第38話 秀吉

「二人ともごちそうさま! ……じゃなくて、お疲れ様!」


 退場門をくぐった所で、頬を上気させ、普段の彼女のそれよりも早口で、そう言ってタオルを差し出してくれた委員長の黒原さん。俺たちを推薦した委員長からしてみれば、狙い通りの結果に興奮したくもなるだろう。俺たちとしても、普段お世話になっている委員長の期待に沿えてなによりといったところだ。


「わざわざ持って来てくれたんだ。サンキュー、委員長。新司がハッスルするもんだから思ってた以上に濡れちゃって、おかげで中までグショグショだよ」


 俺はビショ濡れの服の裾を軽く絞り、水滴と一緒に愚痴をこぼすと、わざとらしく、しかめっ面を作って見せた。


「黒原さん、ありがとう。そういう光太だって、あそこはイク気満々だったよね?」


 新司が『お見通しだよ』と言わんばかりに、手を置いた肩越しに良い笑みを浮かべて返す。打てば響くと言うのか、こういう反応は気持ち良い。ついつい俺も表情を崩してしまう。


「まぁな」


「ブフォッ! ……ゴホゴホッ、ごめんなさい、ちょっと咳が。そう、そうね、私も思い切って飛び込んだのは正解だったと思うわ。それにっ、最後のプールがこの種目の最大の濡れ場……じゃなくて見せ場でもあったわけだし、おかげで応援席の盛り上がりも凄いことになっていたわよ」


 いつもは冷静沈着、クールビューティーな委員長が、さっきから微妙な言い間違えをしている。未だ興奮さめやらないといった様子で俺たちを見る委員長。受け取ったタオルで髪をわさわさと拭きながら、皆もそれくらい盛り上がってくれたのならズブ濡れになった甲斐があったと、俺は心地良い満足感に浸れていた。

 

「なんたって俺と新司は霧都のゴールデンコンビ、だしな」


「だね。それはそうと光太、とりあえず風邪をひかないように着替えようよ」


「あぁ、美亜が用意してくれてたみたいなんだけどな。遅刻しそうで焦ってたから家に忘れて来た」


「えっ、どうするの?」


「こんなもん、お天道様に当たっていたら乾くだろ。新司は早く着替えて来いよ」


「はぁ?! まったくもう……」


 新司に呆れ顔をされた上、おまけに溜め息まで吐かれてしまった。服がベタベタと体にくっ付いて気持ち悪いけど、まぁ、乾くまでは仕方がない。


「私、保健室で着替えさせてもらえるように頼んでくるけど、片泰くん、替えの服はどこ?」


「あ、教室のリュックの中なんだけど。もしかして、黒原さんが取って来てくれるの?」


「廊下をビタビタにするわけにはいかないでしょ? リュックごと持ってくるわね。それとも、素っ裸になって、教室までのランウェイを楽しみたいのかしら?」


「ごめんなさい、よろしくお願いします」


「はい、うけたまわりました。それから竹原くんには、誰か予備のタオルを持っていないか……って、どうやら必要なさそうね。片泰くん、保健室の外来用扉の前で待っててくれる?」


「わかった。それじゃあ行ってくるね、光太」


「あいよ、また後でな」


 何となく良い雰囲気の二人を見送り、委員長が会話を中断した際に一瞥いちべつした方向、そちらに振り返る。ふんわりと畳まれた、柔らかそうな水色のタオルを両手に乗せて、星奈が立っていた。


「光太、これを使って下さい」


「悪いな、星奈。ありがたく使わせてもらうよ」


 自分のタオルを首にかけ、畳まれたままの星奈のタオルを顔にあてがう。温かくて優しい肌触り。息を吸うと、星奈と同じ匂いがした。


「さてと、少しでも早く乾くように、服を一度脱いで絞った方が良いかな」


 そんな訳で、人気のない校舎脇へと移動して、服を脱ごうと手をかけたのだが――


「あの、星奈さん? 服を脱ぎたいんですけど」


 同行した星奈が、ガン見していた。


「はい、どうぞ」


「……」


 海に一緒に行ったことだし、なんなら裸で抱きしめちゃったわけだし、それくらいどうって事ないんだけど、何となく乙女の恥じらいと言いますか……いや、もちろん俺じゃなくて星奈のね。

 結局、今更かと考え直すと、抵抗するかのように張り付く服を引き抜いた。体操服をぞうきんのように絞ると、ボタボタと水滴が落ちていく。両肩の部分を持ってバサバサと振り、それからシワを伸ばすように両端を引っ張ってやる。ちょうど良い具合の木の枝があったので、一先ひとまずそこにかけておいた。続いて短パンに目をやる。当然、その下のパンツまでビッタビタだ。


「流石にパンツは、脱げないしなぁ」


「どうぞ」


「いや、星奈? どうぞって……」


 俺はズブ濡れのパンツを指して脱げないと言ったんだが、どうやら、星奈は短パンの事だと思ったようだ。


「大丈夫です、で見えないように隠しておきますから」


 ――どうやら、パンツを脱いでスッポンポンになる事だと正確に伝わっていたらしい。


 デッサンでもするように、星奈は親指を立てた右手を俺に向けている。その涼し気な瞳の焦点は親指これの先、俺の下半身の一部分に向けられている気がする。不服というか何というか、確かに濡れて縮こまってはいるが、親指大というのは過小評価に過ぎるんじゃなかろうか。それとも、妥当な遮蔽物と成りえるのだろうか。わからない。


