和幸 虚ろ

 店の責任者としての注意と自分への気遣きずかい。柳瀬は上司として尊敬できる人間だし、ああいう男に近づいていきたいとも思う。だが今の自分は一人で迷って焦って、妻の紗代子に振り回されっぱなし、柳瀬みたいな男になるには程遠ほどとおい。

 

 ロッカーの前に立って、角ばった佐久間和幸の文字を見て項垂うなだれた。

 

 食欲など、もう随分前ずいぶんまえからせている。それでも無理やり口にできたのは、わずかにあった希望に自分達夫婦のこれからをたくしていたから。でも絶望に変わってしまった今。喰うこと寝ること、それが何のために必要なのか、わからなくなった。

 

 このまま食べ物を摂取せっしゅせず、心も体もゆるやかに下降すれば、いつか楽になれる日がくるのだろうか。

 

 ぶんっとかぶりり、もう何十回。いや何百回となんなく開けていたロッカーを開けようとした。しかし、その扉が、やけに重い。鍵でもこわれたかとうたがってしまうほど何度も鍵を穴に刺し、ロッカー自体を揺らした。不快な音を立てながら開いた扉。中から気の入ってない軽い弁当を取り出し、休憩室のドアを開けた。

 

 昼食にしては、まだ早い時刻。誰もいないと思っていた休憩室、目に飛び込んできたのは、大きな口を開けて今から食パンにくらいつこうとしていた美月だった。

 

 

「あっ……、ノックもなしに、ごめん」

 

「いえ、大丈夫です。気にしないで下さい」

 

 

 そう言うと、大好きなツナサンドであろうパンにかぶいた。

 

 美月に会釈して、離れた席に座った。おもむに弁当を開け食べたくもない御飯を口にする。何度か咀嚼そしゃくして飲み込んでみたが、やはり美味しいと感じないし、体が食べ物を受けつけようとしない。噛んで飲み込む、その一連の動作が次第に面倒になり箸を置いた。

 

 なんとなく、横目で美月を追った。一つ目のサンドイッチを食べ終わった美月が、ビニール袋からオレンジジュースのパックを取り出した。ストローを差し込んで空を見上げながら吸い込む。美味しいのか、そうでないのか、表情からよめない美月と不意ふいに目が合った。

 

 からまる視線。直ぐに外し咳払いなど、自分らしくないことをしてしまう。

 

 そういえば美月も今日、出勤だったか。もともと存在感の薄い美月だが、昨夜の件もあって話しかけづらい。

 

 美月はおしぼりで手を拭くと、二つ目のサンドイッチのビニールを外しに掛かった。

 

 

「佐久間さん。あれから大丈夫でしたか?」

 

 

 それは本当に唐突とうとつで、かれたら、どう答えるか迷っていた事。それを美月は迷いなく訊いてきた。

 

 

「あっ……ああ」

 

 

 笑ったつもりだったが顔がって、すぐに真顔に戻ってしまう。

 

 

「どうかな。よく、わからないんだ」

 

 

 紗代子に男がいる。

 加賀見かがみ浩介こうすけという男と関係がある。

 昨晩、紗代子は何も答えてくれなかった。かたくなに口を閉ざし、それが答えだと言わんばかりの表情をしていた。

 大丈夫……、なのだろうか。自分達は続けていけるのだろうか。この現状が大丈夫と言えるのか。先が見えない。

 

 美月が固まったまま此方こちらを見つめていた。眼を大きく見開みひら微動びどうだにしない。そんな美月を見て人形のようだな、なんて思ってしまった。

 

 そういえば自分達夫婦の為に、随分ずいぶんませてしまったのだった。彼女には悪いことしてしまった。

 

 そんな事ないですよ。悩んでることがあれば、いくらでも聞きます。そんな言葉にならない心の声が、美月の姿勢しせいから感じ取れる。

 取り留めのない想いが次々と浮かんでは消える。吐き出した言葉は雪崩のように止めることが出来ないだろう。わかっていても吐き出さずには、いられなかった。

 

 

「紗代子はね。——憧れだったんだ」

 

 

 美月が背筋を伸ばした。

 

 

「うちの母親は、とても臆病な人でね。他人の失敗を押し付けられても文句ひとつ言わない人なんだ。貴女がやったんでしょって言われると、やってもないのに、はい、そうですって言ってしまうような人」

 

 

 母の昌子。か細くて小さな昌子の姿が目に浮かぶ。化粧っ気もなく、ただ毎日、働き尽くめだった母親。

 

 

「うちは父親が居なくて、ずっと母さんと二人で暮らしてきたんだけど。幼い頃から、いつも頭を下げている母さんが嫌だった。どうして謝ってるんだって。責任なすりつけられて何故なぜ、怒らないんだって」

 

 

 子供にとって親の後ろ姿は、これから生きていく為の人生の指標しひょうだ。物事の善悪、ごとを回避する為の知恵を授けてくれる。よく言う『子供は親の背中を見て育つ』子供は親の大きな背中に安心するのだ。でも母の昌子しょうこからは自分が求めている答えを得ることは出来なかった。朝から晩まで見ていたのは、細く小柄な体を更に小さくして、いつもこうべを下げる昌子の後ろ姿。

 

 思い出して「ふっ」と笑ってしまった。

 

 それでも母の生き方を否定することはできない。自分を、ここまで育ててくれた。昌子に心配事を増やさないよう、良い息子でいようと心掛けてきた。社会人になってからは、金銭に余裕がない昌子が少しでも楽になれればと仕送りもしてきた。しかし、恋愛対象になる女性は母と違うひとばかり。そして紗代子に逢った。

 

 

「だからかな、今まで出会ったことのない紗代子にかれたのは」

 

 

 裏切られても紗代子を求めてしまうのは、母と違う、今まで出会ってきたひとと、まったく違うタイプだから。あの凛とした、堂々たる紗代子を見てしまうと、どうしても手放したくなくなる。

 

 一通り想いを口にした後、美月がジュースを一口飲んだ。

 

 

「佐久間さんは、奥さんを愛してるんですよね」

 

 

 さらっと言い放った美月に、躊躇ためらいいながらうなずいた。

 

 

「迷うことなんてないですよ。それが答えだもの」

 

 

 滅多に笑わない美月が笑うのを見て、そうか、と何が吹っ切れた。

 

 紗代子を愛してる。それは、かわらない。

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