第5話
彼女の細く白い手は美しい花を切り取るために為に在った。
そして今日も小さな庭からいくつかの花を鋏で切り取ってゆく。
切り取った花を叔父が通りに出している店先に運び、街を訪れる人々の目に留まるように置いてゆく。
彼女は最初、切り取った花を何気なく店の表に置いていたが或るとき花びらの色が青ならば横に黄色を、赤ならば緑を寄り添うように置いたところ、人々が立ち止まり花を手にしてくれることが多かったことに気がついた。
不思議に思った彼女は休みの日に書店に入り、色彩の本を手にとった。
ゲーテ色彩論と表題に在った。それを読み進んでいくうちに彼女は自分の考えと符合する部分が沢山在った。
本を静かに閉じるとそのまま書棚に戻した。本を買うお金は無かった。
ただ内容を記憶した。
アンナは休みの日には必ず本屋に行き、そこで沢山の本を読んだ。宗教から、天文学、文学からありとあらゆる物を読んだ。
そしてそれを記憶することに努めた。そこで得た知識はその通りに翌日から仕事に取り入れた。
彼女はゲーテ色彩論から得た知識を使った。
花は沢山売れるようになった。そして籠を持って通りで花を売り歩くときも、籠の花をゲーテ色彩論の考えに沿って実行した。
美しい花は多くの人の手に吸い込まれ、多くの家庭に渡っていった。
そしてその花の彩の美しさをひとりの東洋人が見つけ、絵を描くと言った。
花を籠に手を入れたアンナの頭上から男の声が聞こえた。
「こんにちは、アンナ」
その声に彼女は、空を見上げた。白い窓から首を出して人懐っこい笑顔で、自分を見ている男がいた。
「絵が出来た。見に来ないかい?」
アンナは笑顔でうんと頷いてアパートの中に入っていった。
板張りの螺旋階段を上がると立花がドアの前で立っていた。彼女は立花の部屋の前まで行くと、促されて部屋に入った。
部屋の中には沢山の画布が散らばっていた。その部屋の窓の方に水色のテーブルクロスの上に白い花瓶があり、その中に沢山の彩の花が活けられていた。
側にイーゼルが置かれ、そこに絵が在った。立花は指を指した。
「アンナ、見てもらえるかな、これが僕の描いた絵さ」
アンナは近づいてその絵を見た。
白い花瓶は幾層もの白い絵の具で盛られ、そして花びらは点描のように描かれていた。
ユトリロの描く白色にスーラの点描が混じり合い美しい交響曲を奏でているようだった。
彼女は暫くその絵を見ながら自分自身が引き込まれてゆくのを感じないではいられなかった。
「素晴らしい・・絵全体の調和が取れていて、何よりも色彩が奏でるハーモニーが見ている人の心を和ませる・・・とても美しい詩に触れたときの清らかな感じを受けます」
アンナは絵をみつめたまま、十字を切って言った。
立花は彼女の横顔を見つめた。青い瞳が動くことなく自分の描いた絵を見ている。
彼女のその横顔を見ているだけでフェルメールの絵を思い出すことが出来た。
少しだけ翳りのある表情に、差し込む部屋の明かりがとても絵画的で美しい横顔だった。
「この絵、もし良ければ頂いてもいいかしら?」
青い瞳は絵を見続けていた。
立花は彼女の言葉が心に響き終わるのを待って「勿論いいですよ。差し上げます」と言った。
青い瞳が立花の方を振り向くと笑顔になった。
立花は別の部屋から椅子を持ってくると、そこに彼女を座らせ、自分は隣の部屋に行って食器棚からカップを取り出し紅茶を注いだ。
それを手に持つと部屋に戻り、椅子に座る彼女の手に渡した。
「ありがとう」
彼女は唇にカップを近づけて茶葉の匂いを嗅ぐとゆっくりと紅茶を飲んだ。
立花は白い窓枠に手をついて、街の通りを見ていた。通りを行き交う車や人々の姿が見えた。
「今日は人がいつもより多く居るから花が沢山売れそうだね」
立花は通りを見ながらアンナに言った。
「そうだといいわね。でも・・人が多いから花が売れるとは限らないから」
「そうなの?」
立花は視線を窓の外からアンナに戻して言った。
「そう、雨の日には黄色がよく売れるし、失恋した女性には青い花が良く売れる。逆に恋を始めた人には桃色の花が売れるし、晴れた日には緑輝く葉の花が売れる。色に対してそんな思いを持っている人が沢山街の通りに居るとき、その人の心に届くような色を持った花が良く売れるのよ。だから人の数はあんまり関係ないかな」
立花は「成る程」と頷いた。
「東洋の人、私まだあなたの名前を聞いてなくて・・」
「そうか」と言うと手を立花は叩いた。そしてアンナに手を差し伸べた。
「ゴウ、ゴウ・タチバナです」
「ゴウね、いい響きね。私はアンナ。改めて宜しく」
二人は手を握って微笑み合った。微笑んだ後に立花は少し照れながらアンナを見た。
「どうしたの?ゴウ?」
「実は・・」
立花は頭を掻くとアンナに言った。
「アンナ、絵を差し上げる代わりにお願いがあるのですが」
立花はそう言って彼女にある提案を持ちかけた。
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