バーミリオン色の林檎

日南田 ウヲ

第1話

「バーミリオン色の林檎」




 神は偉大な聖書の中で人々に呟いた。

「正直な答(こたえ)は、真の友情の印」

 旧約聖書

「神は、その人が耐えることのできない試練を与えない」

 新訳聖書



 雨がウィーンの街を濡らしていた。サイレンの音が騒がしく、辺りに鳴り響いている。

 石畳の道の上に紙袋から溢れ落ちた赤い林檎が無数に転がっていた。ひとりの東洋人の男が足元に転がってきた林檎を静かに拾い上げた。

 男の髪も顔も街に降り注ぐ雨で濡れていた。唯、男の目だけが雨ではなく涙で濡れていた。



「芹澤君、芹澤君」

 芹澤馨は自分を呼ぶ男の声に振り返った。

 土曜日の午後の御堂筋の舗装路に降り注ぐ春の陽光に芹澤馨は目を細め、自分に向かって走り寄って来る男の姿を見た。やがて走寄ってくる男が島洋画研究所の藤田鼎であることがわかると芹澤馨は微笑して、男が近くに来るのを待った。

 藤田は芹澤馨の傍まで来ると膝に手をついて走って乱れた息が整うのを待った。やがて息が整い出すと背を上げて芹澤馨の顔を見て、いやぁと言った。

「藤田さん、どうされたのですか」

 芹澤馨は少しはにかんだ様な表情をした藤田の顔を見て、彼の肩に手を回した。

「芹澤君、実は研究所に忘れ物があったのでそれをその人に持っていこうと思って急いで研究所を出て走ったのだけど、一歩違いで見失ってしまいました」

 そう言うと藤田は手にしている筒状の画用紙を芹澤馨に見せた。

「絵の忘れ物ですか」

 芹澤馨はそう言うと、藤田を促すようにして歩き始めた。

「うん、そうなのだよ、二時間余りで仕上げた裸婦デッサンなのだけどね、イーゼルに架かったままになっていてね。今日はもう午前中で研究所を閉めるから、忘れたものを取りに帰っても研究所に入れないと思って急いで飛び出して来ました」

 藤田は芹澤馨と一緒に歩きながら丸めて紐で留めてある絵をそっと芹澤馨の前に差し出した。

「芹澤君、どうこの絵を見てみない」

 藤田鼎はそう言うと人懐っこい笑顔を芹澤に向けた。

 芹澤は肩をすくめると「島洋画研究所の俊英である藤田さんが見てみないか、と言っている絵を僕が見ないわけにはいけないですね」と言って笑いながらその絵を受け取るとアールヌーボ調の石造りの銀行の方に寄って、ゆっくりと紐を解いた。

 紐が解かれた絵にやがて春の午後の暖かい陽光が注がれていった。

「これは・・」

 芹澤馨は、開かれた絵を食い入るように見つめた。

 春の陽光が裸婦の太い線に降り注いだと思ったら、その線の内側に隠れていた何か鉄のような礫が芹澤馨の網膜に襲いかかってきた。

 芹澤馨は一瞬にして理解した。

 鉄の礫のよう自分を襲ったものはこの画家の意志なのだと芹澤馨は思った。

 デッサンの対象である裸婦に対する自然の猛威の様な、いや野獣のような全てを飲み込んで押しつぶしてしまおうと言う襲いかかる画家の意志なのだと思った。

 それが春の陽光に弾かれ鉄の礫のように絵を見ている芹澤馨の芸術的感性に突き刺さったのだった。

 藤田鼎はその絵を見て、静かに押し黙っている芹澤馨を見て、微笑した。

「どうだい、芹澤君。この絵素晴らしいだろう」

 その声に芹澤馨は振り返ると、ええと頷いた。

「この絵はまるで野獣のようですね、肉食獣のような、何とも言えない匂いをこの絵から感じます。そう、あのフランスの画家、モーリス・ド・ヴラマンクのようです」

 芹澤馨はそう言うと、そっとその絵を藤田に返した。藤田はそれを受け取ると絵を丸め、そして紐を結んだ。

「確かにそうだね、この絵の所々にある深い黒がまるでヴラマンクのようだ。見ている人はそこにぐいぐいと引っ張られて行く感覚に落ちていく」

 藤田鼎は、丸めた絵の先を手のひらで軽く叩きながら整えると道の方へ歩き出した。芹澤薫もその後について行く。そして並んで中之島公会堂の方に向かって歩き出した。

「芹澤君、島先生から聞いたのだけど夏に巴里へ行くのだってね」

 藤田は芹澤馨を見て言った。

「ええ、今度滝先生が巴里の画家仲間から或るサロンの公募展に招待を受けて作品を出展するのですが、そこに今度僕も作品を一緒に出展することになったのです。それで一緒に巴里へ行くことになりました」

