口答へさへ出来ません。皆他人は私をほめてくれます。親しさを見せてくれます。けれども私は何時でも自分のふがひない矛盾を悲しむことで一ぱいになつてしみゞ人と親しくなることが出来ません。私は怒ると云ふことが出来ません。現在私がかうして今死なうとしてゐてさへ誰も憎らしい人はないのです。私は生きてゐることに堪へ得られない自分に対してさへその意気地なしに対してさへ腹を立てることが出来ません。私はたゞめそゝ悲しむだけです。私は自分自身を制御する丈けの力さへ与へられてゐません。私は長く生存すべき体ぢやないのです。当然与へられねばならない人間としての自由の何一つとして私は持つてはゐません。たつた一つ、それはたゞ神様がこの弱い私にたつた一つの自由を与へて下さいました。私はそのたつた一つの自由を生れてはじめてのまた最後の自由として、それを握ります。けれどその自由さへ実は今まで時期を許して下さいませんでした。私の長い間願つた時期は近づいたやうです。それにつけてもたゞあなたに申あげたいのはあなたはそんなことは決してないことは知つてゐますが自分に負けないで下さいと云ふことです。私は前にも申あげる通りに、自分が何時でも負けてはその度びに一皮づゝ自分の上に被せて行きました。此度こそはこの被ひを一思ひにと思ひますがその度びに反対にかぶつて行きました。今はもうまつたく私の周囲は身うごきをする程の余地も残つてはゐません。何時かあなたは、私に、「死んだつもりでならどんなことも出来る。何故もつと積極的な決心にお出にならないのです」と云ひましたね。ですけれど繰り返して申ます。私は弱いんです。私はその殻をつきやぶつて出た後がこはくてたまらないのです。私に――この弱い私に与へられた自由は一つしかありません。私はもう私のすべてを被つてゐる虚偽から離れて醜い自分を見出すことは私にとつては死ぬより辛いのです。私は今迄他の人のやうに自由がなかつたことを思つて下さい。私には一日だつて、今日こそ自分の日だと思つて、幸福を感じた日は一日もありません。私は私のかぶつてゐる殻をいやだゝと思ひながらそれにかぢりついて、それにいぢめられながら死ぬのです。私には何時までもその殻がつきまとひます。それに身うごきが出来ないのです。私の声の――真実な叫びの聞こえる処にゐる人は誰もないのです。私はもう「よりよく生くる望み」などは到底もてません。私はこの世に存在する理由を何処にも認めません。私は「自分」と云ふものを把持してゐることの出来ない弱者です。私一人の存在が何にもかゝはりのないことを思ひますと私はもう一日もはやく処決しないではゐられません。人のことは誰にも分りません。私は毎日教壇の上で教へてゐる時、又職員室で無駄口をきいてゐる時、私が今日死なう明日は死なうと思つてゐる心を見破る人は誰もない。恐らくは私の死骸が発見されるまでは誰も私の死なうとしてゐる事は知るまい、と思ひますと、何とも云へない気持になります。「それが私のたつた一つの自由だ!」と心で叫びます。本当に私のこの場合ひにたつた一つたしかめ得たことは、人間が絶対無限の孤独であると云ふことです。私の死骸が発見された処で人々はその当座こそは何とかかとか云ふでせう。けれども時は刻一刻と歩みを進めます。二年の後、三年の後或は十年の後には誰一人口にする者はなくなるでせう。曾て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです。よりよく生きた処でわづかにタイムの長短の問題ぢやありませんか。人間の事業や言行など云ふものが何時まで伝はるでせう。大宇宙! 運命! 私の今の面前に押しよせて来てゐるものはこの二つです。私はもうすべての情実や何かを細かく考へる煩はしさに堪えられません。私は曾て少しは、自身の慰さめにもと思つて基督教と云ふものを信じて見ました。私は牧師や伝道師たちからのほめられ者でした。立派な篤信者だ。美しい人格だと讃められましたけれども自分には矢張り苦しくてたまりませんでした。矢張り虚偽の教へと云ふことを感じました。私は遠ざかりました。それがこの頃になつて漸くその教への真髄をつかみ得たやうな気がします。