紗代子 凪

「やめろって・・・」

 

 男が佳津羽の手を押さえて、紙おむつの袋を取り上げた。

 

「何よ、こんなのっ」

 

 髪を振り乱して佳津羽が男の胸を叩く。

 

「なんなのよ! どうして私が、こんな目にあわなきゃいけないの!」

 

「ねえっ」と、佳津羽が男にすがりついた。目に薄っすらと涙を浮かべ男の胸元に、しなだれ掛かった佳津羽が今まで見たことないくらい、か弱い。なのに男は迷惑そうに、詰め寄ってくる佳津羽に一歩、また一歩と後ろにさがっていく。

 

「私達、やり直そうよ。子供だって、貴方の子か分からないじゃない」

「佳津羽・・・」

 

 男が佳津羽の肩に手を置いた。

 

「もう無理なんだよ、俺たち。それに子供については話し合ったろ。佳津羽だって、わかったって言ってくれたじゃないか。これからは、お互い別々に生きていこう、なっ」

 

 男がアスファルトの上に転がっている段ボールを車の中に放り、佳津羽を車から降ろした。傀儡くぐつのように、身体に力が入らない佳津羽の唇から絞り出すような、くぐもった声が私の耳に届いた。

 

「ひどいよ・・・あんまりじゃない・・・、これが妻だった女にすること?」

 

 ぽつぽつと、つぶやきながら男の背中を見つめる佳津羽の頬を涙がつたう。

 

「ねえ、私達、うまくいってたじゃない。なのに、なんで女なんかつくったの。なんで子供なんか——」

「うまくなんか、いってなかったよ」

 

 佳津羽の話に割り込み、男が振り返った。うつむ加減かげんで視線がどこをとらえているか分からないが、固まったまま目をらさない佳津羽に真正面から向き合った。

 

「佳津羽は自分でなんでも決めていける強い女だし、俺なんかいなくても生きていけるだろ。俺の存在理由なんて、あの家にはどこにもなかった。佳津羽にとって俺は……いや、なんでもない」

 

 後部座席のドアを、男は静かに閉めたのだが、その横顔。それはだ。男は感情というものが欠落けつらくした表情をしていた。

 

「疲れたんだ・・・、もう、こんな話はしたくない。わかってくれよ」

 

「じゃあ・・・元気で」男が乗り込んだ車にエンジンがかかる。前に進み出した車に追随ついずいしながら、佳津羽が走り出した。

 

「晴彦……、ねえ、晴彦……」

 

 固く閉じられたガラスを何度も何度も叩く。しかし男は容赦なくアクセルを踏み加速させた。

 

「晴彦!」

 

 佳津羽の手がちゅうを泳いだ。無情むじょうにも車は佳津羽の想いを無視して去って行く。置いていかれた佳津羽は息を切らし車を見送りながら、その場に座り込んでしまった。咳き込みながら去って行く男に佳津羽が叫んだ。

 

「クズ! 最低よ、あんたっ!」

 

 まとまりのない髪を、さらに振り乱し、天を仰いて泣き崩れる。感情のおもむくまま、美希達や私に、どう思われるかなんて気にもしない。男が乗って行った車は、もう見えないというのに、佳津羽は一向いっこうにその場から立つ気配がない。

 あの男、佳津羽の夫だったのか。女とか子供とか言っていたが。そう、そういうこと。佳津羽は浮気相手に夫を寝取られたということだ。

 呆気にとられていた美希が真樹を連れて、おそおそる佳津羽に近づいて行った。

 

「渡会さん? 大丈夫?」

 

 心配する素振り、いつもながらの美希の常套手段じょうとうしゅだんだ。そうやって自分が聞きたい情報を相手から聞き出す。お仲間である佳津羽も、今となっては美希の噂話のネタでしかない。

 佳津羽が美希を見上げた。化粧もしてない素顔。泣いて腫れた瞼。鼻の頭は赤くなり、髪は乱れ。女としては、もう終わっている。

 

「みっともない」

 

 美希と真樹が同時に私を見た。

 どうして佳津羽が、他の女に亭主を取られたかは知らない。しかし先程の二人の会話から、佳津羽は旦那と話し合ったのだ。話し合った上で、それを承諾した。なのにおよんで悪足掻わるあがきなんて、女として、いや元妻として、見苦しいことうえない。

 仮にも、あの男の妻だったのだ。最後の最後まで堂々とするべき、けして醜態しゅうたいさらしてはいけない。あの男に手放してしまった女の大きさを、後々知らしめてやるくらいの心持ちを持たなければいけないのだ。それが出来なければ、他の女に夫を取られた哀れな妻で終わってしまう。

 あんぐりと口を開けた佳津羽が、見る見る鬼の形相ぎょうそうへと変貌へんぼうしていく。服に着いた埃も払わず、緩慢かんまんな動きで、よたつきながら私に向かって来た。

 

「なによ……、何が分かるのよ。あんたみたいな尻軽女なんかに私の気持ちが分かってたまるもんかっ。どうせ、あんたも、あの女と同じ穴のむじな、人の亭主にちょっかいだして楽しんでるだけのクズ女よっ」

 

 私の胸元を掴もうとした佳津羽の手を、遠慮なしに払いのけた。今の佳津羽に何をののしられようが、何ひとつ響いてこない。私の目の前にいる女は、男に捨てられた哀れな女ということだけだ。

 

「早坂さん、渡会さんを部屋まで送ってもらえませんか。彼女、今、興奮してるから。冷静な判断が出来ないみたい。少し休ませましょ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る