紗代子 凪

 和幸が足をグラスの破片で怪我をした、あの日から、二週間が過ぎた。つまり浩介からの誘いを断ってから、同じ時が過ぎたことになる。あれからメールは一度もなかったのだが、二日前に会おうと、突然連絡が入った。

 

【今夜、いつもの場所で。ロビーじゃなく部屋で待っててよ。ホテルへは俺の名前で予約しておくから】

 

 鏡の前に座って髪に櫛を通す。お気に入りの香水を手首と耳の後ろにつけながら、浩介に返信のメールを打った。梅雨入り前から随分ずいぶんと待たされて、やっと連絡きたかと思えば和幸が足グラスの破片で切ってしまって。もしかしたら、この関係は自然消滅するんじゃないかと思ってたけど。久しぶりに浩介からの誘い、おのずと胸が踊ってしまう。でも。

 和幸と美月の関係を知ってしまった、あの晩。浩介にもすっぽかされ、他の男と寝たホテルなんて後味が悪くて、二度と泊まりたくない。

 

【あのホテルは、もう使いたくない。他のホテルがいい】


 メールを読んで、どう勘繰かんぐるか。私が、あのホテルで何かしたと推測はするだろう。でも浩介は、そんなことぐらいで嫉妬などしない。彼だって、体の関係が私ひとりとはかぎらないのだから。ただ面白がって揶揄からかってはくるだろうが。

 

 椅子から立って、鏡で全身を見てみる。ネイビーのニットに、白地の花柄のフレアスカートを合わせてみた。本当は、もう少し肌を見せたいところだが浩介と会う前に、母の明奈あかなに会わなければいけないから仕方しかたないところだ。

 結婚して家を出た娘の様子を見に、たまに明奈は連絡をよこす。おそらく母の意思ではなく父の指示だろうが。あの母が私の心配などするはずがないのだから。

 くるりと回ってメイクの出来も確かめる。大丈夫、おかしくはない。

 

 ふと目にまったダブルベット。まだ和幸と私の熱をほのかに残し、そこにある。

 和幸が怪我をした、あの日から私の中で何かが変わった。和幸に抱く感情は以前と比べると、まったく違うものだ。この気持ちが何なのか。私自身はっきりとつかめないでいる。ただ、はっきりしてる事は恋だとか愛だとか、そんなものではないということ。そして、それは私だけでなく和幸も。私が浩介と別れると言ってから、ここ数日間で何らかの気持ちの変化があったようだ。まあ、それは和幸の気持ちをなだめるだけの嘘だが。


 寝室を出ると柔軟剤の甘い香りが鼻をかすめた。出勤時間が遅い和幸が、さっきまで回していた乾燥機の音が止んでいる。揺れるレースのカーテンに意識が向くと、開け放たれた窓から入る風が、深緑の夏の匂いを運んできた。

 

 ベランダにひとり立つ、後ろ姿の和幸の白いシャツのすそが風で棚引たなびいていた。

 その横顔。ぼんやりと何処どこを見ているのかからない目。視線の先は現実ではない何かを見ているようで、一瞬、ぞっとする。

 和幸が手すりに手をかける。一気に身を乗り出した和幸のシャツが一層強く風にはためき、その瞬間、この場に彼の姿はなく、ただ青空が目の前にあるだけ。

 

 そんな妄想を頭の中で思い浮かべてしまい、目が離せなくなる。

    

「何してるの?」

 

 和幸が振り返り目を細めた。太陽の光よりもまぶしい白いシャツが、今にも消えてなくなりそうな和幸の影の薄さを引き立たせてる。

    

「公園の木々を見てた」

    

 ベランダに出て和幸の隣に立った。まばゆい光に夏特有の湿り気を帯びた暑さが、肌を撫でる風にはらんでいる。眼下がんかの公園を囲んでる木々の葉は、土壌どじょうに蓄えられた水分と日の光で、さらに深緑を増しているようだ。

 もう、そこまで夏が来てると実感する。

 

何処どこか、行くのか」

 

 和幸が私の服を見て首をかしげた。ほんの少し不安気ふあんげに、そして苛立いらだちを言葉に乗せながら。

 身構みがまえる和幸の腕を取り、大きく細い指を見つめる。

 感情が大きく波打ってる。こうして捕まえていないと、本当に空へダイブびそうで。

 

「母と会って来る。夕飯も、いらないから」

 

 和幸の体が、私の一言に瞬時しゅんじで反応した。前みたいに頭ごなしに反対はしないが、眉間のしわ真一文字まいちもんじに結んだ唇が、私を信用したい気持ちと、そうでない気持ちの間で迷ってる。

 でも、これは事実だ。嘘はついてない。

 

「親と会うだけなのよ。そんな顔しないでよ。それとも、私を信じられない?」

 

 心なしか切なそうな和幸が口をつぐむ。言いたいのに言えない。そんな和幸が何とも言えなくて、そっと胸に顔をうずめ匂いを嗅いだ。和幸の匂い。その中に、さっきまで洗濯物を乾かしていた、その残り香がする。かすかに香る甘い匂い。

 この身体に美月は抱かれているのだ。どう? あの女の体はどうなの。抱き心地は良いの。

 

 和幸が私を見てる。

 

 なんて可哀想なひと。今まで生きてきて二人の女に悩むなんて、なかっただろうし。さっさと美月を捨てれば、こんなに苦しむ必要などなかったのに。でも、それは和幸の性格上、出来なかった。

 いいの。もう、わかったから。

 美月に多少なり気持ちが傾いたとしても、愛してるのは私ひとりなんでしょ。なぜなら私と肌を重ねている時の和幸の熱さ、まるで出会った頃に戻ったみたい。

 ほんと、馬鹿ばかみたいに真面目な人なんだから。

 

 和幸の頬に手を添えると、目を閉じうつむきながら私の肩を引き寄せた。

 この人は気付いていない。あの日、怪我をした和幸の為に買い物を済ませ、戻って来た私が見た光景——。

 静まり返ったリビングで、この人は携帯電話で誰かと話をしていた。言葉少なで、会話の内容まで推測すいそくできなかったけど、相手は、あの時、私と和幸の間に割り込んできた人。私の前で和幸が電話を切った相手だ。おそらく私が外に出たのを見計らって、和幸が掛け直したのだろう。

 そう、それは間違いなく美月だ。

 

 ゆっくりと和幸から離れた。時間を見れば母、明奈との約束まで時間がない。今から出て間に合うかと言ったところか。

 

「そろそろ、行かなきゃ」

 

 和幸の手のひらが、私を放したくなさそうに宙に彷徨さまよう。ぐっと拳を作った和幸の手を押さえた。その気持ちが本物だと、美月が遊びだと自覚しなさい。

 

「それじゃ、行ってきます」

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