紗代子 不協和音

 どれくらい深く刺さってしまったのか。一呼吸おいた和幸がシンクに手をつき、片足で立ちで立ち上がった。冷蔵庫にそなけられたキッチンペーパーを引きちぎると、それを足の裏に当て、リビングのサイドボードに仕舞しまってある救急箱へと器用な足取りで歩いて行く。ガーゼと包帯を取り出すと消毒薬で患部を洗い始めたが。その姿が何気にいらついていて、どうしても目についてしまう。

 

 大の大人なんだし——。

 足は玄関へと向いた。

 ——そんな怪我ぐらい和幸自身で手当出来るだろう。

 

 そろえられているハイヒールに足を入れ、扉のノブに手をえた。この扉の向こうに、今の気分を一掃いっそうする世界がある。女だと実感させてくれる街が、そこにあるのに。

 

 和幸は巻いた包帯を取り、もう一度巻き直したりと。はたから見ると、いったい何をしてるのかと疑問に思うほど四苦八苦している。仕事がら常に扱ってる商品だろうに、なんて不器用な。

 まったく、見ていられない。

 

 背後に立ちのぞいてみた。包帯を足に巻くことに集中していた和幸の手が一瞬、止まった。真っ白な包帯の生地に赤い染みが浮き出していて、その輪郭は目視もくし出来る速さで、ゆっくりと広がっていった。

 足の裏で一番柔らかく皮膚の薄い部分だ。けっこう深くガラスが食い込んだのかもしれない。

 

「血、止まらないじゃない。病院に行ったら」

 

 和幸が包帯を外すと、真っ赤に染まったガーゼが顔を出した。張り付いてるガーゼをめくると、ぷっくりとした赤い球体が皮膚の上で生れ、次第に大きく膨らんでいく。まったく止まる様子がみえない。

 

「ねえ、大丈夫なの?」

 

 替えのガーゼを取り出そうとした和幸が、袋の中を見て仕方なさそうにに包帯を折りたたみ傷口に当てた。

 

「どうしたの。取り替えないの」

 

 袋を手にとって中を確認する。予備のガーゼがない。黙々もくもくと包帯を当てたり外したり、血が止まったか何度も確認する和幸の指には、乾いてしまった血の跡がついていた。

 さっきから、この人の頭しか見てない。一度でも顔を上げてくれないのね。

 まあ驚きはしない。今までも、そうだったじゃない。

 

 踵を返して玄関に向かった。途中、足元に丸く小さな血痕が目に入った。キッチンペーパーで血を拭ったが、固まってしまった血の輪郭だけが床に残った。

 このまま行ってしまったら後味悪い。気になって仕方がないじゃない。タオルを濡らし、和幸に差し出した。

 

「これで手を拭いたら。早くしないと爪の中の血、取れにくくなるわよ」

 

 目の前に差し出されたタオル。無言のまま和幸は受け取った。当たり前の光景、これが我が家の日常だ。

 もれれそうになる溜息を飲み込んだ。やる事はやった。あとは勝手にしてほしい。

 

「紗代子」

 

 和幸が腕をつかんできた。先程の強引な和幸が脳裏のおりをかすめる。また、力で押さえつけられるのか。

 

「何よ、放して」

 

 振り払おうとした手を和幸は遠慮がちに、私の顔色をうかがうように引き寄せた。押さえ込もうとする様子ではない。ただ腕を引いただけ。抱きしめられるのかと思ったが、そうではなかった。愛おしむように私の手のひらを指を、ゆっくりと、まるで愛撫あいぶするようにでる。それが、こそばゆくて、気持ちがむず痒くて仕方がなかった。

 

「ちょっ……、やめてよ」

「……傷は、そんなに深くない。すぐに止まる。だから——」

 

 どこにも行くな。和幸の眼が、そう言っていた。

 

 降っていた雨はいつの間にか止んで、柔らかな一筋の光が雨雲の間から差し込んできた。空気中に漂う浮遊塵が陽の光の中で舞う。

 

 息が詰まりそうになる。あの女のことも浩介のことも、頭から離れそうになる。そんな目で私を見ないでほしい。忘れるなんて無理なはなしだ。

 和幸の手が私の体を引き寄せた。拒めない。そう思った時、和幸の胸元の携帯電話が鳴った。

 

 携帯の画面を見て唇を噛む和幸に、一気に目が覚めた。

 電話に出ることもなく、誰が掛けてきたのか画面を見た途端に切ってしまった。これが何を意味するか。つまり、私の前では都合の悪い相手ということだ。

 

「出なくて良かったの」

「ああ、いいんだ」

 

 私を抱きしめようと伸ばした手が、どこか寂しげに下りていく。顔をらした和幸の態度が、何もかも語っている。

 そう、そういうこと。

 立ち上がって窓の外を見た。雨も止んでるし、外出するなら今だろう。

 

「紗代子」

「ガーゼ、買いに行ってくるから」

「いや、そんなことより話の続きだけど」

 

 困った顔の和幸に、軽く手を振ってみせた。

 

「わかったから。浩介とは別れるから心配しないで」

 

 それでも疑っているのか、心配そうにする和幸に、もう一度微笑んでみせた。

 行ってくると玄関の扉を閉め一呼吸つく。一気にむなしさが押し寄せてきて笑いたくなった。

 まったく、あの和幸が。あの美月とかいう女。おとなしい顔をして、結構やるものだ。

 

 バックの中に入っていた携帯電話、見てみるとメールが入っていた。

 浩介からだ。

 

【今から時間作れるけど、会おうか?】

 

 まったく、頭痛してきそう。タイミングが悪いんだから。

 

【私を今まで待たせておいて、なんなの? 今日は無理よ】

 

 そうメールを打ち込んでバックにしまった。

 本当に、残念よ。 

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