佐久間紗代子

結婚と同時に越してきたのは、駅から歩いて十分、築十五年、十四階建の賃貸マンションの一室。

 半地下のロビーを抜け、エレベーターで八階まで。南向きの角部屋が私が住む部屋。


 オフホワイトを基調とした部屋は、そこそこ広く綺麗だし日当たりもいい。小さなキッチンだが使い勝手が悪いということもないし、セキュリティも、しっかりしてるから安心。何より、家賃から光熱費。ありとあらゆる生活費を佐久間和幸あのひとが払ってくれるのだから。好きに使っていいお金まで振り込んでくれる夫を持つ私は、きっと幸せ者なんだろう。


 そう、はたから見れば。


 鍵を開け中に入ると、リビングルームの扉のすりガラスから、明かりが漏れていた。


 あのひとの靴がある。当たり前だ。ここは、ふたりで住むために借りたマンションなのだから。


「ただいま」


 ソファーにもたれ、テレビを観てる和幸の頭だけが目に留まった。

 

「お帰り」


 こちらを振り向かず、上下に小さく揺れる。

 テーブルの上には、一人分の夕ご飯。ハンバーグとサラダとスープがラップに包まれ、ランチョンマットの上で、今か今かと食されるのを待っていた。

 ソースから作る、あの人の得意料理だ。


 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。冷たい水が喉を通っていくと、霧ががっていた頭の中が晴れていく気がする。

 ふうっと一呼吸ついて、テーブルの上の料理達を眺めた。

 いくら美味しくても、あのひとの作った料理を食べる気には、ならない。


「私、晩ご飯いらないから」


 和幸はおもむろに立ち上がると、私を無視して、無言で料理を冷蔵庫に入れはじめた。淡々とした機械的な動作で、みるみる片付いていく光景は、まるで食べないことを見越していたみたい。

 最後にテーブルを拭くとガスの元栓を閉め、キッチンの電気を消すと、一仕事終えたかのように溜息をついた。


「お風呂、沸いてるけど」


 無関心、無感情。なんて奴。


 ソファーに座り直した和幸の背中に、吐き捨てるように言ってやった。


「いい。シャワー浴びてきたから、いらない」


 最低、最悪だ。なんで、あんな男と一緒になったんだろう。


 寝室のドアを閉めバックをベットに放ると、そのままピンと張られたシーツの上にダイブした。先に着地していたバックの金具が、怪我をしていた指にあたる。


 もう血は止まっているが、軽い痛みが走った。

 傷口にキスをする。ゆっくりと指を口に含んだ。わずかな鉄臭さが、夫以外の男の体を思い出させる。


 はぁっと、唇から吐息が漏れた。瞳を閉じて想像する。両手で自分の体を抱きしめた。



 

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