「星奈、ある意味それは斬新な方法だけど、それって片目を瞑らないと丸見えだよね? 左右の目の死角を脳が補完して、完全に丸見えだよね? そしてこんな時のテンプレは両手で顔を覆って、広げられた指の隙間から星奈さんの瞳が丸見えですよっ! だからな。むしろそのポーズされてると、ドンマイって言われてるみたいで、無性に悲しくなると思うんですけど」


「そうですか。では、後ろを向いておきますのでどうぞ」


「後ろを向いたのは良いけど……どっから出したの? そのハンディカム」


「後学のために一切の妥協を許さない4K高画質、お気になさらずどうぞ」


 気にするわ、本当にどこに隠し持っていたんだか。しかしまぁ、何でそんなに興味津々なんですかね、このお嬢様は。


「星奈、短パンだけ絞りたいからハンディカムは仕舞ってね……鏡もダメです、言っておくけどパンツは脱がないからね」


 諦めたのか、星奈がジッと動かなくなったので短パンを脱いで固く絞る。パンツはタオルで押さえて、水分を吸わせるだけで我慢するしかないだろう……何となく背徳感を感じるので、星奈のタオルでやるのはやめておいた。


「ところで光太、替えの服は無いんですか?」


 星奈が急に振り向いた。残念ながら、目の前の光景に恥じらう様子はこれっぽっちも見られない。むしろ、期待外れとばかりに溜め息を吐いてさえいた。逆に危うく、こっちが声を出してしゃがみこんでしまう所だった。よくあるラブコメと何か違う。


「……あぁ、家に忘れて来た。出来た妹が、用意してくれてたんだけどな」


 まぁ、海パン一枚もパンツ一枚も大差ない。白ブリーフだったらちょっと隠したくなるかもだけど、俺は解放感を愛するトランクス派だ。そういえば――


「では、私の体操服を」


 ――どうして女性は、ビキニ姿は平気なのに下着姿を恥ずかしがるのか。見た目ほとんど変わらないというのに。わからない。


「へっ? 星奈、サイズも小さいだろうし、流石にその羞恥プレイには耐えられそうもない……って、ちょっとっ、何してんのっ!?」


 ビキニと下着における羞恥心の境界線――男にとって不可解なテーマに気を取られていたら、裾を掴まれた体操服がスルスルと持ち上げられ、くびれた腰の真ん中に鎮座する奇麗なおへそが御目見えしていた。不意の御開帳に思わず手を合わせそうになるも、そんな場合じゃないと、慌てて星奈の手を掴んで緊急停止させた。


「てっきり予備の体操服だと思ったんですけど?」


「温めておきました」


「秀吉か! 秀吉なのかっ?! ちょっと心が揺れたけど、とにかく服を戻して!」


 ちらりとブラが見える位置までたくし上げられた体操服。ギリギリセーフ……いや、アウトなのか? 本能とのせめぎ合いを制した理性が、掴んでいた星奈の両手を下ろさせた。俺の理性もかなり鍛えられてきたものだ。

 そうして一息ついた所で、はからずも両手を拘束されて無防備になった星奈の顔が、至近距離にあるという現実に直面する。俺をジッと見つめる、一点の曇りもないガラス玉のような青い瞳。その青い瞳が閉じられた。極自然に、当然の流れのように閉じられた。

 これはアレ、だよな? キス……しろってことだよな? 海の時は緊急事態だったから、ある意味やむを得ずやってしまったが……この状況、女の子に恥をかかせる訳にもいかないし……しちゃっても良いよな? うん、キスくらい高校生として十分に節度ある行為だろう。

 それにここはゲームの世界だ。星奈はその世界のキャラであり、に好意を持ってくれている。そう、これはゲームシナリオのサイドストーリーってやつだ。何の問題もない。


 ――ゆっくりと顔を近付ける。


 何の問題もない? 星奈の人格となっているあのが、好意を向けている相手は光太だぞ? このゲームの世界の光太というキャラなんだぞ? 彼女が今こうして、躊躇ためらいなく自身をさらけ出している相手は光太であって、本当リアルの俺じゃない。良いのか? それで。良いのか? このままで。


 ――良いわけない。そんなの、受け入れられるわけがない!


「星奈、俺は――」


 ――――――――――――ブツン! ―――――――――――― 




 ……

 ……


「だね。それはそうと光太、とりあえず風邪をひかないように着替えようよ」


「あぁ……美亜が用意してくれてたみたいなんだけどな。遅刻しそうで焦ってたから家に忘れて来た」


 ……

 ……

 ――――――――――――ブツン! ―――――――――――― 




 ……

 ……


「だね。それはそうと光太、とりあえず風邪をひかないように着替えようよ」


「あぁ……。遅刻しそうで焦ってたから家に忘れて来た」


 ……

 ……

 ――――――――――――ブツン! ―――――――――――― 




「もぉ、にぃにっ、いい加減起きないと遅刻するよ。美亜は先に行くからね。そうそう、体操服とかの着替え、用意しておいたから忘れずに持っていってよね」


「……」


 そう、ここは、ゲームの世界でしかない。シナリオの結末が用意されている世界だ。

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