第8話

 その後二人は、画家とモデルとして仕事をこなした。

 作品は日々完成度が高くなり、やがて最後の一筆を唇に置いて完成した。

 絵が完成した日、立花は白い窓を開けてアンナが花を売るために通りを通るのを待っていた。

 時間になるとアンナが現れた。

「やぁ、アンナ、ついに絵が完成したよ」

 立花はアンナに言った。

 アンナはそれを聞くと夕暮れに部屋に行くわ、と言った。そして手を振って立花を見て微笑んだ。

 立花はアンナに手を振ると空を見た。空は少し曇り始めていた。

(今晩は雨かも知れない)

 そう思うと立花は、部屋に置いてある包を見た。

 それは立花が本屋で買ってきたアルフォンス・マリア・ミュシャの画集だった。

 彼女は立花との交流を経て、自分も絵を描きたいと思うようになった。

 そしてそれを立花に相談した。

 彼女は自分の色彩に対する感覚を磨いて絵画を描きたいと願った。戦争難民としての今後の自分の人生における希望として画家になりたいと願うようになった。

 それで立花はそんなアンナのためにミュシャの画集を買って彼女への贈り物にしようと思った。

 買ってきた画集を見て、自分が去った後残った画材を与えて、絵を学んでほしいと思った。

 いや、それだけでは無かった。

 恥ずかしくて言えないが、立花はアンナを既に心の中で愛していた。

(明日には日本へ行かなければならない。アンナに僕の愛を伝えてできれば去りたい)

 立花はそう思って振り出しそうな空を見つめていた。

 日本へ帰るフライトまでもう二十四時間をきっていた。


 雨が降り出した夕暮れのウィーンの街をサイレンの音が鳴り響いていた。

 雨に濡れた路面を車が滑った跡が見えた。そこには路面に転がる赤い林檎が散らばっている。

 転がった林檎が立花の靴に当たった。

 立花はそれをひとつ拾い上げると、人ごみから抜け出て、近くの標識に背を持たれて声を上げて咽び泣きはじめた。

 雨音は段々強くなり、やがて立花の声をかき消すほど強くなった。

 泣きながら立花は手にした林檎の皮を指の爪で切り裂いた。

 中から美しい林檎の果肉が見えた。見えると立花は見えた果肉を切り裂くように、また爪を動かした。

 今度は果肉ではなく悲しみが見えた。その悲しみが見えた時、立花は吼え、林檎を濡れた石畳の道に叩きつけた。

 その石畳の上に雨に濡れて倒れているアンナの姿が、彼が最後に見た彼女の姿だった。

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