キョショクのシキ
藍染三月
第一章
虚飾の式1
片羽が
日頃から人気のない四階の女子トイレへ、慣れた足取りで踏み込んだ私は、初めて見る顔に目を奪われていた。室内光の明かりはなく、奥の窓から差し込む陽光が艶やかな後ろ髪を照らす。長く真っ直ぐな黒髪を振り乱してから前を向いた横顔は、あまりに綺麗だった。
蒼白の顔色も、苦しげに寄せられた柳の眉も、何かを恨むような鋭い眼も、形の良い唇から顎へと伝っている唾液さえ、私には美しく見えた。
闖入者に気付いた彼女は後目で私を見たが、すぐ興味をなくしたように正面へ向き直る。寂しげな色を宿した虹彩を長い睫毛で隠し、目を伏せた彼女は手にしていた卵焼きを口に含んだ。遠目で見ても分かるほど乾ききっている花唇が、隙間を閉ざす。数度咀嚼をして喉を上下させると、高く持ち上げた顎を数秒も経たぬうちに落としていた。
思えば、口端から零れていた唾液は嘔吐によるものだったのだろう。私が訪れる前にも一度、飲み込めなかった食べ物を吐き出していたのだろう。
うつくしい少女は洗面台に手を突いて、泣き叫ぶように胃の内容物を吐き出した。
(一)
「
陰口が放たれたのは、私が教室を後にして扉を閉めた直後のことだ。わざと聞こえるように言っているのでは、なんて考えてしまって、喉の奥がつんと痛む。
写真すら見せてくれないもんね、と笑い合う三人組のもとに、昼休みが終わったら戻らなければならない。けれどこのまま早退したくなる。必死に作った『
――馬鹿みたい。あんたらの期待に応えてやってるだけよ。
吐き出せない本音を唇の裏に吐き捨てて、私は爪先を階段の方へ向けた。
集団は面倒くさい。群れを嫌って一人でいれば可哀想と馬鹿にされ、どうにか群れを作ってもそこから離れれば笑い話の種にされる。私のグループは傍から見れば仲良し四人組だし、その中で一番権力があるのは私なのに、それでも陰口を叩かれるのだから嫌になる。
だけど人なんてそんなものだ。他人を笑って味方を増やしたいだけ。私は他人を大声で笑えるほど、自分に自信なんてないけれど。
立ち入り禁止、と書かれた札が括られているロープを素知らぬ顔で跨いで、私は四階へ続く階段を上った。靴音を控えめに響かせながら鞄から手鏡を取り出し、やや乱れていた茶色い前髪を額に撫で付ける。
眉の高さで切り揃えられた前髪は、クラスメートに可愛いと言われたし、今の流行りだというから乗っかってみたものの、私には似合わない。ぱっつんの前髪が似合うなんて、化粧をしなくても可愛い女の子くらいだと私は思う。しかし他の子を見てもそうは思わないから、自分の顔が嫌いなだけかもしれない。毎朝可愛くなるよう気合を入れて化粧をしたところで、可愛くなんてならないのだ。
私が美人だったなら。
惨めな妄想を思い描いて瞬きをすると、瞼の裏に家族の顔が浮かんだ。ふ、と吹き出した息は自嘲的だった。
上履きが、誰もいない四階の廊下にカツンと高い音を染み込ませる。使われていない空き教室を通り過ぎて、鞄に手鏡を仕舞い込んだ。偽りの彼氏と通話をしながら昼食を食べる為に、私は行き慣れた女子トイレに顔を覗かせる。勿論そこには誰もいない、はずだった。
何年か前に飛び降り自殺をした生徒がいたとかで、屋上はおろか、四階にすら立ち入ることが出来なくなっているのだ。人目を盗み、見付かる不安を押さえ込み、ロープを飛び越えてまで四階に来る生徒なんて、私の他にいないと思っていた。
洗面台に両手を突いていた女子生徒が、腰まで伸びた長い髪を揺らして顔を上げる。私の姿を視界の端で捉えたのだろう、彼女は一度だけこちらに顔を向けた。
本当に、一度だけだ。一秒にも満たない、短い時間の対峙だった。それなのに私の脳に焼き付いた美貌が、この目を瞠らせていく。俯いた先を睨むような横顔だって美しい。テレビや雑誌で話題になっている芸能人が霞むほど、綺麗な女の子だった。
きょとんとしたまま立ち尽くしている私の前で、彼女は事も無げに食事を続けた。ここにいる私の存在なんて知らないような顔で、嘔吐した。
一瞬、何が起きたのかわからなくなる。苦しげに吐出していく様子をしばし眺め、ようやく状況を理解した。
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですかっ?」
肩から提げていた鞄をトイレの端に投げ捨て、私は慌てて彼女に駆け寄った。咳き込む背中を摩っていれば、蛇口から水を出して口元を拭った彼女が、屈めていた上半身を持ち上げる。私よりも少し背が高くてスタイルまで良いのか、と思っていた私に、彼女は力なく笑った。
「すみません、いつものことなので、大丈夫です」
「え、いや、それ大丈夫じゃ……」
