言わないよ
岸辺蟹
言わないよ
遠くで、笑う。
よく笑う、背中。
それを遠くで微笑ましく思い温かさに包まれていく。
それでちょうどいいのだと思う。
冷え込んだ風が吹き込むが、木製のまな板がまだ乾いていないので窓は閉めない。代わりに熱々の珈琲をマグに注いで両手で持つ。
コンプレックスの身体の割に大きい手でもピッタリくるサイズを長い間探していて、ようやくこの間見つけた新品。他のマグと違って中に茶渋がこびり付いていないので食器棚の中で良く目立つ。
口に出して言ってしまったら、窒息死しそうなぬるい昼下がりの幸せに浸り溺れる。
窒息。窒息!
そうだ、早く絞めてもらわなければならない。
熱すぎて結局口をつけれずにいた珈琲を置き彼の元に向かう。途中呼び止められた気がしたが振り返る気力もなく、重たい脚を振り子のように前に前に進める。
遠くで笑っていた背中が近い、猫背で温かそうで優しそうな細い背中に触れられる程近い。
僕は。僕は欲求に勝てず彼の両肩甲骨の間の窪みに顔を埋め、腕を回す。手の甲に剃り残しのヒゲが当たってチクチクする。
重い。とか口では言いつつも手をはらわない彼。これを、求めていた。そもそも望んだ関係じゃないから、こっちから口に出したら負けな気がするから何を求めていたのかは口には出さない。だが、彼も大概である。
そんな事を考えていたら口元が綻んでいた。何を笑ってんだ。と怒り気味な声がして、顔が見えなくても伝わるものかと驚いていると、浅く溜め息が洩れたのでやっぱりと驚く。嬉しい。
…そんなことしている場合ではない、早く君に追いつかなければならない、その為に絞めてもらわなければならない。
腕を解き、頭を右へずらし彼の脇から頭を出してそのまま仰向けに頭を彼の太腿へ乗せた。
膝枕だね。と言ったら、こちらを睨み眉を顰めて僕の両頬を片手でむにっとし笑う。
そんな彼の手を掴む。僕よりも大きくゴツゴツした文字通りな無骨な。掴んだ手を落とさないように下へずらす。
首へ。押し付けた。
驚いて目を見張る彼を僕は宥めるつもりで微笑んだ。
ああ、そうだよ。分かっているでしょう?
僕の左手は彼のもう片方の手を欲し動く。お願いだからこのまま。と彼の手に言い掛けているつもりで。
そうして彼の両手が僕の首元にあって、彼は僕の身体の上に居て、首で押し付けられる形になっていた。
そして、いつの間にか僕の顔が濡れていた。無論、僕が泣いたわけではない、彼だ。彼は僕の瞳を見つめていた。
見つめ返すと可哀想になる程必死な形相で泣いていた。彼の涙が僕の顔を濡らしていたのだ。
このタイミングでこんなにも興奮するプレイがあると気がつかせないでくれよと思い、また微笑んだ。
僕の微笑みに動揺し首元の手が緩む、不安に思い彼の顔を見た。
そこには、そう。不安と恐怖と愛おしさと死に壊れかけた彼の顔があった。そう。そう。そうなんだよ。この顔。この顔を………。前にも見たんだ。
彼は、いない
目を、覚ます。
彼はいない
夢から目を覚ましたくはないが、これが夢だと気がついてしまった以上覚めなくてはならない。
彼がいない世界へ
猛烈な、なんとも言えない不快感に後ろを引っ張られながらも、身体を起こす。
彼はいない
そう、そうだよ。彼はいない。幾度となく言い聞かせた言葉を繰り返す。
くらくらする頭に昨日の記憶が現実がじわじわ戻ってきた。昨日、彼の通夜に行った。
通夜は彼と凄く親しかった友人たちに付き添われ行った、平日の真ん中だったので休みを取ってまで出席できたのはこいつらだけだった。
来たはいいが僕には、まるで場違いだった。ここにいる全員が彼を知り、彼の思い出に泣いているのだ、僕には涙を流すような思い出は見つからなかった。思えば通夜に出席させていただくほど彼のことを知らなかった。8年、丸8年。彼と過ごした。
おそらく一緒に来た友人たちの中でも一緒に居た時間で考えれば僕が一番だろう。それでも、彼の事をこの中で一番知らないのは僕で、痛感すればするほど一層僕の存在を場違いにさせた。
3人兄弟の真ん中であったこと。父親が早くに亡くなっていること。癌家系で5歳のとき大きな手術をしたこと。
居るだけで色々な声が耳に入り僕の知らない彼が僕を荒らす。
ふわふわする頭をもたげないよう踏ん張りながらやり過ごす。
友人の1人に呼ばれ向かうと、彼の母親が居た。
初めてちゃんと挨拶をした。
彼には生前長い事お世話になっていたこと、ちゃんとしたご挨拶がこういう形になってしまったこと。
彼の母は、僕の若さに驚いて、疲れた目で微笑んでくれた。その顔があまりにも似ていて何も言えなくなってしまった。
帰り際、彼の母は僕達に、あんなフラフラした子に付き合ってくれてありがとう。と告げた。やはり何も言えず、深く頭を下げてから帰った。どう帰って来たかはまるで覚えてはないが。気がついたら見慣れたベッドの上だったのでそのまま着替えもせずに寝んだった。色々な罪悪感に苛まれながら。