「そうなのか、それは彼女・・藤咲純さんも一緒に行くのかな」

 藤田は少し笑いながら芹澤薫に言った。

「いえ、藤田さん彼女はいま大きな手術を受けていますから、一緒には行きませんよ」

 芹澤馨は、少し頬を赤らめながら藤田に言った。

 そして芹澤馨は少し目を細めながら、何か思い出したように寂しそうに微笑した。そんな微笑を見て藤田は芹澤馨の腕を軽く叩くと、にこりと笑った。

 そして暫く無言で歩いた。

 交差点の沢山の雑踏の中で二人は止まり、信号機が青になるのを待った。

「藤田さん、先程の絵を描かれた画家の名前を教えていただけませんか」

 芹澤馨は藤田に向かって言った。藤田はその声に振り返ると青信号で動き始めた雑踏の中で芹澤薫に言った。

「豪・・、そう、この絵を描いた画家の名前は立花豪という方です」



 翌日の朝、芹澤薫は藤田鼎からの電話を切ると、静かにデッサン室のドアを閉じた。

 芹澤馨は滝洋画研究所のデッサン室でイーゼルに画布を乗せて絵を描いていた。絵を描いていると電話が鳴り、芹澤馨は受話器を手にとった。

 電話は藤田からだった。手短に要件を藤田は芹澤薫に言うと、それで電話を切った。

 デッサン室に戻ると芹澤馨は、パレットの上にセルリアン青を置いた。

 部屋の窓に掛けられた白いカーテンが時折吹く微風に吹かれ、春の午後の自然光が檸檬色になって柔らかく入り込んでいた。

 そしてその薄く柔らかい檸檬色の陽光の日溜まりの中に、芹澤馨は木製の椅子に腰掛けて自分の絵に向かった。

 芹澤馨は目を薄く閉じて、春の優しい光に反射するその一枚の絵を見て微笑むとパレットの上に広げられたセルリアン青を筆先につけて、そっと画布に描かれている横を向いた女性の瞳につけた。そしてゆっくりと離すと芹澤馨は絵筆を持った手をそのまま膝に置き、その絵を静かに見つめた。

 瞳に青い冷静な知性が加わると、一瞬だけその瞳は瞼を閉じて芹澤馨を見て微笑んだように見えた。

 そしてありがとう、と呟く声が聞こえた。

 それは芹澤馨の心の中だけの出来事だったかもしれない。現実は描かれている絵の女性はじっと横を見て静かに外を見ているだけだった。

 檸檬色の陽光が画布へ降り注ぎ、これからこの絵の人物が向かう回廊のような人生を芹澤馨は思った。芹澤馨は微笑をすると、それで最後の欠片が揃ったこの絵は完成した。

(ひかりよ、ひかり、彼女の人生を守り導くものは今この画布の上に降り注ぐこの檸檬色のひかりだけだ)

 芹澤馨は椅子から腰をあげると、窓から吹き込む風に頬を寄せた。風の中にはっきりと夏の香りを感じた。

 もう夏はそこまで来ていた。

 揺れているカーテンの側に立ちながら、自分がこれから向かう巴里を思った。

 後悔は何も無かった。後は唯、航空機のチケットを手にして旅立つだけだった。

 藤田鼎が芹澤馨に昨日去り際に言った言葉が、心の中に響いてくる。

「芹澤君、愛とは何でしょう?」

 藤田鼎は交差点を渡り終えて中之島公会堂に向かう石造りの橋を並んで歩きながら芹澤馨に言った。

「僕も生き別れた娘がいる。今でも娘はきっと生きているのだと思いながら、僕は娘の肖像画を描いている。成長した娘の姿を知らない僕は心の中で娘の今の姿を思いながら描くのです。近くに居なくても僕は絵を描きながら、娘に対して父親として枯れることのない愛を抱いている自分を確認します。芹澤君、愛とは普段は分からないものだけど、或る時自分が向き合った時にだけはっきりと形を表し、そしてそんな時にしか見つからないものなのかもしれないですね」