「嫌なものを見せちゃって、本当すみません。人が来るなんて思ってなかったし……」
申し訳なさそうに微笑する彼女に、なんだか私の方が申し訳なくなり、こちらこそごめんなさい、と零したけれど、動揺だらけのその声は小さすぎて届かなかったかもしれない。彼女は白く細い手で、洗面台上の弁当箱を回収する。閉じられていくそれを見て、思わず声を上げてしまった。
「えっ、食べないの? ……ですか?」
友達みたいに言ってしまってから付け加えた敬語が、みっともなかった。恥ずかしさで顔が熱くなっていく。頬を掻いて他所を向いていたら、彼女が「上履き」と一言零した。
「緑だから、同じ学年だね」
ハッとして、私も足元を見やる。ペンで星を描いてデコレーションされている私の上履きと、綺麗な白が新品じみている彼女の上履きは、確かに同じく緑色のゴムに縁取られていた。
私はまだ一年生だから、知らない人は上級生だと思うことにしていたが、彼女の言う通り同学年だったようだ。
「僕はもう要らないから、後で捨てようかなと思ったんだけど、食べたい?」
洗面台に寄りかかって、くす、と笑った彼女が弁当箱を差し出してくる。涼し気な美少女が紡いだ声は少し中性的で、綺麗で、だからこそ聞き流してしまったのだが、自分のことを僕なんて言う女の子は珍しい。高校生になってからは男子でもあまり見かけないかもしれない。
けれど初対面でそれを指摘するのも失礼かと思い、私は余計なことを喉の奥へ流して弁当箱に触れた。
「勿体ないから、もらいます」
「敬語じゃなくて良いんだよ?」
「あ、……じゃあ、うん、もらう」
私は隅に置いていた鞄を引き寄せてからトイレの床に座り込む。随分掃除もされていないだろうし、綺麗ではないと思うけれど、目に見えて汚れているわけではないから気にしない。鞄からコンビニで買ったおにぎり一つを取り出し、頂いた弁当の箱を開ける。中身はほとんど減っておらず、唐揚げも野菜炒めもポテトサラダも美味しそうだった。
唐揚げを指で摘もうとしたら、視界に箸が差し出される。
「使って。口付けてないから」
「あ、ありがと」
私が食べ始めても、正面に立つ彼女は移動しない。食べている姿を見られているかもと考えたら照れくさくなる。沈黙もなんだか気まずくて、唐揚げを飲み込んだ私は顔を上げた。腕組みをしてトイレの入口の方を見つめていた瞳がこちらを向く。
「どうかした?」
「えっ、と、あなた、名前とクラスは? 私四組の式野聖って言うんだけど」
「しきの……」
私の苗字を繰り返し、彼女は口元に手を添えて笑った。何かおかしかっただろうか。首を傾けた私に「ごめんね」と謝罪が降ってくる。
「僕は一組のシキノ……
「えっ」
「漢字まで同じだったらすごいね」
「私は、入学式とかの式に、野原の野」
「そっか、なんだか頭が良さそうな名前だ。よろしく聖」
「そんなことないけど……よろしく」
もし、私の頭が良かったら。そう考えて気分が沈む。暗い空気を出したくなくて他のことを考えた。
彼女――志弦ほど綺麗な子がいたら噂になっていそうだし、名前も聞いたことがあるかも、と思ったが、クラスが離れているからか初めて耳にした。苗字の読み方が同じなら尚更、一度聞いたら記憶に残りそうなものだ。
「聖は、どうしてこんな所でご飯食べてるの?」
何気なく咥えていた箸と歯が擦れて、小さく音を立てる。無意識下で歯を噛み締めてしまっていた。些細な行動だったけれど、志弦はそれを認めていたのかもしれない。
「ごめん、聞くべきじゃなかったね」
「……ううん。誰にも言わないなら、教えてあげる」
「言えるような相手がそもそもいないよ」
可笑しそうに笑った志弦は、話し相手がいないことを気にしていない様子だった。友達がいないのか、と問うことはなんとなく出来ない。そう、と相槌だけ打って、私はおにぎりを一口かじった。
「彼氏と通話しながらご飯食べるから、って言って、仲良しグループの子に見つからない場所で食べてるのよ」
「……つまり僕はお邪魔だったかな?」
「そうじゃない。彼氏なんて、本当はいないし。あの子達と食べたくないだけ」
「ふうん……」
吐息の余韻が空気に溶けて、気付くと私の手元にある箸だけが音を立てている。志弦は、それ以上深く踏み込もうとしなかった。おにぎりの残りを一口で頬張り、彼女の顔色を窺ってみた。
彼女の傾けられていた首が真っ直ぐになると、長い黒髪がさらりと揺れる。化粧なんかされていないのに形の良い眉。それを顰めた志弦が、軽く曲げた人差し指の側面を顎に押し当てる。悩むような息が漏らされている間も私が視線を送り続けていたら、彼女は両手を洗面台に突いて、肩から力を抜いた。
「……『 じゃあ僕と一緒にご飯食べる?』って言おうと思ったんだけど、食べられない僕が言うべきことじゃないよね」
