第7話
伏せた目を上げて目の前で自分を描く男を見た。
(いまこうしてだからひとりの画家の前でモデルになっているのかもしれない)
後ろを歩く子供の歌声が聞こえてきた。風に裂かれるように髪が靡いて、その声に絡んでいった。
そこで彼女は瞼を閉じて、やがてゆっくりと瞼を開いた。
アンナは椅子に腰を掛けて、白い窓枠に持たれるように背をついて林檎を両手に持って立花を見ていた。
立花はイーゼルに画布を置いてその画布に丁寧に油絵具を乗せていた。
立花は彼女をモデルにして絵を描いていた。窓から降り注ぐ柔らかい陽光が彼女の白いうなじから肩の輪郭に当たり、それを立花は黄色と白で薄く混ぜ合わせた色で捉えようと筆を動かして、そっと彼女を見た。
彼女の青い瞳が立花を見ていた。立花は彼女を見て少し微笑むと、パレットに筆を置いた。
そしてゆっくりと背を伸ばすと手を上げて彼女に休憩しようと、言った。
今日は朝から今まで絵を描き続けていた。
立花はこの前彼女がこの部屋に来た時、彼女をモデルにして絵を描きたいと言った。
日本に帰るまでに彼女を描きたいと言った。
彼女は、すこし考えるような表情をすると自分から椅子を動かし、今座っている場所まで動かすとここで描いてくれるならと立花に言った。
立花は勿論ですともと言うと来週の聖体祭の祝日に描くことに決まった。
そして約束の日に彼女は来て今まで二人は部屋でモデルと画家として仕事に打ち込んだ。
立花は立ち上がると隣の部屋に歩いて行った。彼女は静かにイーゼルの側まで来ると絵を見た。
自分の姿がそこには在った。
檸檬色の薄い色が頬に降り注ぎ、唇には薄い桃色が光を受けて反射していた。美しい表情をしていると思った。
立花がパンと数枚のハムを持って戻ってきた。それをテーブルの前に置くと二人は手にとって食べ始めた。
「お腹が空いていたから凄く嬉しいわ、美味しいわね」
「アンナ、ワインもあるけど飲むかい?」
そう言うと立花は部屋に戻りワインとグラスを二つ持って来てテーブルに置いた。
ワインを開けると香りが部屋に広がった。そしてゆっくりと立花はアンナのグラスに注いだ。
次に自分のグラスにワインを注ぐと手にとって二人で乾杯をした。
ワインがお互いの喉を潤し、二人の時間を豊かなものにした。「アンナ、どうして林檎を手に持つことにしたの?」
立花は彼女に聞いた。
「今日は白いワンピースだったから、何かアクセントが欲しいと思ったの。それで赤い花にしようかと思ったのだけど、林檎が良いと思ったの。私にとって画家のモデルになるということは禁断の果実を食べることに等しい禁断の行為なのだから聖書のアダムとイヴが口に含んだ林檎を手にしてモデルになりたいと思ったの」
「モデルになることが禁断の行為だって?」
立花は笑いながら彼女のグラスにワインを注いだ。
「禁断の行為よ、ゴウ。私は二人が楽園を追われたのは禁断の果実を食べたからではなくて、実は神しか知りえない美的な感性を赤い林檎に感じたからだと思っているの。林檎の赤い、その赤という色彩にアダムもイヴも何かを感じた。その何かという感性が宇宙の創造に関わるとても大事な秘密だった。それは神しか知りえないことなのだけど、それを人間である二人が肉体の内に潜ませて持っていた。それを知った神は、二人を楽園から追放したのよ」
立花は黙って彼女が話すことを聞いていた。
「林檎の赤には何かが、あるのよ。そして画家はその神が恐れた感性を二人から引き継いだ人達なの。だからそんな画家のモデルになるのはとても怖い禁断の行為だというメッセージを伝えたかったの」
「君はとても深い教養を持っているのだね、アンナ」
彼女は青い瞳を立花に向けて言った。
「私の故郷は内戦で破壊され、美しい風景は全て消え去ってしまった。私の生きる希望も世界もこの手の中にある小さな花々の中にしかないの。その花々の一枚一枚を揃えて私は美しい世界を造り、そこで私は生きている。そしてこれからもずっと・・。でもゴウ、私は今ここであなたにモデルとして描かれながら私が生きるべき道という希望があるのではないかと考えていた。自分の色彩を繋いで希望をつないで生きていく方法を・・・」
立花は林檎を手に取るとそれをテーブルに置いた。
「林檎が君の禁断の果実で、禁断の秘密でもある。でもそれはアンナ、君の希望でもあるのだね」
「そう、そういう願いを込めて林檎を手にとってモデルになったの。いつか誰かがこの絵を見たとき、このモデルの女性が持つ林檎の意味はなんだろうと思うでしょう」
彼女は立ち上がると白い窓辺の椅子に座り、窓の外の空を見た。「空が曇ってきたわ、雨が降るかもしれないね、ゴウ、続きを始めましょう」
そう言うと彼女は林檎を両手に持って、一口だけ噛んだ。そして青い瞳で立ち上がってイーゼルの側に座る立花を見つめた。
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