第4話

 立花はその年、ドイツのミュンヘンでの勤務を終えてオーストリアのウィーンに移り住んでいた。

 そこで立花は日本向けに地元のガラス工芸品やバッグ類の商売をしながら、週末は古い街並みの石畳の路を歩き、気に入った場所があると手にしたスケッチブックを広げては立ち止まり、街の風景を描いた。

 街の道幅は狭く、時折見上げる空は鉛色で低く、東欧の赤い煉瓦の屋根ととても合っていた。

 街のカフェに入れば、立花は椅子に腰掛ける女性や男性の姿を見ては絵を描いた。

 街の美術館ではクリムトの作品をよく見た。しかし、立花の感性はどちらかといえばエゴン・シーレを欲した。

 クリムトの美しさの表現より、シーレの内面に迫る筆使いが誘う線に惹かれた。

 惹かれたが、真似ることはなかった。ただ彼からは多くの事を学んだ。

 ウィーンでの日々はそんなことの繰り返しだった。やがて日本から帰国の辞令が出ることは知っていた。ここは短い滞在になることを立花は知っている。

 だから立花は日本に戻れば、今の仕事をやめて本格的に画家になりたいと思っていた。その為、帰国後は大阪の島先生の洋画研究所を訪ねる予定だった。

 ミュンヘンでの滞在時の或る日、立花は島先生から郵便物を受け取った。

 梱包の紐を解くと手紙と先生の絵が同封されていた。その絵は自分が先生の下に手紙と一緒に送った絵を、先生が模写して描きなおされている絵だった。

 立花は今まで先生からこうした絵を受けとったことは無かった。

 立花はその絵を見ただけで、自分の未熟な部分を全て察知することができた。それは先生から初めて受けた絵の指導とも云えた。

 その絵を暫く手にとって眺めた後、立花は手紙を読んだ。

 先生のなだらかに走る文字が見え、そして手紙の最後に頁に立花の視線が落ち、文字を掻き分けるかのように読み進んでいく。

「立花君、僕の友人の滝君が云うには『画家が本当に画家になるには、才能だけではなれない。勿論才能も技術もとても大事なことだ。だが線を描き、色彩を画布に放つだけでは本当の画家になれない。画家には自分以外の人間の存在が必ず必要だ。画家も一人の人間なのだ。人間が人間に出会い互いに影響される。そしてその存在に対して向き合うことではじめて自分が何故絵を描こうとするのかという、理由を見つけることが出来る。それが画家には必要だ。それを人生の中で見つけることが出来る運命の下にある者が画家になれるのだ』そうだ。僕は概ね間違いが無いように思う、僕もそうした経験を持つ一人だから」

 そして最後に「君にとって必要な存在がきっと君を画家に導いてくれるだろう。そして導かれた君の作品を見るのを心から楽しみにしている」と書いてあった。

 立花はその手紙を見終えると先生の描いた絵を見て、静かに頭を下げた。

 立花は下げた頭を上げると、電話を手にして電話番号を指で押した。そして日本の島洋画研究所に電話をすると、若い男の声が聞こえた。

 男は「藤田」と名乗った。立花は自分の名前と用件を男に言うと、受話器から聴こえてきた男の返事に、身体が硬直して動くことができなくなった。

 若い男は立花にこう言った。

「立花様、申し訳ありません。島悌二郎先生は昨晩病気の為、入院先の病院でお亡くなりになりました」



 立花は画布から筆を離すと、窓の外を見た。

 雨が降っていた。昨日、島先生の死を聞いた立花は先生から送られてきた絵をテーブルに置いて横に小さな蝋燭を灯し、一晩それを祭壇として先生の魂の冥福を祈った。

 朝方に少し眠り、起きると立花は画布にひとり向き合った。立花は窓の外を見て思った。

(先生は自分の生命が消え去ろうとするその最後を知っていて、自分に最初で最後の指導をしてくれたのだ。先生とは自分が若者の頃、自転車で事故を起して以来の付き合いだった。自分は先生から何か教わることも無く一人で絵を描き始めた。先生の研究所を訪ねることはしなかった。一人で絵を学ぶことを選択した。しかし一人で絵を描くのは、孤独だった。或る時書店で手に取ったゴッホの本を買って部屋で読み終えたとき、独学で絵を描くこの孤独感がゴッホと似ていると思った。ゴーギャンと分かれ社会と断絶するように絵を描いていこうとするゴッホの心が、本を読み終えた自分の心を締め付けた。海外で働きながら独学で描いた絵を時折、先生に送り見てもらうことは有った。特に画学生の様に技術的な指導を受けたことは無い。絵を見た先生は手紙にいつも「立花君、いいね。次に進もう。とだけしか書かなかった。しかし先生は最後に自分が描いた絵に病床の先生が自ら鉛筆を取り素描を描き、それを自分に送ってくれた。先生はその絵を見て独学で行く立花の心を奮い立たせ、自分を越えられるものなら越えて見せろ、野獣の様に吼えて次の時代に生き残る絵を描け、と優しく自分を崖から落としてくれたのだ)

