29.この世界で最も怒らせてはいけない人物はクロでもセリスでもない

 賢王として名を馳せるオリバー・クレイモアは未曽有みぞうの危機に直面していた。いや、オリバーだけではない。その守りを固めている王都騎士団もまた、壊滅の危機に瀕していた。


「コンスタン、その様子だと……」


「えぇ。レックスは魔王を討伐するに至らなかったようです」


 オリバーの問いかけに、自身がまとっていた白い光が消えるのを確認しながらコンスタンは事務報告のように淡々と答える。だが、その内心は穏やかではなかった。将来有望な若い騎士を奪った残虐ざんぎゃくな魔族。そして、そんな危険な場所へ彼一人で行かせた自分に対し、激しいいきどおりを感じていた。


「レックスが……!? まさか、そんなっ!?」


「エルザ。戦場では心を乱したものから死んでいく。事実をありのままに受け入れ、次の一手を考えるのだ」


 動揺するエルザをコンスタンが冷静に諭す。歴戦の勇士である彼は、心と頭を完全に切り離す術を心得ていた。

 だが、魔族の激しい攻めをしのぎながら思考を巡らせたところで、名案など一つも思いつかない。そもそも、この戦いが始まってから苦境に立たされ続けていたのだ。そんなどす黒い濃霧の中で見えた一筋の光に賭けた結果、その光を失うことになった。今更、この状況を打開する策など思いつくはずもなかった。


「……万策尽きたか」


「父上!?」


 耳を疑うような父親の言葉に相手の攻撃を剣で受けながら、エルザはバッとその顔に目をやった。しかし、コンスタンの顔に諦めの色は全く浮かんでいない。


「だが、儂は剣をおろすことはしない! この身が引き裂かれようとも、命ある限り奴らの喉元に食らいついてやるぞ!!」


「……!! それでこそ私の父親ですっ!!」


 やはり、自分はたっとぶ相手を間違えていなかったようだ。コンスタン・グリンウェルこそ、騎士の中の騎士。自分が目標とする人物像なのだ。


「──流石は王都が誇る騎士団のトップだね! 魔族領こっちにスカウトしたいくらいだよ!」


 血生臭い戦場の空気とは遠く離れた暢気のんきな声がコンスタン達の鼓膜を震わせる。この場にいる全員が声のした方へと目を向けると、そこにはニコニコと笑っている美少年と、無表情の少女が静かに着地する姿があった。


「なっ……!?」


 現れた二人を見て、一番驚いていたのは国王であるオリバー。言葉を出そうとしても口がパクパクと動くだけで上手く話すことができない。


「ルシフェル殿!? アルカ殿!?」


「やぁ、コンスタン。久しぶりだね」


「…………」


 目を丸くしているコンスタンに、まるで街中で偶然会ったかのように軽い調子でルシフェルが挨拶をする。その笑顔を見ているだけで、ここが戦いの場であることを忘れさせるようだった。だが、アルカの方は何も答えずに顔を俯けている。


「な、なにゆえこのような場所に?」


「こんな物騒なところに来る理由なんて一つしかないでしょ? 助太刀に来たんだよ」


「そ、それはありがた……!!」


 この窮地において、まさに天の助けともいえるルシフェルの登場に感謝の意を伝えようとしたコンスタンであったが、その言葉は王の右手によって遮られた。


「ルシフェル殿、どうしてここへ来られたのだ?」


 その目は真剣そのもの。決して助けに来てくれた相手に向けるものではない。


「…………」


 ルシフェルも顔から笑みを消し、真面目な顔でオリバーの目を見つめる。彼の言わんとしていることを、ルシフェルは痛いほど理解していた。自分を助けに来たせいで、魔族の国が危機に陥るかもしれない。いくら人間を救うためとはいえ、それは一国の王として取るべき行動ではない。それを危惧して約束まで交わしたのだ。どんなことがあろうと、互いに助力に来てはならない、と。


「……なんでって決まってるでしょ?」


 その思いがわかっていてなお、ルシフェルはむじゃきに笑った。


「約束を破ってでもピンチには駆け付ける。それが友達ってものでしょ?」


 当然なことと言わんばかりに言い放ったルシフェルの言葉が、オリバーの胸に深く突き刺さる。こんなにも単純で魅力的な言葉を投げかけられてしまえば、オリバーは笑う他なかった。