 芹澤馨は静かに春の微風に吹かれるカーテンに心を寄せながら、或る人物を思った。

 その人物のことを藤田鼎は「藤咲純」と芹澤馨に言った。

 芹澤馨は瞼を閉じて数秒瞼の裏に残る陽光を心に落とすと目を開けて目の前の小さな庭先を見た。庭先には小さな名前も無い野辺に咲く花々が見えた。

 そしてそこに美しい女性がひとり小さな花々を白い指に持ってこちらを見ていた。

「愛とは何でしょう?」

 芹澤馨はその女性に向かって呟いた。その女性は芹澤馨の方を見て、ゆっくりと細い腕を伸ばし指に挟んだ一片の白い花を見せた。芹澤馨は静かに黙ったまま、その白い花を見ていた。

(清らかな白い花。それはまるで藤咲さん、あなたの美しい純潔さを見ているようです)

 芹澤馨の憶う時の中を強い風が吹いた。白い花の花弁はその風に舞い上がり、やがて青い空へと消えた。

 花を追いかけるように空を見つめた視線を庭へと向けるとそこに彼女は居なかった。芹澤馨は静かに窓を閉めた。そして洋画研究所を出る準備をした。

 これから島洋画研究所の藤田を訪ねる為だった。いや、正確にはそこに来ている或る人物に会う為だった。

 その人物、そう立花豪に会う為だった。

 芹澤馨は藤田から今日の午後、立花豪が来ることを朝の電話で聞いていた。

 それを聞いたとき、会おうと即座に心に決めた。

 芹澤馨の湿った心は研究所の扉が閉められたとき、何か夏の空の下で激しく生き残る獣達のからりとした心持ちになっていた。

 何故かそんな気持ちを、立花豪と言う名前を思うと感じないではいられなかった。



(白い画用紙が無垢な純粋な乙女の心であれば、それを引き裂かんとばかりに引かれたこの力強い線、それはまるで無垢な乙女の純潔を切り裂き、そしてその引き裂かれた大地の谷間から新しい大人の女性としての人生を歩ませようとする男の獣のような生命力に培われた再生の力かも知れない)

 藤田はある男の後ろに立ってその画用紙に描かれた絵を見て思った。

 そしてその力強い線をまた別の線が被さる。

 無数の線が被さりそしてそれは大きな黒い塊になって行く。その男はそれを気にすることもなく次々と新しい線を繰り出してゆく。一つの線をこの世界から消し去りそして新しい線を引く。

 男は静物を描いていた。

 白いリネンのテーブルマットの上にセザンヌの絵のように綺麗に配置された果実。

 しかしそれは彼の前では野獣の餌のように食い散らされ、その無残とも言える姿が画用紙に残った。

(だが)と藤田は思った。

 無残との言えるその食い散らかされた物達の何とも言えない神々しさは何だろう、まるで基督世界の絵画を見るように、そのひとつひとつがこの男が描いた線の中から静謐な力強い沈黙を伝えてくる。

 藤田は壁に掛けた時計を見た。

 午後二時を過ぎていた。もうすぐ芹澤馨がやってくる頃だった。

 それまで自分ひとりでこの絵に向き合わなければならないのかと、思うと藤田は男の動く指先に握られた黒コンテの先を見つめてひとつ深い感嘆の息をついた。

 その溜息に男は藤田の方を振り返った。短く切られた髪と太い眉毛、そして人懐っこいその大きな目が藤田を見て微笑んだ。

 藤田もその目を見て微笑みを返した。

「立花さん、素晴らしいデッサンですね」

 藤田は絵とモチーフを見比べながら立花に言った。

 デッサン室には誰も居なかった。

 今日は立花の頼みでデッサン室を貸し切って、彼のために静物を描くための時間を藤田は用意していた。

 立花は赤色に染めた細身のジーンズを履いた足を組んで、握り締めたコンテをテーブルの上に置くと指を鳴らした。

「藤田君、恥ずかしいね。そんなことを言われると。僕のデッサンはまだまだ亡くなった島先生は勿論、まだ君にも到底及ばないだろうからね」

「いえ、そんなことはないですよ。感性は経験を必要としない、そしてそれを求めない、島先生の言葉です。僕は立花さんの絵を見る度に先生の言葉通りだと思うのです。いつも拝見していると本当に何故こうした線の組み合わせが、見る人の心の深部に繋がるのかと思うのです」