 一人外をみて立花は、部屋のドアを開けて外へと出て行った。

 小雨の中、立花は借りているアパートを出て市場へ向かった。

 傘はささなかった。

 濡れたい気分だった。襟元を立てて小走りに市場へと向かった。

 そこには沢山の溢れるばかりの色とりどりの果実が並んでいた。立花は静物を描くために果実を買いに出かけた。そして梨と林檎を買い求めると自分のアパートに向かって戻ろうとした。

 先程まで降っていた雨は止み、所々の水たまりの中に青い空が映っていた。

 信号の無い通りを渡った時、立花は髪にスカーフを巻いて、手に花を抱えて道行く人に花を売る女性を見た。

 道行く人に花を手渡してゆくが誰も彼女の手に握られた美しい花に手を伸ばす人は居なかった。

 戦争難民だなと、立花は思った。

 欧州では第二次世界大戦が終わって数十年が過ぎても未だ内戦や民族紛争の絶えない地域はあった。

 そうした所から流れてきた難民は職に就けるものはごく僅かで、どちらかといえばその多くは目の前に近づいてくる女性のように、その日々を暮らすために内職で得た小さな希望を売って歩いていた。

 売り子の孤独が立花の心を湿らした。そして籠にある美しい花が見えた。

(美しい花だ)そう、思うと立花は売り子の女性が近づいてくるのを待った。

 売り子は立花の近くまで来た。

 そして「東洋の人、花はいかがですか?」と言った。

 立花はその声を聞いて、ポケットから紙幣を出した。

「お嬢さん、その花を全部頂いてもいいですか?」

 売り子は立花の答えを聞くと寂しげに微笑んだ。

「いえ、一つで宜しいですよ、これ程の沢山の花は必要にはならないでしょう。憐れんでいただかなくても一つで結構ですから」

 そう言うと黄色い花をひとつ籠から取り出して、立花に渡した。

 立花は黄色い花弁の美しい花を受け取ると、首を横に振った。

「お嬢さん、いや全部いただきたいのです。僕は仕事の合間に絵を描きます。丁度、花の絵を描こうと思っていたら、あなたが通りの向こうからこちらにやってくるのが分かった。遠くから見ていても籠の中の花達の彩の美しさが分かった。是非、それを全部頂いて部屋の花瓶に入れて絵を描きたいと思っているのです」

 立花は受け取った黄色い花をそっと女性に渡すと、微笑んだ。

 売り子はそれ以上何も言うことはないといった表情で籠ごと立花に花を渡した。

 立花はそれを受け取ると、お金を売り子に渡した。

「東洋の人、ありがとう。あなたが描く絵に神の恩寵が与えられることを祈っています」

 売り子はそう言って、小さく胸元で十字を切った。

「とてもいい花を頂いてありがとう、良い絵を描けそうだよ」

 立花は花弁から漂う香りを嗅いで空を見た。

 少しだけ雲の切れ間から見える青い空が美しかった。その空を一羽の鳥が飛び去っていった。自分もまたあの鳥のようにこの街を去ってゆくだろう。

「見せていただけるかしら?」

 売り子の不意な声に立花は振り返った。売り子は立花の方を見て微笑んでいた。

「見せていただけるかしら、もし迷惑でなければあなたが描いたこの花達の絵を?」

 売り子の青い瞳が立花を見ていた。見上げていた青い空のように澄んだ瞳の色がとても美しいと立花は思った。

 その青い瞳に一羽の鳥が去って飛び立って行くのを立花は見た。

 立花は静かに頷いた。

「ええ、宜しいですよ。僕はこの通りの角をまがった処のアパートの二階に住んでいます。ほら見えるでしょう、白い窓枠のある部屋が。あそこが僕の部屋です。あなたはいつもこの通りで花を売っているのですか」

 売り子は頷くと、あの白い窓の部屋ねと言った。

「私はこの通りで朝の十時ごろ花を売って歩いています」

「そう、じゃもしその時間に君を見つけたら、窓から声をかけるよ。お嬢さん、名前を教えていただいても宜しいですか」

 売り子は「アンナ」と、言った。

「じゃ、アンナ。また君を見つけたら声をかけるよ」

 立花はアンナの手を軽く握ると部屋へと戻っていった。そして歩きながらもう一度振り返ると自分を見て手を振るアンナに手を振った。

(良い絵が描けそうだ)と、立花は思った。

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