紗代子 焦り

 黒のセダンが店の前に止まる。その助手席から母、明奈あかなの白い両足が顔をのぞかせた。

 体のラインにそったスーツ。すらりと長い手脚。二の腕、腰まわりには無駄な贅肉はなく、とても五十代には見えない。そんな明奈を、道行く人が二度見しながら通り過ぎた。颯爽さっそうと立つ明奈。彼女自身、他人から見られているのは自覚しているはずだ。その証拠に彼女の表情、女として自信にあふれている。

 明奈は運転席の男と二言三言、会話をすると、店の入り口に立つウェイターに私が座るテーブルへ案内させた。

 

「悪いわね、待たせたみたいで」

 

 椅子に腰を下すなり明奈は、おすすめの料理、それに合うグラスワインを頼んだ。

 

「そうですね、四十分の遅刻ですよ。お母さん」

 

 母に待たされることなど毎度のこと。何を言っても母には通用しないのだから、怒りなどうのむかし何処どこかへ捨ててしまった。あんじょう、明奈は「あら、そう?」と、悪びれた様子もなく足を組み替え、まだ停車している男に向かって軽く手を上げ微笑んでる。

 黒のセダンの男は明奈が席に着くのを見届けて、ゆっくりと車を移動させた。

 

「お忙しいみたいですね、いろいろと」

 

 運転手の顔は、よく見えなかったが、前に呼び出された時に連れていた男とは違う。

 

「まさか遅れた理由は、あれですか?」

「あら、嫌だ」

 

 明奈が、ふっと笑った。

 

「いつから紗代子は私に、そんな嫌味を言えるようになったの?」

 

 ウェイターが前菜と白のグラスワインを運んで来た。明奈の左側に立ち、慇懃いんぎんに料理を差し出す。目の前に料理を置いた指を見て、明奈がウェイターの顔を確かめた。少し甘めの童顔の男性。明奈のタイプではないが、おそらく彼の指は気に入っただろう。じっと顔を見つめられて少し照れた彼に、明奈はありがとうと微笑んだ。

 恥じらいながら戻って行く彼、その後ろ姿を、さも可笑しく眺めながら、しかし直ぐに私の方へ向き直った。

 

「今日、紗代子を呼んだのは、お父さんから様子を見てこいって言われたからよ。そうじゃなかったら私だって、こんな時間に紗代子と食事なんて取らないわ。どう? あの人と上手くいってるの?」

「あの人って、誰のことですか」

勿論もちろん、和幸さんの方に決まってるでしょう」

 

 明奈が、飲みかけたグラスワインをテーブルに戻した。

 

「紗代子の男のことなんて、お父さんには口が裂けても言えないわ」

 

 失笑しっしょうする明奈がテーブルの上でワインを揺らす。それを鼻先に持っていき香りを楽しむ明奈から、アスファルトに降り注ぐ日差しへと視線を移した。その照り返しに、家を出る前の和幸の後ろ姿が重なった。あの和幸に女ができたと言ったら、この人はなんてこたえるだろう。我が子でも女の私に関心がない母親の言動げんどうに興味がわいた。

 

「和幸、私以外に女ができたんです」

 

 真顔で言う私に明奈は、女? と一瞬、驚きの表情を見せた。徐々じょじょに口角が上がっていき、そうなの、と背筋を伸ばす。くっくっと、明奈らしくない下卑げびた笑いを口元に浮かべると手の甲で口を隠した。しかも、さも可笑しいと押し殺す笑い声は、まったく隠せてない。

 

「それで、紗代子はどうしたの? まさか、和幸さんを問い詰めた?」

 

 涙目で笑う明奈の前に、次の料理が運ばれた。先程と同じウェイターだが、今度は彼には見向きもしない。明らかに明奈の興味は、私が和幸に取った行動に移っている。

 前に置かれた一皿、明奈が頼んだ店のおすすめ料理、アクアパッツァを一口食べた。

 

「問い詰めたと言ったら、そうなるかな。相手の女が生意気だったから」

 

 そう井之上美月、どうしよもない女。そもそも、どうして和幸に目をつけたのか。和幸自身、それほど目立つタイプではないのに。

 ワインを一口含んだ。白ワインの爽やかな甘さが、喉を通る。明奈はというと、グラスの中のワインを揺らしながら私の顔を愉快ゆかいそうに凝視していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る