佐久間紗代子

小学生の長男、長女、それに三歳になる次男を子に持つ美希。上の子ふたりは学校だとして下の子をひとり、部屋においてきたのか。


 美希が卵を頬張りながら、こちらを見てる。考えを読まれないよう、微笑んで見せた。


 このマンションの情報屋でもある美希。この人の機嫌を損ねると何を言われるか、わかったもんじゃない。余計なことを考えるのは、よそう。

 

 コーヒー豆に沸き立ての湯を注ぐ。湯気の中に水蒸気の粒子が躍る。芳ばしい香りがリビングに漂うと、サラダを咀嚼していた美希が振り向いた。


「あら、ごめんなさいねー。コーヒーまで入れてもらって」

「いいえ」


 それにしても、わずかな時間で、もう食べ終えている。


「下げますね」

「美味しかったわ。御馳走様」


 美希はコーヒーを啜りながら一息ついた。


 縁まで汚れた皿。手に持つと爪の間にまで油が入り込んで、不快この上ない。


 ネイルを気にしながら洗い物をしていると、こちらを凝視する美希と目があった。


「ねぇ。佐久間さん。佐久間さん家は、旦那さんの給料だけで暮らしてるの?」


 何の探りだろう。


「そうですね」


「羨ましいわぁ。旦那さん薬剤師なのよね。確か駅前の薬局、そこに勤めてるんでしょ。あそこ、近くの病院の処方箋も扱ってるし、きっと儲かってるのよね」


 美希が大きな溜息をついた。


「うちなんか、もう大変なのよ。旦那、ボーナス減らされて。ただでさえ私が働けないのに、微々たるボーナスの半分を、会社の飲み会に使ったのよ。もう、後輩の面倒見がいいのも、どうかと思うわよ。ほんと、嫌になっちゃう」


「はあ・・・」


 和幸あのひとが薬剤師だなんて、この人に一度も言ったことがないのに。それに職場まで、どうして美希が知っているのか。

 彼女の網の目のような情報網に、感服してしまう。


 美希が聞いてよと言わんばかりに、前のめりになった。


「だからね、旦那が休みの時ぐらい、うちの子供の面倒を見ろって言ってやったの。他人より家庭が、妻が大事でしょって」


 美希がカップの中身を、音をたて飲み干した。


「今、下の子連れて公園に行ってるわよ。あはは、きっと、てんてこ舞いよ。い気味」


「でっ」と美希が真顔になった。


「佐久間さんの旦那さんって、月、いくらぐらい貰ってるの?」


他人の財布の中身が気になるのか。

 仕事を辞めてから、使わなくなった営業スマイル。かんに障らない言い方と笑顔で、美希の機嫌をうかがう。


「うちなんて、そんなに多くもらってませんよ」

「そうなのぉ?」


 はっきりと否定したのに、美希は嘘だと疑ってる。鼻を膨らませ興味津々だ。まあ、和幸あのひとの給料など聞いたことがないから、真実味がないのを感じ取ってるのかもしれないけど。


「奥さんの好き放題にさせてくれるような、いい亭主。なかなかいないわよ。そんなに愛されてるのに、どうして子供作らないのかしら」


 美希が、ふっと笑った。


「ほら、子はかすがいって言うじゃない」

「そうですね。うちも、頑張ってるんですけど」


 ふたりで顔を見合わせて、笑った。


 洗い終わった皿を仕舞う振りして、背を向けた。

 この美希ひとには、あまり長居はしてもらいたくない。早々に帰ってもらおう。


「あの、私、着替えてきてもいいですか?」

「あら、そうよね。いつまでも、そんな格好じゃねぇ。いいわよ、行ってきて」


 手を振る美希に会釈して、寝室へ戻った。ベットに崩れるように座り込み、ぼんやりとドアを見つめた。


 疲れた。でも、どうやって帰ってもらおう。


 クローゼットから紺のスーツを取りだした。髪をまとめ薄化粧をし、これから出掛ける風を装う。

 いつものメイクは控え、ちょっと落ち着いた場所。そう、例えば美術館とか。


「こんなものかな」


 鏡の中に結婚前に勤めていた、元銀行員の私がいる。


 今から出掛ける用事があると言えば、いくら美希でも帰るだろう。


 バックを肩にかけ寝室を出ると、つい今しがたのことなのに違和感を感じた。


「早坂さん?」


 人の家の朝食を食べたテーブルに、彼女の姿はなかった。

 嫌な予感がしてリビングを見た。携帯電話が置いてあるローテブルの前に、美希が立っている。

 私を見て笑う美希に、一瞬で背筋が寒くなった。


「なんか色々と御馳走になっちゃって、そろそろ旦那が帰ってくると思うから戻るわね」


長居する気で来たんじゃないのか。


 帰ってもらえることに安堵するどころか、どこか勝ち誇ったような美希の横顔に、どうしようもない焦りを感じてしまう。


「そう、急いで帰らなきゃね」


 そそくさと、いや、慌てるように玄関へと向かう。履いてきたサンダルさえ美希は上手く履けず、もどかし気に舌打ちする始末だ。苦笑しながら扉の向こうへ。その姿が消えた後、この不安の正体がわかった。


 そうだ、メッセージ。浩介からの返信。


 強張る身体が、ほんの数メートル先のテーブルまで、何度もつまずきそうになる。


 心臓が早鐘を打ってる。

 滑り込むように携帯電話を手にした。


 携帯電話はホーム画面のままだ。美希がメッセージを開いた形跡は。


「ない・・・、良かった」


 ソファーにもたれ、息をついた。


 空が青い。

 この数分間で、なんとも言えない疲労感だ。


 浩介からの返事はきていたが。


《その件は、いったん見送りということで、相手には、また連絡しますと言っておいてくれ。よろしく頼む》


 今度の私は、貴方の部下っていう設定なの?


「もうっ、私が会いたい時には、いつも会ってくれないんだからっ」


ーーーちりん


 キッチンの方で小さな鈴の音が聞こえた。今、ここには私ひとりのはずなのに。


 振り返った。


 それは、腰を低くしてキッチンから這い出る美希を見つけるのと、ほぼ同時だった。


「えっ、どうして?」


「ごめん、部屋の鍵、ここに忘れちゃって・・・、あはっ」


 赤と青の鈴のキーホルダーがついた鍵をかざす美希に、私も笑うしかなかった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る