予兆。8

 翌朝。


「ゴホッ! うっ……」

 朝から倦怠感が押し寄せてきて、起きてから三十分もしないうちに吐くハメになった。

 ヨーグルトと水と食パンくらいしか食ってないのに、こんなことになるのか。

 いや、何を食べたかは関係ないか。そんなことが関係あったら、こんなに体調悪くなっていない。

「はぁ……」

 掠れ声が漏れる。

 吐瀉物の匂いとトイレの独特の匂いが鼻について、身体の調子がますます悪くなっていく。

「奈々絵、薬と水持ってきたぞ」

 爽月さんがトイレのドアをノックして、そんなことを言ってくる。

「すいません」

 俺は吐瀉物を流してから、トイレのドアを開けた。

 爽月さんは薬が入った小さなジップロックと水の入ったマグカップを持っていた。

 爽月さんはジップロックを開けると、その中から薬を取り出して、水に浮かべた。

 俺が片手しか動かせないから、そうやってくれたんだと思う。気が利いている。

「ん」

 爽月さんが水の上に薬が浮かんでいるコップを俺に差し出してくる。

 俺は右手を伸ばしてコップを受け取った。

 その瞬間、急な立ちくらみに襲われて、コップが手から滑り落ちた。

「うわっ!? 冷たっ!?」

 爽月さんの足元で、コップが音を立てて割れる。コップの中に入っていた水が、爽月さんの足を濡らした。

「すっ、すみませんっ!」

 最悪だ。

 体調が悪いとはいえ、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。

「謝んなくていい。これは事故で、お前のせいじゃなくて、病気のせいだから。な?」

「でっ、でも」

 俺の病気のせいなら、俺のせいだろ。

「でもじゃねぇの。顔色、さらに悪くなってるぞ」

 そういって、爽月さんは俺にデコピンをする。

「はい」

 俺はしぶしぶ頷いた。


「奈々? すっごい音したけど、大丈夫か?」

 あづが階段から降りて来る音が聞こえてきた。

「すみません爽月さん、一回外出てくれますか? あづに爽月さんと暮らしてること話してないので」

「別にいいけど、俺と奈々絵が一緒に暮らしてることに、何の問題があんだ?」

「……あいつは、爽月さんが俺の首をしめかけたのを知っているので、たぶん俺と爽月さんが一緒に暮らしてるのを知ったら、びっくりすると思うんです」

「いい方が回りくどいな。要は俺がお前が自殺未遂をした一番の原因を作った奴だから、そんな奴と一緒に暮らしてるなんて知られたくないってことだろ?」

「……はい、そうです。すみません」

 俺は爽月さんに頭を下げた。

「……別にいい。俺が首絞めたのが悪いしな。それじゃ、外出てるわ。家の中に戻っても問題なくなったら、連絡して」

 爽月さんは俺の頭を撫でようとしたが、頭に触れる寸前で、手を下ろした。

 それはまるで、〝自分には撫でる資格がない〟というかのように。

「さ、爽月さん」

 玄関にいって靴を履こうとした爽月さんに俺は声をかけた。

 爽月さんは俺の声を無視して、靴を履いて家を出ていった。  

 どうしよう。機嫌を損ねてしまったかもしれない。

 後でちゃんと、誠心誠意謝らないと。


「奈々、どうした? えっ! 何があったんだよ!」

 階段から降りてきたあづが水浸しの床を見て声を上げた。

「……立ちくらみがして、零しただけ。片付け手伝ってくれるか?」

 病気が原因なのは言わなかった。

「ああ、手伝う!」

「じゃあ、洗面所の洗濯機の上にタオルと薬があるからそれと、台所にあるコップ、どれでもいいから一つ持ってきて。コップには水入れてな」

「わかった! 直ぐ持ってくる!」

 あづは走って、洗面所に行った。

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