和幸 虚ろ

 処方箋とは、患者様の病気の治療に必要な薬名が記載された書類だ。処方箋の内容が適切であるか確認しながら、患者様の体調や薬の副作用、継続して飲んでる薬の相性など考慮してお渡しするのだが。これを間違えてお渡ししてしまうと大変なことになる。とくに年配の方々は免疫力も落ちているため、飲み合わせや飲む薬の数など、丁寧に説明する必要がある。

 薬を調合する時は集中し、間違いがないよう注意する。この仕事に就いた時から心掛けてきたことなのだが。

 

 

「佐久間!」

 

 

 肩を叩かれ振り返れば柳瀬修二が、一度よく見ろと手に持っていた薬を見下ろしていた。いつもの店の薬の袋。よく見れば薬をお渡しする患者様の名前と、目の前に居る患者様の顔が違う。

 

「あっ……」一歩後ろに下がると、カウンターの向こうから小学校低学年の男の子が顔をのぞかせてきた。まばたきもしない無垢むくで大きな瞳が興味津々きょうみしんしんで、こちらを見つめてくる。

 本来ほんらいなら、この子が飲む薬を渡さなければいけないのだ。でも、お渡ししようとしていた薬は同じ苗字の成人男性のもの。

 

 柳瀬が気付いたかと、くいっとあごを上げてきた。そして、すかさず男の子の母親と自分との間に入ってきて対応する。

 

 

「申し訳ありません。こちらがお薬になります」

 

 

 慇懃いんぎんびる柳瀬に、母親は大丈夫なのかと怪訝けげんそうにうなずくが、風邪で熱があるのに比較的に元気な男の子が勝手に何処かへ行こうとするので、不安要素は口にできないでいるようだ。しかし、柳瀬との話の合間に鋭い視線を此方こちらに向けてくる母親の目からは、自分は仕事が出来ない、あぶなっかしい男に見えるんだろう。

 幼い子供に、大人が飲む分量の薬を渡そうとしたのだから。此方こちらにあって、それを素直に受け止めるしかない。

 

 子供の手をとって、店をあとにした母親の後ろ姿に一礼した後、一気に噴き出してきた冷や汗と脱力感に思わず、膝に手をつき身体を支えてしまった。れそうになる溜息、少しでも口から出てしまえば全身が弛緩しかんして、この場に崩れてしまいそうだ。

 

 昨晩から色々ありすぎた。紗代子のこと。相手の男のこと。自分は、これから、どうしたらいいのか。自分で自分の気持ちが、やるべきことが、わからない。

 

 見上げた天井の蛍光管の光が、やけに非現実的に見えて、何もかも夢か幻みたいな錯覚におちいりそうになる。

 

 人が道をはずす瞬間とは、こんな些細ささいなことからなのかもしれない。何もかも嫌になって、全て放り投げて自分を脅かすものから逃げたくなる。そんな気がする。

 今まで頑張って築き上げて来た努力も信頼も、何もかも捨てて。

 

 嗚呼ああ、身体が——だるい。

 

 

「佐久間」

 

 

 柳瀬がむずかしそうな表情でやって来た。

 

 

「どうした。お前らしくないミスだな」

 

 

 まったく、言葉がない。もし話さなければいけないとしたら、それは言い訳にしかならない。

 

「すみません……」

 

 

 溜息をつき額に手を当て上から下へ、顔をでるように下ろした柳瀬が一歩、前へる。

 

 

「お前、最近、本当に様子がおかしいぞ。プライベートで何があったか知らないが、それと仕事とは別物だ。気持ち切り替えてもらわなきゃ困る」

 


 柳瀬の言葉の重みがこたえる。紗代子のことで気が散漫さんまんになってるのは事実。情けないくらい返す言葉がない。

 

 

「田宮もいなくなったんだ。佐久間にしっかりしてもらわないと。みんな、お前を頼りにしてるんだぞ」

 

「すみません……」

 

 

 再び溜息をついた柳瀬が時間を確認する。交代制の昼食。自分の休憩は、まだ先だったが柳瀬は行ってこいと目で合図した。

 

 

「気持ち、切り替えて来い」

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