「……やはり、ルシフェル殿には敵わないようだ」


「まだまだ負けるわけにはいかないよ。だって、僕は君よりもずっと長く生きているんだから」


 自分の国にいる学生と遜色ない容姿をしているが、相手は魔王。二百年を優に超える時を過ごしてきているのだ。敵わなくて当然なのかもしれない。


「……ルシフェル殿。どうか力を貸して欲しい」


「そのために来たんだもん。任せてよ」


 深々と頭を下げるオリバーに、ルシフェルが明るい声で答えた。そして、オリバーから視線を外すと、こちらを警戒するあまり動けないでいる魔族達に視線を移す。


「さて、と……このままだと少しまずいかな?」


 ちらりと横目でアルカを見たルシフェルが小さな声で言う。騎士と魔族が入り乱れているこの状況では、巻き添えを喰らって騎士達が全滅する可能性が極めて高かった。


「"そよ風の宅急便ブリーズリフト"」


 ルシフェルの組成した魔法陣から柔らかな風が吹き出した。その風は騎士だけを包み込み、その身体を優しく宙へと運ぶ。


「わっわっわ!!」


「な、なんだ!?」


 突然の事に騎士達が風に揺らめきながら慌てふためいた。同じようにふわふわと空を飛んでいるオリバーやコンスタンも困惑している。


「危ないから少し下がっていてね」


 ルシフェルが右手を振ると、浮遊していた者達全てが後方へと移動していった。近くに人間がいなくなったことを確認したルシフェルがアルカに声をかける。


「いいよ。好きなようにやっちゃって」


「……この人達は悪い人達なの?」


 ここに来てから一言も言葉を発しなかったアルカが、静かに口を開いた。


「うん。アルカのパパを傷つけた悪い人の仲間だよ。しかも、アルカの大好きなマリアやフローラにもひどい事をしようとしている」


 正確にはマリアやフローラを含めた人間に対してなのだが、そんな細かいことは説明する必要はない。大事なのは、目の前にいる者達がアルカが大切に思っている人達に危害を加えようとする悪者である、と言う事実だけ。


「そうなんだ……悪い人達なんだ……」


 ぽつりとささやくアルカ。その瞬間、とてつもない魔力がその小さな身体から溢れ出る。その規模はルシフェルですら冷や汗を流すレベルであった。


「あー……想像以上だね、これは」


 そう言いながら自分が逃がした人間達の前に強固な魔法障壁を張る。恐らく、多少距離を取っただけでは、何の意味もない。


「アルカの大切な人達を傷つける人は誰であろうと許さないの……!!」


 父親譲りの腕前で魔法陣を構築していく。常人がやっとの思いで組み上げる最上級魔法クアドラプルの魔法陣を目にもとまらぬ速さで七つ、空中に描き出した。それはクロが得意とする"七つの大罪セブンブリッジ"と同じ、四つの基本属性に加え雷と氷、そして、重力属性。


「……"お怒り天使の一撃エンジェルプレス"」


 アルカが魔法を唱えると、創り出された魔法陣から白く光り輝く巨大な天使が現れた。その手には羽が生えた可愛らしいハンマーが握られている。


「悪い人達はみんな……みんな……潰れちゃえぇぇぇぇぇぇ!!」


 アルカの絶叫に呼応して天使がゆっくりとハンマーを振り下ろした。それが地面に触れた瞬間、凄まじい閃光が辺りに発せられる。それは、ルシフェルにより後ろへと下がった騎士達ですら目を開けていられないほどの強烈な光であった。


 まぶた越しに光が消え失せたことを知覚した騎士達が急いでアルカ達の方へと目を向ける。そして、あまりの事に誰もが絶句した。


 先ほどまで魔族がひしめいていた場所に、立っているのはアルカとルシフェルだけ。それ以外は何もない。

 あれほどいた手強い魔族達が、年端もいかない少女の魔法により、一瞬で文字通り消し飛んでしまったのだ。


「……クロは怒るかもしれないけど、次期魔王様は決まりだね」


 引き攣った顔で笑いながらルシフェルが呟く。手加減を知らない子供を怒らせてはいけないという事を、この場にいる全員が身を持って体感したのであった。

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