紗代子 空虚

 細い蜘蛛の糸のような一雫の雨を最後に、溜め込んだ水を吐き出した雨雲が街の上空に重々しくのさばっている。

 

 その時を待っていたように、コンクリートの箱の中から人が湧いて出て、赤や青が妖しく揺らめく路面を踏みしめ街中に消えて行く。

 

 それは家路につくサラリーマンだったり、ちょっと無理して大人ぶっている学生だったり。少し濃いめのメイクをしたコンパ帰りの女子大生だったり。

 

 前を歩いていた彼女連れの外国人が、建物のオーロラビジョンに目が留まり突然立ち止まった。私より頭ひとつ分背の高い白人男性。

 ふたりを一瞥いちべつして追い越すと、バックから携帯電話を取り出し浩介にメールを打った。

 

『じきホテルに着くけど、もう部屋にいる? 何号室か教えて』

 

 最初に送ったメールの返信は届いてない。これも読むか当てにならないところだ。

 まあいい。日頃の憂さ晴らしで浩介を呼んだが、さっきの和幸と美月あれで興醒めした。浩介が部屋にいれば、やる事やるし、いなきゃ。

 

 どうしようか。

 

 送信と同時に顔をあげると、前を歩いて来た赤ら顔の男が私を見て千鳥足で避けた。

 男からは酒の臭いがした。その臭いが体臭とあいまって、熱と一緒に放散ほうさんしてる。一緒に飲んでいたであろう同僚らしき男も、スーツのボタンを外しネクタイを緩めながら、すれ違い様に談笑する。

 その男達の顔。

 

 ふっ、と笑いが込み上げてきた。他の女に夫をとられた妻の顔が、そんなに可笑しいか。

 

 あの後、あの場を去った後、和幸あのひとは必ず私を追って来ると思ってた。あんな女よりも私の機嫌を損ねる事の方が気掛かりのはずだから。でもいまだに和幸あのひとが私の隣にいないということは選んだのは、なんの取り柄もなさそうな、あの美月という女。

 

 どうしようもなく腹が立つ。

 この私より美月あんな女を追って行った和幸あのひとに。

 

 いや、少し違う。この腹立たしさは私から男を取っていった美月に、と言った方が正しいかもしれない。夫婦仲はどうあれ、あれでも私の夫なのだ。その夫を私から佐久間紗代子という女から取っていった。

 いったい、どうたらし込めたのか。へんに生真面目な和幸あのひとを、そんなことが出来る男にするなんて。

 この、どうしようもない敗北感。よりにもよって、私より明らかに容姿もセンスも劣っている女に。

 

 明治を思わせるレトロな街灯。この道を曲った先に、浩介とよく利用するホテルがある。それ程大きくはない、こじんまりとしたホテルだが内装もホテルマンの接客も悪くはない。こちらに出張で来たような営業マンの姿も、よく見かけるのだが。

 

 今夜は、何もかも忘れたい。あの美月より、私の方がいい女だと男の口から言わせてやりたい。

 

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