運命なのです。それがその力が神と云ふ変化されたものになつたのです。私は運命を信じます。その不可抗な力を信じます。今私の上に一ぱいにその力がかぶさつてゐます。恐らく誰の上にもさうなのでせう。私はいくらもがいた処でその力にかなはないことを知つてゐます。不思議なこの大宇宙を支配する偉大なる力にも私は従順にしたいと思ひます。私はかうやつて書いてゐて、ふと、矢つ張り、私の今迄の生活は虚偽でなかつたのかもしれないと云ふことを考へます。私は矢張り、その運命の支配するまゝに動いて来たのです。ですからうそではないやうにも思へます。私ばかりでなくすべてのものが――たゞ人間が運命と云ふものを考へないでてんでん勝手にいろんな事を考へてはあたれば本当、あたらなければうそだと云つてゐるやうにも思へます。思へば考へれば深く考へる程分りません。善とか悪とか云ふのもみんな人間の勝手につけた名称でせう。あゝ、私はもう止めます。まつくらになりました。何だかすべての事のケヂメがわからなくなります。私は今私の考へてゐることが一番正しく本当であることを信じてその通りを行ひます。私はよわいけれどぐちはこぼしません。あなたもそれを肯定して下さい。私の最後の処決こそ私自身の一番はじめの、また最後の本当の行動であることをよろこんで下さい。私のその処決がはじめて私の生きてゐたことの本当の意義をたしかにするのです。私は私の身をまた生命をしばつてゐる縄をきると同時に私はすべての方面から一時に今迄とり上げられてゐた自由をとり返すのです。どうぞ私の為めに一切の愚痴は云はないで下さい。
あゝ、私は今迄何を書いたのでせう。もう止しませう。たゞ私は最後の願ひとして、私は本当に最後まで終に弱者として終りました。あなたは何にも拘束されない強者として活きて下さい。それ丈けがお願ひです。屈従と云ふことは、本当に自覚ある者のやることぢやありません。私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願ひします。忘れないで下さい。他人に讃められると云ふことは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそいでさへゐれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生き甲斐のあることでないと云ふことを忘れないで下さい。何人でも執着を持つてはいけません。たゞ自身に対して丈けは全ての執着を集めてからみつけてお置きなさい。私の云ふことはそれ丈けです。私は、もう何にも考へません。私は今はじめて生れてはじめて自分の内心から出た要求を自分の手で満たし得られるのです。私の残した醜い死体を発見した時にどんなに人々はさわぐでせう。どんな憶測をすることでせう。私はもうすべての始末をつけてしまひました。誰も知りません、誰もしらないのです。知つてゐるのは私だけ。この手紙が三日たつてあなたの手に這入るまでには大方全部、私の望みが果されるでせう。私ははじめて私自身の要求を自身の手に満たすのです。はじめてゞそして最後です。愚痴を云はないで下さい。お願ひします。私はもう、自分の処決をするよろこびに一杯になつてゐます。けれどもあなたに丈けは矢張り執着があるのです。それがこれ丈の手紙を書かせました。よく今迄私を慰さめてくれましたね、本当に心からあなたにはお礼を申ます。随分苦しい思ひもさせました。すべて御許し下さい。もう一切の執着を絶つて下さい。あなたと私とは今はなれてゐます。たゞね二三ヶ月たつてあはれる筈のが都合でもつと長くあへない丈けだとおもへばそれ丈けですよ。ね、随分長く書きました。不統一なことばかりですけれど許して下さい。混乱に混乱を重ねた私の頭です。不統一な位は許して下さい。ではもう止します。最後です。もう筆をとるのもこれつきりです。左様なら。左様なら。何時迄もこの筆を措きたくないのですけれど御免なさいもう本当にこれで左様なら。
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