苦笑を前に、私は戸惑った。気遣ってくれたことが単純に嬉しかったのに、食べられない、とはっきり口にした彼女に対して何を言えば良いのか分からなかった。気の利いた台詞は小さな脳から浮かび上がらず、しかし何も言えない情けなさから逃れるように質問を浴びせていた。
「志弦は、何も食べられないの? いつから? 大丈夫なの?」
「数ヶ月前から、かな。大丈夫。固形物を受け付けないだけだから。たまに食べられる時もあるし」
それだけでも、私からしたら充分深刻だ。私なんてコンビニで買ったおにぎり一つじゃ食べ足りないくらいなのに。
志弦は私から顔を逸らす。トイレの奥の窓を見つめているようで、しかしその視線は景色なんて映していなかった。明昼の陽射しを受けた長い睫毛の下で、仄暗い色が黒目に滲む。
「吐き出す度に思うんだ。この体は死にたがってるんだろうなって。だけど僕は――」
続けられた言葉は、とても小さく掠れていて、きっと窓が開いていたら私の耳にさえ届かなかった。志弦は多分、私には聞こえなかったと思ったはずだ。飄々とした片笑みの仮面を付け直して、おどけるように片手をひらひらと揺らす。
「やっぱり、なんでもないよ。食事時に変な空気にしてごめんね」
ううん、と、私は首を左右に振った。聞いてしまった言葉を聞き返すには、出会ったばかりである私達の距離が遠かった。
――絶対に彼女を殺してやらない。
志弦が、触れたら壊れてしまいそうな声で落としたモノ。それが何を意味しているのか私にはよく分からない。それでも、決意の色で塗られた言葉から、彼女が現状と戦っていることを察せられた。
声のかけ方に困って、私は思い出したように自身の鞄を漁った。取り出したのはマスカット味のゼリー飲料だ。それを志弦へ突き付ける。
「コレ、もし良かったら、食べて。栄養はおにぎり一個分だから」
真剣な顔で、受け取れと訴える私を、志弦が暫く目を丸くして見ていた。細腕がこちらに伸ばされる。ゼリーを受け取った彼女は、とても綺麗に頬を緩ませていく。
「ありがとう。ゼリーなら食べられるかも」
「無理だったら、捨てて良いから。そ、それと!」
パックの蓋を捻っている彼女に箸の先を向けた私は、見つめ合うのが恥ずかしくなって床を見る。言いたい言葉は頭の中で何度も繰り返されているのに、声を乗せられない。
思えば、自分から誰かを誘うのは、これまでなかったかもしれない。ふう、と息を吸い込んで、私は、空になった弁当箱を志弦の代わりにして凝視した。
「目の前で吐かれたって引いたりしないし、一人でご飯食べたってつまらないから、あなたさえ良ければ、お昼、付き合ってよ」
志弦が今どんな顔をしているのか、見ることが出来ない。断られた時のことを考えると走り去りたくなる。
睨み付けた床の上で志弦の影が揺らめいた。遠かったそれが近付いて、綺麗な上履きが数度音を立てる。
「良かった。聖が良いなら、別の場所を探さずに済むよ」
首を伸ばして前を向くと、志弦が私に手を差し伸べていた。これからよろしく、という意味が込められているのだと判断し、そこに自身の右手を重ねる。私の手と合わせられたことで、彼女の肌の白さや指の細さが際立つ。羨ましい、なんて思いながら握手をしたら、どうしてか笑われた。
「な、なによ、私と一緒に食べられるのが嬉しくて笑ってるの?」
「違うよ、まぁ嬉しいけど。弁当箱回収しようと思ったら、握手されたから」
「……っ紛らわしいことしないで。今のタイミングで手を出されたら握手かと思うでしょ」
照れ隠しに志弦の手を振り払い、私は弁当箱を押し返した。
「というか、別の場所を探さずに済むって?」
「ん? ああ……これまでは三階のトイレで食べてたんだけど、吐いてるのを生徒に気付かれる度に教師を呼ばれてね。面倒くさいから、人目につかなくて流し台がある所で食べることにしてみたんだよ」
「ふうん……良かったわね。ここは、私しか来ないと思う」
それは良かった、という志弦の呟きに予鈴が重なった。人と話しながら食べるなんて久しぶりで、時間の流れがとても早く感じた。私は鞄を肩にかけて立ち上がり、尻目で彼女を見る。目が合うと、彼女は軽く手を振ってきた。
「それじゃ、またね聖」
「教室、戻らないの?」
「戻るよ、君が戻った後でね」
私と共にいるところを見たくない、という意図があるようにも受け取れるし、私が志弦といるところを見られたくないかも、と気遣っているようにも受け取れる。恐らく後者だ。
だから私は、ありがとうと呟いた。志弦が手を洗うために流した水の音で、溶かされてしまったかもしれないけれど。
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