紗代子 嫉妬

 浴室から聞こえてくるシャワーの水音が止まった。しかし和幸が出てくる気配はない。

 和幸は湯の張った浴槽に必ずかる。仕事が忙しく疲れて帰って来ても、シャワーだけでとこに着くことはない。だから今も熱い湯に肩まで浸かり、立ち上る湯気の中でいろんな事を考えてるんだろう。例えば、あの美月のことなど。

 

 ソファーから立ち上がり、窓ガラスの向こうに広がってるの闇と向き合った。

 窓に映り込む、もう一人の私。その頬を指でなぞりながら外をながめる。どんな暗闇でも人が暮らす場所には灯りがある。それは家の明かりだったり街灯の明かりだったり。そして、その向こうには上空の雲を赤々と染める街の明かり。

 眠りにつこうとする家々から漏れる淡い明かりと違って、それは賑やかな喧騒けんそうと人々の欲を連想させる。血が湧き立つような興奮。つまらない毎日に刺激を与えてくれる街。今すぐ、あの場所に行きたい衝動に駆られる。

 

 

 いつもより帰宅するのが早い美希の夫が、重い足取りでエントランスに入って行くのを目にした。

 

 早坂寛治はやさかかんじ

 

 体格は大柄だが筋肉質。年を重ねる毎に前に出てくる下っ腹は、年相応のものか、それとも毎晩の晩酌ぼんしゃくのせいだろうか。

 

 寛治との面識めんしきは、ここに入居した時、社交儀礼しゃこうぎれい程度の会話をしたくらい。その後は、たまたま会って挨拶はしたことがあるが。なんせ、あの寛治。ああ見えて、結構女好きだと肌で感じた。たわいない世間話の間中「ああ」とか「そうなんですね」なんて上の空で返事をする。あの男、その間、私の体から服を一枚一枚脱がせていた。

 寛治が午前様で帰ってくるのだと、美希が愚痴ぐちをこぼしていたことがあったが、こんなに早目のご帰宅とは。さては美希が癇癪かんしゃくでも起こしたか。

 あんな男に関わるのは本意ではないけど、美希を脅すには効果があるのかもしれない。

 

 浴室のドアが開いて火照ほてった体躯たいくに、パジャマをまとった和幸が出て来た。一瞬、目が合って、すぐに顔をらし冷蔵庫から水を取り出す。二口三口、口をつけると濡れてもいないシンクを拭きながら立ちすくみ、私を横目で見て、又、目を逸らす。夕食時も、そうだったが、和幸の態度は今までないくらい私を意識している。

 

 

「ねえ、そこ拭いてたわよ」

 

 

 濡れても汚れてもない所を拭こうとした和幸を止めてみた。

 

 

「あ、そうか……」

 

 

 はたと止まって、意味なくグラスの水を揺らす。すぐにグラスを洗い、タオルで拭いただけの髪をかき上げて時計を見る。何となく、つられて私も見てしまう。

 

 時が経つのが遅い。一分一秒が長く感じる。

 時間を持て余してるのは和幸も同じらしく、どこか落ち着きがない。なにかしら仕事を探しては歩き回る。それ程広くない我が家。その狭い空間を行き来するものだから、どうしても目についてしまう。

 手持ちぶささの和幸が明日の昼食用の米をとぎはじめると、すぐに乾いた咳をしはじめた。喉元を手で押さえ、口を真一文字にする。

 

 

「なに、もしかして風邪?」

 

「ん、たいしたことない」

 

 

 否定はしたが、やはり塩梅あんばいが悪いのだろう。常備薬を引き出しから取ると、白い錠剤を洗ったばかりのグラスの水で飲み込んだ。

 

 健康面では人一倍気にする男が風邪だなんて、珍しいことだ。

 一呼吸おいた和幸の携帯電話が不意に鳴り出して、私も和幸も同時に携帯電話に釘付けになった。和幸が慌てて携帯電話を鞄から取り出し、掛けてきた相手を確認しながらリビングから廊下へと出て行く。磨りガラス越しに写る和幸の背中に、なぜか腹立たしさを覚え、スタンドライトライトの明かりだけを灯したまま部屋の電気を消した。

 ブラウスのボタンを、ゆっくりと外す。スカートのファースナーを下ろしてソファーの上に置いた。

 外は吸い込まれそうな濃い闇。窓ガラスに写る綺麗な身体の曲線を眺めていると、会話が終わってもどって来た和幸が窓ガラスに写った。

 部屋が暗いことを疑問に思うより、私が下着姿でいるということに驚いてると言った顔だ。

 無言のまま携帯電話を充電する和幸の隣に立つと、目をらそうとする和幸を振り向かせた。

 

 

「今の電話、誰から?」

 

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