40.男は無力だ

 頭の中が真っ白になる。俺が硬直している間にも、セリスはお腹を抱え、苦しそうにうめき声をあげていた。


「お、おい。急にどうしたんだよ?」


「…………産まれそうなんだってよ」


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」


 ギーが大声を上げるが、俺の脳みそはまだ止まったままだ。


「ママー! 大丈夫!? しっかりして!!」


 俺の腕から飛び出したアルカが、必死に声をかけている。対する俺は未だにパニック状態。

 えーっと、えと……ど、どうしたらいいんだ? ど、どこに行けばいいんだ……!? セ、セリスの身体が……あ、赤ちゃんもやばい……!! こ、こここここのままだと二人共……!!


「……落ち着け……兄弟……」


 低音のダンディボイスで少しだけ落ち着きを取り戻す。ボーウィッドは俺の目を見てゆっくり頷くと、俺の左腕に絡みついているエルザ先輩を引きはがした。


「あぁん♡ くろぽぉん! ボーちゃんがいじめるぅ」


「……エルザは預かる……兄弟は早くセリスを連れていけ……」


「お、おう。 あ、ありがとう」


「お前ちゃんと病院に……!!」


 セリスをお姫様抱っこしながら超特急で転移魔法陣を組んだ俺は、ギーの言葉を聞くことなくアルカを連れてさっさと転移した。


「え? パパ……ここって……!!」


 転移先がどこかすぐに理解したアルカが思わず目を丸くする。アルカが驚くのも無理はない。だってここは、アルカと同じ悪魔族のメフィストが静かに暮らす離れ里。おおよそ出産できる環境が整っている場所じゃない。

 だけど、気づいたらここに転移していた。魔族の村に住む変わった人間達を頼るために。

 俺はセリスを抱えたまま、躊躇なく家の扉を開ける。そこにいたのはレックスの両親であるティラノさんとアンヌさんだった。二人共、突然の来訪に驚きを隠せない様子。


「突然どうした? セリスちゃんにアルカまで連れて?」


「セ、セリスが……!!」


 事情を説明しようとしたのに、なんでか唇が震えて言葉が出て来なかった。そんな俺と、俺の腕の中で苦しんでいるセリスを見て、全てを察したアンヌさんがティラノさんに指示を飛ばす。


「あなた、隣の家にいるエマをすぐに呼んできてちょうだい。さぁ、セリスさん。こちらにいらっしゃい」


 アンヌさんが手早く俺達を招き入れてくれた。心配そうにセリスを見ているアルカが、アンヌさんに話しかける。


「アンヌおばあちゃん……ママは大丈夫?」


「大丈夫よ、アルカ。心配しないで」


 温かな笑みを受けて、アルカも少しだけ表情が明るくなった。


「クロムウェル。ここにセリスさんを寝かして」


「…………」


「クロムウェル!!」


「は、はい!!」


 アンヌさんの大声で自分の事だと気づいた俺は慌ててセリスをベッドに寝かした。自分の名前を呼ばれていたのはわかっていたのに、自分じゃないと思っちまった。どうかしてる。目の前で尋常じゃない苦しみ方をしているセリスの事が気になって、他の事が全然頭に入らない。


 そんな俺を見て、アンヌさんが小さくため息を吐く。


「……人肌くらいの温度のお湯をタライにたっぷり入れて持ってきてちょうだい」


「お、お湯!? お湯だな!! お湯!! わ、わかった!! ま、まかせろ!!」


 苦しんでるセリスを助けるために力になりたい……!! お湯を用意すればいいなら、俺にだってできるぞ。コウスケとの戦いでかなりの魔力を使っちまったけど、そんなの関係ないだろ。ありったけの力で魔法陣を構築して……!!


