渡会 佳津羽
慌てて隠れて棚に手をついたせいで、目の前の商品を床に落としてしまった。商品が汚れていないことを祈りつつ、落ちたチョコレートの小箱を拾うと、
別に悪いことしようなんて思ってない。ただ、ちょっと
ノッポくんとの妄想のやりとりをしている間に、紗代子を見失ってしまった。レジ周辺に紗代子の姿はない。まさか私がいる通路まで来てるんじゃないか。すぐに左右を確認したが、姿がないことに、ほっと胸を
紗代子は窓際の書籍コーナーにいた。ファッション誌を読んでいる。相変わらず
紗代子の横顔、化粧まで、しっかりして、自分は長年着こんだジャージの上下。ここしばらく化粧なんてしたことがないのに。
ノッポくんが、紗代子を見ていた。レジの前で棒立ちしながら関心がないみたいな顔をして、しかし間違いなく視線は紗代子を追っている。それも客としてではなく、女としてだ。
わかってる。男とは、そういう生き物だということを。私だってチヤホヤされていた時期があったのだ。でも歳を重ねる毎に女性として見られなくなって、もはや今は、女という性別を持った人間。そんな扱いだ。
腹が立つ。男とは、どうして女の外見に
いくつか雑誌を見た紗代子が振り返った。また商品を棚から落としそうになったが、私だと気付いただろうか。
もっと店内を見てまわると思った紗代子が、あっさりとレジに向かった。色白のノッポくんの頬が、うっすらと染まってる。姿勢を正し胸を張り、商品のバーコードをスキャニングする。紗代子にアピール全開ではないか。
紗代子が会計を済ませ店を出たのを確認すると、すぐにレジに向かった。カウンターに缶ビールが入った買い物カゴを叩きつける。一瞬、驚いたノッポくんを、思いっきり
紗代子とは違って明らかに冷めた顔。もともと表情が
釣り銭をキャッシュトレイから鷲掴みに取り、財布に放り込む。ほんと、男って
「ありがとうございましたぁっ」
店を出ると、紗代子はまだ数メートル先を歩いていた。ガラス越しに店内を振り返ると、何か悪いことでもしましたか。そんな顔でたたずむノッポくんがいた。
そういえば紗代子は何を買いに来たんだろう。前方、マンションへの帰り道を歩く紗代子の手には、読んでいた雑誌らしきものはない。では、何を買った。
店内で、あの女が立ってた場所。私が慌てて隠れた位置。書籍コーナーの向かいには低価格な化粧品と栄養ドリンク、それに包帯やガーゼ、絆創膏など陳列されていた。
紗代子が持ってるビニール袋の大きさからいって、それ程大きいものではない。コンビニで化粧品を買うようなタイプでもないし、まさか栄養ドリンクでも買ったのか。それを紗代子が飲むのか。あの女の夫は薬剤師だったはずだ。わざわざコンビニで買うような品物か。
紗代子の後をつけるのは、いささか不愉快でもあるが興味もある。あの女が今から
もし、その現場を目撃できるとしたら——。
つい勢いあまって振ったビニール袋が足の
一瞬、呼吸のやり方を忘れていた。世界が、ぐらりと
脛の痛みのせいではない。びっこを引き歩き出した目に映ったのは、紗代子の隣で並んで歩く元夫、
嘘だ。
目を
体から力が抜けるようだ。まだ
まいったな……、ここまで重症だとは。
酸素を思いっきり吸った。まだ心臓は大きく波打ってるが、大丈夫、歩ける。
晴彦は真面目な男だ。
私は良い妻だったはずだ。なのに、変な女に
三歳くらいの女の子と若い母親が、手を
すれ違う直前、目の前に水溜りをみつけた女の子が、勢いよく路面の水溜りに足を突っ込んだ。目の前で赤い長靴が何度も雨水を宙に飛ばす。その光景が眩しいくて、目を
私が、あの女より先に母親になってたら、こんな事になってなかった。私に子供がいたら、あんな女に負けてなかった。
夫をかどわかし、私から当たり前の
距離を縮めることも離されることもなく後をつけていた紗代子が、橋の途中で立ち止まった。川面を
欄干から体を離し、バックからハンカチを取り出した紗代子の手が、
何をやっているのだろう。まさか、自分の手に
ふっ、と紗代子の表情が変わった。和らいだ目元。少し上がった口角。
息を飲んだ。あの紗代子が笑ってる。右手を何度も川面に
しかし、それは束の間だった。すぐにいつもの表情に戻ると、数分前に来た道を、まったく同じように歩いて行った。そして
紗代子が乗ったエレベーターを見送り、ゆっくり階を上げていく数字を眺めた。あの女は自身の部屋に戻ったみたいだ。
一階に戻ってきたエレベーターに乗り込み、私も部屋の重い扉を開けた。
晴彦と選んで買ったテーブルの上には結婚指輪が。夫だった男の荷物が部屋の片隅に置かれている。
此処には、認めたくない現実がある。
床に座って壁に寄りかかった。買ってきたばかりの缶ビールを開けて一口飲む。目の前の現実が夢のように思えてくると、さっき紗代子が見せた表情が気になった。
あれは恋をしてる女の顔だ。
携帯電話を取り出し、もう何度も掛けている番号に、もう一度掛け直した。
やはり言わずにはいられない。
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