渡会 佳津羽

 見慣みなれた数字の羅列られつ。忘れたくても、忘れられそうもない電話番号。その番号に何度も掛けているのに、呼び出し音ばかり耳にして、苛立いらだちが頂点に達しそうだ。私からの電話だと気付いているくせに、出る気配は全くない。今頃、着信画面を見ながら、掛けてくるなと舌打ちでもしてるんだろうか。そう思うと、ささくれ立った気持ちが、さらにざわついてしまう。

 

「信じらんない、そんなに私と話すのが嫌だっていうの」

 

 携帯電話を床に投げつけようとした手に、雨上がりの雲間からさす光が止めろと割って入ってきた。

 薄暗くよどんだ部屋に一条いちじょうの光。机の上の雑誌の山、梱包用に引っ越し業者から用意された段ボール。その段ボールに詰めようと、放置された皿やコップの上に、季節外れの衣類など生活用品の数々に、淡い陰影いんえいをつくる。なかなか作業が進まず手付かずのまま部屋の中に散乱しているが、ここを去れば、全てが遠い思い出になってしまう物たち。

 

 こんな日がくるなんて想像もしてなかった。たった一人で引っ越しの梱包してるなんて。この部屋を私ひとり、去る日がくるなんて。

 

 ぐらりと傾いた身体が足元の布テープを蹴った。ゆらゆら揺れながら、テープは広げられていた新聞紙の上で止まった。

 半分程、使い切ったテープ。残りの半分が、これらは自分がやらなければいけないのだと現実を見せてくる。

 

 喉、乾いたな。

 

 冷蔵庫を開けてみた。缶ビールと卵とハム。酸味が強くなったキムチ。それに調味料しか入ってない。最近は食欲も落ちていて、ちゃんとした食事もとっていなかったから、こんなものしか入っていないが。まさか昼からビールというわけには、いかないだろうし。

 水道水は飲みたくない。私が育った田舎には有名な湧水わきみずがあって、飲料水、料理。体に入る全てのものにその湧き水を使っていた。だからか、此処にきてから飲んだ水道水が口に合わなくて、それからというもの水はミネラルウォーターだ。

 

 買ってくるしかないか。

 

 黒のジャージにTシャツ。ジャケットを羽織って手櫛でまとめた髪を黒ゴムでとめた。外に出るといっても、近くのコンビニくらい。その程度で化粧をする気になれず、いつも、こんなものだ。

 

 外はいい。気分転換になる。

 早坂美希や國木田真樹と、たわいない話をしていた公園や、季節の変わり目毎に世話になったクリーニング店。あそこは人当たりが良い奥さんで流行っているようなものだが、美希の話だと息子さんが大病にわずらってるとか。そんな面持ちを表に出さないのは、さすが商売人といえる。

 その奥に見える二階建ての赤い屋根のアパート。あそこは一階の一室で自殺があったことで事故物件になり、その部屋だけでなくアパート自体、借り手が居なくて困ってると聞いた。あれから四年、いまだに入居者はまばらだ。大家がアパートを手放すか迷ってると美希から聞いたが、どうしたものか。

 

 閑散かんさんな道を曲がると、ちょっとした大通りに出る。近くの小学校の通学路にもなってる道だが、両側に植えられているソメイヨシノの桜の木が好きで毎年春になると、この桜をでてきた。もう来年の桜を待ち侘びる事が出来ないのが少し寂しい。

 

 小川に架けられた古くびた橋を渡ると、いつものコンビニが目に入る。誰に聞いても、そんな店の名前は知らないと答えるコンビニ。店舗は広くないが品揃えは間違いないし、なにより店の奥で手作りで作られるパンが美味い。今日みたいな休日など、特に今の時間は棚に一つも残ってないことが多い。

 

「いらっしゃいませぇっ」

 

 レジに直立不動ちょくりつふどうで立っている眼鏡の若者が、こちらを振り返った。

 背が高くて痩せていて、一見いっけん勉強ばかりしてきたような肌の白さ、この若者のことを私は〈ノッポくん〉と呼んでいた。勿論もちろん彼にも親から貰った名前はある。胸のネームがそうだろう。でも、そんな事はどうでも良いことだ。それほど彼に興味があるわけじゃなくて、ただ、美希達に彼の話題をする時の名称がほしいだけだ。

 

 このノッポくん、見てない振りをしながら、けっこう客を観察してる。仕事がら万引きとか警戒しているのかもしれないが、用もなく立ち寄って商品を物色ぶっしょくすると、背中に視線を感じることが多々たたある。

 

 店の奥にあるミネラルウォーターをカゴに入れ振り返ると、早速さっそく、ノッポくんが私の行動を注視ちゅうししていた。直ぐに視線を外したが、今日は買いに来たのだから許してほしいものだ。

 

 店内をまわる。やはりパンは売り切れだった。パンコーナーの手書きの表には、次にパンが焼き上がるのは二時間後とある。あれば買ったが、また足を運ぶほど食べたいわけではない。

 ご飯もの、おにぎり、麺類に他にもあるが、やはり食べたいとは思えない。それでも栄養を取らなければ倒れてしまう、そう思ってはいるのだが。手に取ってしまうのは缶ビールとつまみ。アルコールが入らないと、最近では寝付けなくなってしまった。

 

 豆腐を手にした左手のくすり指に指輪のあと。その指から目をらし、冷えた缶ビールを棚から取り出した。会計を済ませようと、ノッポくん目掛けてレジへ向かった時、白い顔のノッポくんが店の入り口に視線をうつした。

 

「いらっしゃいませぇっ」

 

 全神経が店に入ってきた女に注いだ。

 紗代子だ。

 

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