佐久間和幸

音をたてないよう、息を殺してドアを開けた。暗闇の中で聞こえてくるのは、紗代子の息遣い。廊下の明かりで目が覚めないよう、静かにドアを閉める。


 暗がりの中で紗代子の白い肌が、陶器のように浮かび上がった。


ーーー紗代子。


 甘い、甘い吐息が彼女の唇から漏れる。


 綺麗だ。この彼女ひとが妻だなんて、いまだに信じられない時がある。


 紗代子の唇。柔らかく弾力のある唇。親指で触れていると、このまま奪いたくなる。


 彼女を初めて見かけたのは、店の中。処方箋を持ってきていたのだが、なぜか彼女の周りだけ、凛とした空気が漂っているように見えて。


『この薬はジェネリックもありますが、どうされますか?』

『ジェネリック?』

『はい、医師に処方された薬(先発医薬品)と同じ効果が得られて価格が安いお薬です』


 ジェネリック(後発医薬品)を知らなかった彼女。熱で潤んだ眼が艶かしかったのを覚えてる。


『それじゃあ、そのジェネリックにして下さい』


 たったこれだけの会話だったが。


 保険証で、この近くの銀行に勤めているのだと知った。新たに口座も開設して、彼女と接点は持てないかと銀行で扱う保険の相談をしに行った。その日、担当してくれたのが彼女だったが。


 あの時は天にものぼる気持ちだった。いくつかの保険の説明をしてもらったが、そんなの頭に入るはずがなく彼女に薦められた保険に二つ返事で判を押していた。


「紗代子・・・」


 耳障りにならないよう起こしてみる。


「紗代子、起きて」


「んっ・・・」


 手の中に収まらない綺麗な、ふたつの膨みが天井を向いた。同時に彼女と距離を取る。ベットの上で紗代子が背伸びをすると、まだ眠た気に自分を見つけた。


「・・・なに?」


 少し照れくさかったが、昨晩、書いた手紙を思い切って差し出してみた。


「これ、読んで」


「・・・なんなの?」


 封筒を受け取った紗代子が、怠そうに封を開けようとする。慌てて紗代子の手を押さえた。


「今、読まないで。俺が仕事に行ってから、読んで」


 面倒くさそうに、こちらを見上げてくる紗代子の視線を逸らし、ドアまで後退りした。


「じゃ、行ってくる」


 寝室のドアを閉める。作りものの笑顔が一気に崩れた。


 あれを読んで、どう思うだろうか。

 今どき手紙だなんて、恥ずかしいことをしてると思う。でも。


 玄関の扉を開け、振り返った。


 すこしづつ、噛み合わなくなった紗代子との関係。

 前は、たわいない話でも笑いあえた。日常の小さな変化に、ふたりで共感できた。穏やかな、これが幸せなんだと実感する毎日を送っていたのに、今は、まるで赤の他人と暮らしているみたいだ。


 そっとドアを閉める。


 もう一度、出逢った頃の関係に戻りたい。

 大の男が感傷的になってる、そう思われるかもしれないが、それでもいい。


 紗代子には、ちゃんと読んでもらいたいんだ。


 

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