紗代子 不協和音

 自分でも驚くくらいすんなりと、口からついて出た。言葉をなくしている和幸に対して腹立たしさと苛立ちが、ふつふつとがってくる。何故なぜ、そんな事を言われなければ、いけないのか。和幸が私に命令する権限が、どこにあるのか。

 

 転がってるバックを拾って、キッチンの前に立った。手にグラスを持ったまま、固まってしまった和幸の頭のてっぺんから爪先まで眺め、乱れた髪を整える。手櫛てぐしで髪をなおした右手の指のマネキュアが少しはががれていることに気付きづいた。コーラルピンクの色の下に見える白っぽい爪。こうなると綺麗に塗った指先も、みっともなくて見ていられない。

 

和幸あなただって、やることやってんのに。私だけ駄目だめだなんて、おかしいわよ」

 

 剥がれた指先を親指の腹でさすった。さっき和幸に押さえつけられた拍子に、何かで削ってしまったのだろう。爪の上でまだらになったマネキュアを親指の爪でこする。一度剥がれたマネキュアは、いとも簡単に取れていく。

 

「別に、いいのよ。私も好きにさせてもらうから。だから——」

 

 ふうっ、と爪に息を吹きかけた。

 

「お互いに割り切って、やっていかない?」

「なに言ってるんだ……。なあ、紗代子、何を言ってるんだ」

 

 ガラスなのに割れるんじゃないかと思うくらいの勢いで、和幸がシンクの上にグラスを置いた。殴られる。そんな威圧的いあつてきな勢いで向かってくる。

 しかし、この人は私に手をさない。いや、せない。何をするにも本当に真面目すぎるひとだから。あの美月と体のつなががりができてしまった今、私に暴力を振るうことは出来ない。

 そして、むこうも美月二の次になどしない。だから余計に、あの美月おんなと対等だということが腹立たしくて、くやしい。

 

 私に向かってこようとした和幸の手が、シンクに置いたグラスに当たって床に落ちた。ガラス特有の高い音をたて、目の前でグラスが割れる。飛び散って砕けたグラス。和幸と顔を見合わせ、ふたりで砕けたガラスの破片を眺めた。

 

「どうして、こうなった……」

 

 声が震えている。男なのに、今にも泣きそうな声だ。

 

「なにか、ひどく誤解してないか。俺が何をしたって? 彼女か? 井之上さんのこと、まだ誤解してるのか?」

 

 力尽きたように、しゃがみ込む和幸が、砕けたグラスの破片を拾い集めだした。

 今しがた、私を抑え込んだ男とは思えない。細く小さく目にうつる身体。この人は私の夫なのかとうたがいたくなるほど、一欠片ひとかけらづつビニール袋に入れていく。大きな破片を全て拾い終わると、上目遣うわめづかいで顔を上げた。

 

「あの晩のことを気にしてるのなら、そんな心配はない。井之上さんとは何もないんだ。前にも言っただろう」

「はっ」

 

 思わず鼻で笑ってしまった。本気で言ってます。そういったていの和幸が可笑しくて、見てられない。

 何もなかったなんて、どうやって証明できる。結婚してからというもの、私など眼中にないって顔をして。

 家事も、このひとが全部一人でこなしてしまう。私が夜遅く帰宅しても、何処どこで何をしていたかなんて気にもめない。私は和幸にとって妻という飾りでしかない。それも手に入らないと思っていた高嶺の花の、ただのお飾り人形。隣において、和幸がひとりえつに浸るだけの道具だ。

 そんな男が、あの晩、私をいて追っていった女。何もないわけが、ないだろう。

 下手な嘘など、つかないでほしい。

 

「紗代子、てって」

 

 私の後を追いかけようとした和幸が、突然立ち止まった。「うっ」と苦虫にがむしつぶした顔をしてうずくる。床に座り込み右足の土踏まずを指でまさぐり、しきりに足の裏を気にしている様子だが。

 

「つぅっ……」

 

 割れたグラスの小さな破片が、やわらかい皮膚から出てきた。うっすらとピンクに色づいている鋭い断片。トクンと流れ出る鮮血が床の上に滴り落ちた。

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