 藤田はそう言うと給湯室に行き、二つのコップにコーヒーを注いで戻ってきた。

 立花は奥の小さな一室にいた。そこは窓があり、研究生達の絵がかけられている居間だった。

 立花はその部屋に入ったのは初めてだった。そして絵を見ていた。藤田はカップを立花に渡した。

「ありがとう」立花の透き通る太い声が居間に響いた。

 暫く無言の時間がふたりの間を流れた。

 時折風が吹いては画用紙の隅をすり抜けてゆく。立花は壁に掛けられた絵を眺めた。

 木枠の額にはめられた絵を一枚一枚と丁寧に視線で追いかけていった。

 裸婦があった。

 薄くぼやけたスフマートの様な輪郭に包まれた絵だった。立花は立ち上がり、その絵に近づいた。

 サインが在った。

“TEIJIROU SIMA”

 島悌二郎の絵だった。

 この島洋画研究所の所長でもあり、戦後の日本美術界でルネサンス時代の様式を取り入れた独自の画風で活躍している画家だった。立花にとって島悌二郎は同郷の会津の先輩だった。

 立花は島悌二郎を古くから知っていた。思えば、自分の青春時代にこの先生と出会わなければ自分の今は無かったと言っても良かった。

 立花は、徐に藤田に言った。

「藤田君、僕は若い頃、イタリアのジロイタリアという古い自転車レースに出たいと思って日々自転車を乗っていた。ある日峠を下っていたところバランスを崩してしまい剥き出しの山肌に叩きつけられた。起き上がろうとしたが、起き上がれない。足の骨が折れたことは、直ぐ分かった。それだけでなく、肩の鎖骨が折れて皮膚を突き破っていた。誰も通らないこの山道で、僕は倒れたまま空を見て、このまま誰も通らなければ終わりだと思った。ジロイタリアどころじゃ無い、人生にもこんな結末があるのかと僕は観念した」

 立花は目を細め目の前にある裸婦を見つめた。藤田は黙って聞いていた。

「空を見つめていると、遠くから車が近づく音がした。車の運転手は倒れている僕を見つけて、大丈夫かと声をかけた。助手席からまた別の男が降りてきて、二人で僕を車の後部座席に運んだ。運転手の人が島先生で、助手席から降りてきた人が滝次郎先生だった。そして二人共僕を乗せて病院へと向かった」

「そんなことがあったのですか?」

 藤田は飲みかけたコーヒーカップから唇を離して、驚いた表情をして立花を見た。

「そうなのだよ、でもね、その後が凄いのだけど。それから二人共僕を乗せて峠を進み続けた。ある曲がり角の所を抜けると林の木立が切れてとても素晴らしい風景が見えた。痛みをこらえて車に横たわる僕の目から見ても美しい光景だと思った。そしたら先生達が僕の方を振りかえり、こう言った」

 立花はニヤリと笑った。

「ここで絵を描くので、院に行くのは暫く待って欲しい、とね」

 立花は目の前の絵から視線を外して藤田の方を見て豪快に笑った。「それはすごいですね」

 藤田もつられるように笑った。

「全く、本当にこのふたりは本物の画家なのだなと思ったよ。でも藤田君、僕はこの時生まれ変わったのだ。自転車レースに出るというという自分の青春の夢がふたりの先生の言葉で切り裂かれて、その切れ間から新しい自分を再生させられたのだ。その時、僕はこんなに気が狂うほどの絵というものは何なのだろうと思って歩きだしたのだ」

 藤田はその言葉を聞きながら、まるで自分が先程絵を見て感じたことと同じだと思った。

(引き裂かれた空間から生まれてくる再生という生命力)

 藤田は心の中で呟いた。

 立花は次に横の裸婦の絵を見た。左下に滝次郎と日本語でサインが在った。

「滝先生だね。青い生命、Le vie en blueだ。青いパステルで描かれた美しい一枚だ。戦後の美術界の異端児と皆は言うけど、僕には先生のことをそういう輩こそ、異端児だね」

