和幸 慟哭

 紅い唇が他の男と遊ぶと呟いた。

 

 血の気が引いていった。一瞬だけ、何もかも考えることをやめた。紗代子を突き放し、その手首を掴みながら、もう一度紗代子の顔を見た。

 

 堂々と、それも美月の前で男と遊ぶと言う焦りと腹立たしさ、ふたつの感情が交互に襲ってくる。

 

『奥さん、浮気してますよ』

 

 紗代子が裏切っていると言ってきた、あの女の声が耳もとに、まざまざとよみがえった。

 

 やはり駄目なのか。紗代子を信じたいと思う気持ちは無駄なことなのか。

 

 妻なのに容易く触れることができない、しなやかな身体。いつもは硝子細工のように扱う身体を強引に引き寄せた。

 その拍子に足がもつ蹌踉よろめこうが気にしない。瞬きをもせず、こちらの顔を見つめる紗代子と目が合った。

 

 うっすらと笑みを浮かべ、まったく悪びれる様子もない。

 

「男って、なんだ。こんな時間に外に出て、誰と会うつもりだったんだ」

「そんなの・・・」

 

 紗代子が不思議そうに、首をかしげた。

 

「言わなきゃいけないこと? 子供じゃないのよ、出歩くのに貴方の許可が必要なの?」

 

 紗代子が、そっと胸に手を添えてきた。

 

「どうするの? 貴方がこのと一緒に居たいって言うなら、私も好きにさせてもらうわ。ねえ、どうするの?」

「紗代子、何か誤解してないか? 自分は、ただ井之上さんを駅まで送るだけだ。彼女、傘持ってないから」

 

 傘を見せながら、井之上美月へ何気に振り向いた。感情が読めない美月だが、雨で濡れた地面を見つめ、明らかに困惑している。

 

「だから誤解だ。井之上さんとは・・・」

 

 井之上美月は関係ない。そう言いかけた時、紗代子が口に指を当てた。

 

「関係ないわ。私は貴方が、あのと一緒にいるのが気に入らないの」

 

 そっと絡ませてきた指。絡んだ指を持ち上げ、選べと目でものを言う。

 そんな、どちらかを選べとか、そう言う問題じゃないだろう。

 

「あの・・・」

 

 美月が不意に口を開いた。

 

「佐久間さん。私、ここから一人で帰れます。ご迷惑をお掛けしました」

 

 深く頭を下げて、普段となんら変わりなく、淡々と歩き出した美月に声を掛けようとした。

 自分ら夫婦の、みっともない姿を見せてしまった。せめて謝りたい。

 

「井之上さん!」

 

 呼び止めようとしたが、紗代子が、それを許そうとしなかった。絡んだ指を、もう片方の手で押さえ睨みつけてくる。

 

「私だって傘、持ってないのよ」

 

 確かに紗代子の綺麗な髪が、しっとりと雨で濡れている。しかし美月が、この冷たい雨の中、傘も持たせないで帰させるのか。

 

「私を追って来てくれないなら」

 

 絡んでいた紗代子の指が離れていく。

 

「最初に声を掛けてきた男と遊ぶわ」

 

 じりっと後退りしながら、紗代子が背を向けた。

 

 傘を持ってない美月、追って来なければ男と遊ぶと言う紗代子、暫く傘を手にして考えたが。

 

 やはり駄目だ。後々後悔すると思った方へ、自然と走り出していた。

 

 

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