「この、おバカ!!」


「あいてっ!!」


 極大の魔法陣を描いていたら、後ろから当然殴られた。振り返ると、俺の頭に振り下ろしたであろう巨大なタライを持ったエマおばさんが息を荒くしながら立っている。


「そんなでかい魔法陣なんか組成して、この家どころかこの村を水浸しにするつもり!? アルカ!! このタライにお湯を入れて!!」


「う、うん! わかったの!!」


 エマおばさんに言われ、アルカが即座に魔法陣を組成した。いい具合にお湯が溜まったところで、タライをセリスの足元に置く。


「バカクロムウェル!! あんたが落ち着かないでどうするのっ!!」


「エ、エマおばさん……俺……俺はどうしたら……?」


 こんなにも不安を感じた事は生まれてから一度もなかった。ただ、怖い。怖くてたまらない。苦しむセリスを見ていると、何かに押しつぶされそうになる。どうしたらいいのかわからない。


「ここから頑張るのはセリスさんよ! あんたに出来る事は一つ! 彼女が必死に頑張る姿をその目に焼き付け、一生忘れないでいる事だけよ!!」


「エマ! 綺麗なタオルをありったけ持ってきて!!」


「わかった!!」


 大急ぎでエマおばさんが部屋から出ていく。部屋の温度が低すぎる、とアンヌさんが暖炉に火をつけた。俺はトボトボと歩いていき、ベッドの横に置いてある椅子に腰を下ろす。


「…………クロ様…………」


 セリスが弱弱しい声でそう言いながら手を伸ばしてきた。ここまで弱っているセリスなんて見たことがない。俺はなりふり構わずセリスの手を握った。


「ママ!! 頑張って!!」


 セリスの手と、その手を握っている俺の手を包み込むように、アルカがギュッと両手で握る。その目からは大粒の涙がボロボロと零れていた。悲しいんじゃない。セリスの苦しみが伝わってくるから、涙が勝手に溢れてきちゃうんだ。


「うぅ……うっ……!!」


 苦悶くもんの表情を浮かべてうめき声を上げる。セリスの額から冷や汗が噴き出して止まらない。どうしよう、直視できない。見てるのが辛い。俺も涙が出そうになる。


「クロムウェル!! 目を逸らしちゃダメよ!! この子はあなたのためにも頑張ってるんだから!!」


 思わず顔を背けそうになった俺に、セリスの容態を確かめながらエマおばさんが言った。そうだ。今、俺に出来ることはセリスの事を見守ってやる事だけ。見てるのが辛い? ふざけんな! セリスの方が何千倍も辛い思いをしてるんだ!!


「セリス……頑張れ……!! 頑張ってくれ……!!」


「ママっ!! 負けないでっ!!」


「クロ……様……!! アル……カ……!!」


 力の限りセリスの手を握る。おい、クロムウェル・シューマン。お前は天下無敵の魔王軍指揮官なんだろ? 魔法陣なら誰にも負けないんだろ? だったら、そのパワーを一人奮闘している勇敢な女に分けてやってくれよ……! 新たな命を生み出すために決死の思いで戦っている強き女に、そのくだらねぇ力を全部注いでやってくれよ!! ぶっ倒れたってかまわない!! これから先、動けなくなってもいい!! それでセリスが少しでも楽になるのであれば……俺は……!!


 握った手に思いを込める。俺も……セリスと一緒に戦いたい……!!


 そして……。


「おぎゃぁぁぁぁ!!」


 訪れる福音。この世に生を与えられてから、これほど幸せな音色を聞いたことがあるだろうか?


「やったね、クロムウェル! 無事産まれたよ! 元気な男の子だ!」


「セリスさん……よく頑張ったわね」


 エマおばさんとアンヌさんが労いの言葉をかけてくれる。だが、俺の耳には全然届いていなかった。


 う、産まれた……? 俺の子が産まれた……? セリスは……戦い抜いたって事か……?


「…………クロ様」


 茫然自失な俺の名を、セリスがか細い声で呼んだ。


「私……頑張りました……」


 その瞬間、理性が崩壊する。決壊した「涙腺」というダムは、もう誰にも止めることはできない。


「ありがとう、セリス……ありがとう……!!」


 こんな幸福を与えてくれてありがとう。俺達の子を産んでくれてありがとう。


 そして、父さん母さん。こんなどうしようもない俺も子供を授かることができました。


 セリスの父さん母さん。あなた達のお子さんはとても強い女性に育ちました。


 こんな俺達を、産んでくれてありがとうございます。


 子供のように涙を流す俺をセリスは柔和な笑みを浮かべながら、静かに見つめていた。

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