 立花はそして絵の線を指でなぞる様に動かすと、藤田に微笑んだ。

「僕もそう思いますよ」

 藤田はそう言って、立花に向かって微笑んだ。立花は少し離れた場所にある絵に向かって歩いた。

 そして立ち止まると、藤田の方を見た。

「藤田君の絵は、島先生の影響もあると思うけどルネサンス絵画と何だろう、東洋の精神世界・・禅というべきものと結びついたような世界観を感じる。非常に研究されて一分の隙もない哲学の理論と同じような力強さを持って見る人に訴えかけてくるよ」

 立花は藤田の絵に視線を戻した。

 藤田は立花の言葉を聞きながら、自分の今の研究の深部を覗かれたような感じがした。

 藤田は今ルネサンス、正確にはビザンチン絵画と東洋との融合を目指して取り組んでいた。

 街に例えれば、それは東洋の交わるイスタンブルのような匂いをもつ街になるだろう。光と影ではなく、人々の体温が交わるような絵画を藤田は目指していた。

 それを立花はそれとなく指摘した。恐るべき観察眼だと藤田は思った。

 藤田が立花に視線を戻すと彼は一枚の絵の前に立っていた。彼の背中が静かに影を背負って佇んでいた。

 それは絵が持つ光が立花を強く照らしだした為に出来ている影だった。

 立花が見ていた絵はそれほど大きなものでは無かった。小さいキャンバスに木炭で描かれてグリザイユのように白黒で明暗が捉えられていた。

 藤田は静かに立ち止まっている立花の側に近寄ると、一緒にその絵を見た。

 立花は頬が赤くなる興奮を抑えて藤田に言った。

「藤田君、誰なのです?この絵を描いたのは。ダ・ビンチのようでもあるし、フェルメールのような静謐な光も感じる。いや、スペインの伝統的な写実の奥に眠る知性・・いや、ピカソのよう計算された破壊と再生のようなアイデンティティーも感じる。いや、違うな・・そうしたものを統合して新しい何かこの世界の神秘とも言うべき誰も知らない秘密を僕達に教えてくれているような一枚だ」

「この絵を描いた人物に会いたいですか」

 藤田は立花に言った。

「会いたい」はっきりと立花は言った。

「立花さん、もうすぐ午後のお茶の時間です。今日、彼をここに呼んでいます。もうすぐ来ると思いますよ、あ、ほら呼び鈴が鳴りました。どうやら来たようですね」

 藤田は立花を促して居間を出た。すると扉を開けて一人の人物が入ってくるのが見えた。

 芹澤馨だった。



 遠くで子供たちの声が聞こえた。

 午後の公園で遊ぶ子供たちの華やいだ、喜びに満ちた声だった。藤田鼎の耳に幼い男の子の声高な笑い声が聞こえ、そして少女のはしゃぐ声が続く。

 姉弟だろうか、二人の声は柔らかな毛布に包まれた安心感に溢れ、それが温かみのある日差しの中で洋画研究所の庭の木立の緑の葉に反射して空へと弾かれてゆく。

 今度はその空へと弾かれた声を子供たちが手を伸ばして掴もうとしてはしゃぐ声を、母親の優しく子供たちに叱りつける声が追いかけてゆく。

 藤田はその声を聞きながら生き別れた娘の事を思った。

(きっと娘は僕が愛した彼女の様に美しい睫毛と瞳を持った娘として平戸の美しい海辺で元気に生きているだろう)

 藤田の心の側を風が吹いた。

 その風にふっと我に返ると、藤田は風を追って視線を動かした。視線の先に二人の人物がいた。

 モッズ風に躰を包み豪快に表情を変えていく立花豪と憂いのある眼差しで穏やかに微笑を浮かべる芹澤馨。

 藤田はそのふたりを見つめながら写真を撮りたいものだと思った。親指と人差し指で四角を作り、出来上がった指のファインダーの中にふたりを入れてみた。

 絵になる、そう思った。

 二人をお互いに紹介した後、藤田は席を外して別の部屋で椅子を引き寄せ窓枠に両肘を付きながら何となく聞こえてくる子供たちの声に物思いに耽っていた。だから今まで二人が何を話していたか分からなかった。

