第2話
芹澤は立花と出会った翌日、滝洋画研究所のデッサン室に一人椅子に腰を掛け紅茶を飲みながら、昨日最後の筆を入れた絵を眺めていた。
そして昨日の事を思い出していた。
島洋画研究所を出て立花と中之島公会堂が見える石畳の橋を渡りながら立花が芹澤に呟いた。
「祈りかもしれないね、君の絵は」
その声に芹澤は立花の方を見た。
「森羅万象・・この世界に生きる全てのものに注がれる光の影にひっそりと潜む愛を君は見つけ、そしてそれを永遠に大事に見つめたいという祈り・・かな」立花は微笑した。
芹澤は微笑する立花を見ながら、頷いた。
「祈りかもしれません。僕は今立花さんがそう言われて、はじめてそう思いました。絵を描くときの自分の主題は祈りなのでしょうね」
石畳の橋の上を歩く二人の頬を風が凪いでいった。交差点で立ち止まると立花は芹澤に言った。
「芹澤君、愛とはなんでしょう」
芹澤は、立花がそう言うのを驚いて聞いていた。
数日前、同じ場所で同じ言葉を藤田から聞いたからだった。芹澤は数秒、静かに押し黙ると立花に言った。
「立花さん、愛も切り裂けますか?」
芹澤の言葉を聞いて立花は笑った。
「なんて間のいい取り方をする答えと質問なのだろう。愛も切り裂けるか・・なんて、詩人の様な質問だね」
目の前の信号が青に変わった。その時、立花は芹澤に聞き取れない程の小さな声で何かを言った。
そして二人は手をあげると別れて別々の道を歩き出した。
(あの時、立花さんは何と言ったのだろう)
芹澤はカップを口に近づけると紅茶の茶葉の香りを嗅いだ。ヴァニラの何とも言えない甘い香りが芹澤の鼻腔を満たすと、芹澤は紅茶を口に含んだ。
そして芹澤はイーゼルに掛けられた絵を見た。
(藤咲さん、愛とはなんでしょう?)絵は答えることなく、美しい横顔を見せたまま静かに黙っていた。
その絵から伝わる静かな沈黙がその答は芹澤自身が見つけるように、と言っているようだった。
(僕はあなたの手術が上手くいくことを祈っている。そして再びあなたと会うことができると信じている。あなたに降り注ぐ光が作り出した影の中に潜むあなたの思いをひとつひとつ拾い出して、僕はそれを色彩にした。それは僕だけが知り得るあなたが持つ秘密の色だ。僕はその色であなたの美しさを永遠に残したいと願い、あなたの現実の時間の進行を画布の中で止めた。美しい時間は永遠にこの美しい画布という氷壁の中で眠る。いつかはこの時間が動くこともあるかも知れない。でもそれまであなたの美しさはここに残ったままだ。僕はそうあってほしいと祈って絵を描いた)
芹澤は椅子に腕をもたれかけるようにして、顔を伏せた。そして言った。
「藤咲さん、愛とは何でしょう?」
庭先から猫の鳴く声がした。大きな黒い猫が庭の茂みから出てきて研究所の入口の方に去っていった。するとポツポツと雨が落ちてくる音が聞こえるのが分かった。
それはやがて大きくなり、芹澤の耳にも聞こえてきた。梅雨の始まりを告げる雨だった。
この梅雨が終われば季節は夏になる。
芹澤は雨の雫の地面を叩きつける音を聞きながら、先程の黒い猫がデッサン室に入ってくるのを見た。
その猫は芹澤の側をぐるりと一周すると、静かに躰を横たえて眠りに付いた。この猫が起きる頃には夏が始まっているだろうと芹澤馨は思った。
そして、その夏が始まる前に藤田と立花とするべきことがあることがあると芹澤は思った。
芹澤は木枠に新しい白い画布を張ると、バーミリオンの絵の具チューブと林檎を手にとった。巴里に行く前に、やるべきことが三人に在った。
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