早坂美希 興奮

 みっともない——と、紗代子は言った。

 確かに佳津羽の行為は、傍目はためから見たら目を背きたくなるものなんだろう。でも佳津羽に、あの言葉はまずかった。佳津羽とは、彼女が別れた旦那とマンションに越してきてからの付き合いだが、その間で知ったこと。それは佳津羽の容姿や性格、それにプライベートには極力触きょくりょくふれてはいけない。彼女の口から、その話題が出る以外、関わらないということだ。でないと感情の起伏が激しい佳津羽の機嫌を取るのに、どんなに苦労する羽目になるか。

 IHコンロにかけていたケトルが、蒸気を吐き出しながら沸いたことを知らせる。インスタントのコーヒーの粉が入ったカップに熱い湯を注ぐと、黒い液体がみるみる褐色かっしょくの色に変わっていく。底がまる見えのコーヒーをテーブルに持って行くか、どうするかと迷ったが、リビングで借りてきた猫のように大人しく待ってる真樹を見て「まあ、いいか」とカップを二つ手に持った。

 

「はい、コーヒー。アメリカンだけど、いいよね」

 

 真樹がうなずくのを見て真正面に座った。自分で入れたコーヒーを一口飲む。やはりコーヒーの色から味の薄さは想像できたが、これ程までとは。真樹にはアメリカンなどと言ったが、明らかに粉の量が少ない。

 真樹はというと、差し出したコーヒーに口をつけていた。一口飲んで、また次の二口目を飲む。表情も変えずにカップに口をつけるということは、飲めない味ではないということだ。でも、やはり一人分のコーヒーの粉を二人で分けたのがいけなかったなと思う。真樹は良しとして、私は口に合わない。

 飲みかけのカップをテーブルの端によせると、また、あの紗代子の顔が目の前にちらついた。

 

 興奮する佳津羽を此処ここに連れて来て彼女の愚痴を聞こうとしたが、エレベーター内で一言も話そうとしない佳津羽を、それ以上誘うことは出来なかった。もう少し時間が過ぎて怒りが収まってきたら、きっと佳津羽自身から連絡が入るだろう。それまで、こちらから口出すのは今は控えたほうがいいのかもしれない。

 納得して、ひとりうなずいていると目の前にいる真樹が、そっとカップをテーブルに置いた。うつむいたまま髪を指で遊んでる。

 

「それにしても、さっきのは驚いた。まさか渡会さん、旦那と別れたのねぇ」

 

 真樹が、そうですねと言う様にうなずいた。

 

「どうりで最近、かない顔してると思った。それに、あの格好かっこう、ほとんど毎日同じ服きてたわよ。会う度に、この人、ちゃんと洗濯してるのかと思っちゃった」

 

 真樹が、また微笑みながらうなずく。

 

「離婚の理由もさぁ、ビックリよねぇ。あれ、女の方に子供ができたってことでしょぉ。はあ、あの旦那、結構裏で、やるこのやってたのねぇ。もう、人って分かんないわぁ」

 

 口寂くちさみしくなってコーヒーを飲もうとしたが、もう訳程度わけていどについたコーヒーの味を思い出して飲むのをやめた。確か冷蔵庫に牛乳があったはず。

 カップを持って台所にもどり、氷を入れたグラスにカップの中のコーヒーと、冷蔵庫から取り出した牛乳を注いだ。

 一口飲んでみる。味の薄いコーヒーに牛乳をしても、やはり、ぱっとしない。水っぽく物足ものたりないミルクコーヒーが出来上がっただけだ。ただ、薄味コーヒーを飲むよりは、まだマシと言ったところか。

 グラスを持って席に戻ると、テーブルに置いたミルクコーヒーを真樹が凝視ぎょうしした。

 

「あっ、國木田さんも、こっちの方が良かった?」

「私は、どちらでも……」

「ほんと? 私、自分で作ってあれだけど、飲むのに考えちゃった。あっ、これマズイってね」

 

 うけると思って高笑たかわらいしたが、真樹はまばたきもせず、じっと此方こちらを見つめてくる。一気いっき興醒きょうざめめするのを誤魔化す為に、ミルクコーヒーを一口飲んだ。やはり、こちらの方が、まだいい。

 どっちでもかまわないと言った真樹といえば、おもむろに携帯電話を取り出し、画面を打ち始めた。誰かにメールでもしてるのか、文字を目で追いながら口元を手で隠し笑をこらえている。

 真樹は最近やたらと携帯電話で誰かとメールをしているが、いったい誰とやり取りをしているのか。私より若いし独身だし、もしかしたら男が出来たのかもしれないが、しかし真樹の生活に男の影は見当みあたらたらない。実際じっさいにいたとしても、私になんの報告もないのは、どうだろう。別に悪いことしてなければ、彼氏ができたんですの一言くらい、あってもいいのに。

 

 ひとつ、咳払いをした。でも真樹は携帯電話から顔を上げようともしない。

 ほんと、真樹この子もパッとしない女だ。なに考えてるか分からないし無口だし。言いたいことも言えなさそうなタイプだから、わざわざ聞いてあげてもハッキリこたえないし。相手にすると、たまに疲れる。それに人と話をしてる最中にメールを始めるなんて、全く常識がない。

 はぁっと溜息をついて天井を見上げた。とんとんと真樹が携帯電話の画面を叩く音だけが耳に届く。

 さっきの紗代子のこと、佳津羽のこと、いろいろ話したいことあるのに。これじゃあ、真樹を家に招いた甲斐かいがない。

 

 帰ってもらおうかな……。

 

 椅子の背もたれで思いっきりると、メールを送っていた真樹さえ振り向くほどの着信音が部屋に響いた。

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