 立花が自分たちを指で囲む藤田を見て、微笑を含みながら声を掛けた。

「藤田君、何をしているの?」

 藤田は指を構えながら進み、二人に近づいてきた。

「いえ、ここに僕愛用のコニカミノルタがあれば良い一枚がきっと撮れただろうなと思ったところですよ」

 藤田の返事を聞いて、立花と芹澤の両人とも笑った。とても良い莞爾とした笑顔だった。

「彼は滝先生の所に通っているそうだね、いや、素晴らしい先生に師事しているなと言ったとこだったよ」

 芹澤薫は立花の言う言葉を聞いて、言った。

「いえ、立花さんこそ、先程のデッサンを見させていただきましたが、ほぼ独学でこれほどの芸術的な作品を描けるなんて、僕では立花さんの芸術の域には到底及ぶ事は出来ないと思います」

 芹澤の真摯な眼差しが立花の顔に注がれていく。

「ここまで到達するまでに日々、何れ程努力をすれば良いのか、それを思うとぞっと身震いがします。そして技術を吸収するための弛まぬ努力と忍耐、苦しみ、孤独、そして無限とも言える絵画への愛情と尊敬がなければ、それは到底出来ないことです」

 立花は頬を紅潮しながら、芹澤の言葉を聞いていた。

「僕も、そう思います」

 藤田も芹澤の言葉に続いて言った。

 その言葉を遮るように立花は片手を上げて手を振った。

「とんでもないことだよ、この僕こそ君達には到底及びもつかないさ。藤田君の異なる文化を融合させて古き先人たちが残したものを再び蘇らせ、僕達にその新しい発見をさせる驚きを持つ絵画、そして芹澤君の影の中に潜む真実を照らし出すような神秘の光りの絵画、そのどれもが僕が今まで出会った中でとても素晴らしいものだ。そして偉大な島悌二郎と滝次郎という二人の愛すべき弟子。僕にとっては羨ましい」

 立花は続けて話し続けた。

「僕は大学を卒業後、大きな外資系商社に就職した。そこで中南米を始めとして北アフリカ、イスラム諸国、欧州等様々な国々を歩いた。僕は最初から画家では無かった。画家になりたいと思ったが、その前に自分が知る世界を体験し、そして学び、知るべきだと思った。僕は行く国々の絵画を見てり、時間のある限り自分が歩いた世界で見たものを描いた。そして或る日、日本へ帰国した。きっかけは島先生の死だった。自分の自転車事故以来、先生と時折手紙のやり取りをさせていただいていた。手紙に僕が描いた絵を差し込んでね。最後に先生から届いた手紙は病室からの手紙だった。その手紙に一枚の絵が在った。それは僕の絵を先生がもう一度描き直したものだった。先生は僕の絵をこのようにもう一度描くことは今まで無かった、だけどそれをしてくれた。それは、先生のたった一度だけの僕への教えだった。独学で絵を学ぶ僕への生涯一度だけの教えだった。先生が描いたその絵には、僕がこれから先も学ばなければならないことが沢山詰まっていた。僕はまだ、まだそれに追いつかない。だから僕の頭の中にその先生の絵がいつまでも残っている」

 立花はそう言って、二人の顔を見て微笑した。

 そして片手を上げて、人差し指を軽く額に触れさせると、素早く直角に腕を振り下ろした。

 小さな風が起きた。

「僕は、切り裂かなければならない」

 立花は、短く言った。芹澤がその言葉に反芻した。

「切り裂く?のですか」

 立花は言った。

「そう、先生は僕に一枚の素晴らしい絵画を残した。先生の絵は僕へのメッセージなのかもしれない。独学で進む僕に先生は超えられるなら超えてみろという、超えなければそこで死ぬが良いという、それは野獣達の世界で強い種だけが残るというシンプルで当たり前の事を、僕に残してくれた。先生の実家は戊辰の頃、幕府と共に戦った侍の一族だったから、その絵から受けたメッセージはまるで武士道の奥に潜む静謐な殺気を含んでいたよ。身震いした。しかしその震えから僕は立ち上がり、それに向き合った。だから僕はその先生の肉体とも言うべき絵を切り裂かなければならないと思った。先人の偉大なものを野獣の爪で切り裂いて、その先を行かなければならないと」


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