起き上がりまず思ったのは、シャワーを浴びよう。人として生きている、生きるのなら最低限度の生活をおくる。死生観の強かった彼の口癖だ。彼の言葉は僕にとって本当になるから、本当だから守らなきゃならない。ということだ、くだらないが今の僕にはとても大事な言葉だ。
最悪な頭痛を抱えながらシャワーを浴びると、少し視界がスッキリした気がした。
葬儀の時間は何時だっただろうかと髪を乾かしながら思った。そもそも今が何時だっただろうか、だが時計を見るのも億劫で時間を確認するのは諦めた。
喪服に着替え散歩にでも出るかのように頭を空っぽにして外に出たが、薄ら寒い風がジャケットの袖を通り抜けて、路地裏の不細工で愛らしいにゃんこがこちらをを睨みつけて、このまま進むのを拒まれているかのようで少し哀しく思う。僕は彼の身体に別れを告げなきゃならないんだよ、そんな顔で邪魔しないでおくれよ。
電車を乗り継ぎ向かう道すがら、黒い格好の知った顔がちらほら目に付きはしたが話しかけるのも億劫でそのまま進む。
ようやく辿り着いた頃、時間は10時過ぎで後ろの席に居た昨日の友人達によれば始まってすぐらしい。
友人の一人が、みんなお前の心配してるぞ。と言う。
別の友人もまた、お前あいつにべったりだったからな。と知った口をきく。否定はしない、何だったら過去形に言うのはよしていただきたいものだ。
そんな事を思っていたら、おい。と頭上からぶっきらぼうな声がした。ああ。と返事をし見上げると、そこには大好きな友人の顔があった。
長い髪に顔を半分隠してはいるが明らかに僕に対して不機嫌を丸出しだった。
彼女は隣に座っていた友人を後ろに追いやり髪を邪魔そうに後ろに払いながら腰をかけた。
「大丈夫か?」
「何が?」
僕は聞き返す、至って本心だ。
「何がって、そりゃ…」
「大丈夫かと言われれば大丈夫だよ」
彼女の言葉も本当になるから。
「そうじゃねぇよ」
「知ってた」
「ならなんで」
「…。葬式はね、死んだ相手を忘れる為のものだから。だから僕には関係が無いんだよ、だからこの場は平気」
「どういうこっちゃ…」
彼女の西混じりの声が半ば呆れ気味に、半ば怒り気味に聞こえ出したので僕は慌てて説明する。
「僕の母がよく言っているんだよ、死んだ人を忘れる為に葬式はするもんだって、自分の母の葬式のときもね。だから心置きなく忘れる為に、悔いが残らないように泣くんだって。僕もそう思ってるよ。じゃあ、彼の為に1ミリも泣けない僕は?頭では分かっていても身体が、感覚が彼の死を理解できない僕は?何を忘れればいい?僕の中の彼は死んでなんかいないんだよ、僕の中で彼は生きているんだよ。僕は一生彼の存在に呪縛に縛られて逃れられずに生きていかなきゃならないのに、何を忘れればいい?正直彼が死んだ事自体には何も思っていないんだよ、ただ、彼の存在が、物理的な実体が無いという事実に不安に喰らい尽くされそうなだけなんだ。内に内に彼が居て、内から内から不安が僕の存在を喰いに来るんだ少しずつ少しずつ。それがこの先とてつもなく、怖いだけだよ」
「なんだよ…それ…」
「さぁね。でもこんな想いにさせるぐらいなら、あのとき殺してくれればよかったんだ。」
「あのときって…なんだよ…」
「死ぬね、彼が死ぬ前日にね、教えられてたんだよ、もう。って。ほら彼、早死しそうだっただろ?本人も分かってたのか前日にして悟ったみたいでさ。だから言い返してやったんだ、それなら僕も殺してくれよ。って。首をね絞めてもらったんだ、彼の手で直接。惜しかったよ、でも優しいから彼、優しくて残酷だから僕を殺せなかった。それどころか僕に生きろと言ったんだよ。だから僕は生き続けなきゃならない、彼にも分かっていたはずなのに、僕は生きなきゃならない、そういう言葉に囚われて。こんな、こんなに苦しい事他にあると思う?後を追えない、追えるかも分からないけど、少なくともこの苦しみから逃れる唯一の方法を取らせてくれないんだよ。それがどんなに最悪な事か分かるかい?わかっているんだよ、彼はもういない、それなのに…。殺してくれればよかったんだ」
口に出すと、思そんなことかと思った。そして分かった、大事なのはそこに至るまでの過程であると。思いであると。
結果だけ伝えても分かってもらえないのかもしれないな、それは哀しいな。
「そんな…なにが…なにがお前をそこまでさせるんだよ!」
肩を震わせてこの場も配慮せず声を荒げる彼女の目を見据えて僕は言った。
「言わないよ」
愛だなんて。
言わないよ 岸辺蟹 @kisibe_kani
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