第36話 冴えてる彼女の育て方
一歩一歩、砂浜を踏み締めて歩く星奈。その足取りは、怯えて
波打ち際まで来たところで立ち止まると、最後に残った恐怖心を飲み込むかのように、星奈の細い喉がゴクリと小さな音を立てた。
「行ける? 星奈」
「はい……光太、絶対に手を離さないで下さいね、絶対ですよ」
「わかってる。少しずつ、取りあえずは膝くらいの深さまで行ってみよう」
くるぶしまで海に入ったところで、星奈の正面にまわり正対する。後ろ向きで歩く俺の両手を握った星奈が、俺の動きに合わせて一歩ずつ足を進める。星奈が一歩踏み出す度に、握られている手に圧迫感がやってくる。
「どう? 大丈夫そう?」
「なんとか……」
膝まで海に浸かったところで、もう一度立ち止まった。言葉少なく返す星奈の顔は若干青ざめて見え、その手は俺の手を必要以上に強く握りしめていた。
「この辺で一回戻ろうか?」
「いいえ、大丈夫です。このまま、もう少し深い所までお願いします」
「わかった。でも無理そうならすぐに言えよ?」
「はい」
再び動き出した途端、やらかしてしまった。星奈の表情を見るのに気を割き過ぎていた。何歩か下がったとこの地形が少し深い段になっていて、足を取られた俺は、完全に腰砕けの状態になってしまった。
「……わっ!? てっ、手を離せ!」
「光太っ!?」
星奈は俺を助けようとしたのか、むしろ繋いでいた手に力を込めてきた。水の抵抗もあって思うように足を動かせず、星奈を引っ張り込む形で背中から倒れ込んでしまう。
ゆっくりと体が沈む感覚に、反射的に閉じていた目を開く。無数の
二人して海中に沈んでしまったが、海面はすぐそこに見えている。立ってしまえば、あったとしても俺の腰上くらいの深さしかなさそうだ。だから慌てる必要はない。ないんだが、星奈を早く落ち着かせてやった方がいいだろう。
星奈は完全に気が動転しているみたいで、目を
星奈のしがみつく力が、これが火事場の馬鹿力というやつなのか凄い力で、残念ながら、押し付けられる胸の感触にドキドキする余裕がない。楽しんでいたら、あっさり締め落とされてしまいそうだ。
これは人命救助の為だから仕方がない。主に、俺の。そう、緊急事態だと、心の中で努めて冷静に言い訳をして、星奈の脇腹にすすすっと指を這わせる。体をビクッとさせた星奈の口から、大きな気泡が一つ生まれ、ゆらゆらと昇っていく。
拘束が緩んだその隙に、お返しとばかりに星奈を優しく抱きしめ――キスをした。
強張っていた星奈の体から、ふっと力が抜ける。目を開けると、星奈の大きく見開かれた目が俺を見つめていた。
数秒くらいだっただろうか、そのまま、キスをしたまま見つめ合っていたのは。落ち着きを取り戻した様子の星奈が、ゆっくりと、押し返すようにして離れていった。
足を着いてみれば、思った通り俺のへそが浸かるくらいの深さだった。星奈は少し離れた位置で、海面に自前の浮袋を二つ浮かせている。
俯いて前髪から海水を滴らせる星奈の表情は見えないが、俺が
「あの、星奈? ごめんっ」
「……」
「ほんと、ごめん」
「なにが? ごめん、なんですか?」
「いや、俺がヘマをしたせいで怖い思いさせちゃって」
恐怖を思い出したのか、星奈が体を震わせ始めた。
「初めてが……海の中、だなんて……」
「初めて? あっ、あー、あれね。あれは、その、星奈に落ち着いてほしくって」
星奈が、水滴を飛ばす勢いで顔を上げた。真っ赤な顔で、目尻に溜まったしずくは海水なのか涙なのか、どうにも判別しづらい。間違いなく確かなのは、その瞳が青い炎を灯しているという事だ。
「それだけ? それだけの為にしたんですか? ふふっ、ふふふ」
わなわなと震える星奈は口元に笑みを湛えているが、今では完全に据わっている目がひたすらに恐ろしい。
「いやっ、待て星奈。落ち着け! 違う、違うんだ。それに俺も初めてだったから……そう、おあいこだっ」
おあいこだから何だというんだ。もう、言ってて自分でもわからない。
「どう……違うというのですか?」
「その、落ち着いてほしいというのもあったんだけど、えーっと……だから、星奈とその……キスしたいって思ったから」
「聞こえませんでした。もう一度。はっきり、誰と、何をしたいって思ったんですか?」
――めっちゃ聞こえてんじゃん。
すぐ目の前まで近付いてきた星奈が、下から見上げてくる。
「星奈が、すっ……星奈がすげー可愛いく思えて、キスせずにはいられませんでしたっ! おわりっ」
どうだ、開き直って言ってやったぜ。すんげー、顔が熱いんですけど。だが今度は、星奈が赤面する番だ。
「光太は……私が怖がってるのを見て、キスしたいだなんて思うのですか? サディストって呼ばれる人種だったんですね」
勝ち誇ったような顔で、そう言った星奈の口元がヒクヒクしている。かろうじて耐えたといった感じか。もう一押しだな。
「いやいやいやいや。だって、足着けば余裕で立てるのに、あの星奈が、必死にしがみ付いてきてるんだよ? 可愛く思えて仕方ないじゃん。あんなの、思い出すだけで俺ならご飯三杯はいけちゃうね。しかも、山盛りてんこ盛りでだ」
「それ、サディストっていうより最早、ただの変態にしか思えないのですが……。今日のところは、それで良しとします」
星奈は頬を上気させて俯いた。頬どころか、首の辺りから上が、耳の先まで真っ赤だ。勝った。いつもやられていたが、今回は俺の勝ちだ。
変態にしか思えないのに良しとするのはいかがなものか、とツッコミたいところだが、ともかく今は勝利の祝杯を挙げるとしよう。
「責任、取って下さいね?」
星奈が俺の手を掴んで呟いたセリフに乾杯。勝負に勝って、試合に完敗していた。
以前にも同じセリフを聞いた気がするが、今回はリセットが掛かるのも、冗談だと笑って流されるのも望めそうにない。しかも緊急事態とはいえ、こっちの主導でやっちまったから、なおさら申し開きの仕様もない。
美亜に知られたら……前回は意図せず揉んだだけでも死刑判決だったというのに、どうなってしまうのやら。
さらにもう一つ。
――システムメッセージ、柏木 星奈は現時刻をもってヒロインへと移行しました――
「星奈? 今、システムメッセージってやつが」
「……私もメッセージを受信しました。ヒロインへと移行したというだけで、何がどうといった説明は特にありません。初めての事なので詳細は不明です」
「マジか……単純に受け取れば、星奈も攻略対象になったという事だけど」
「関係ありません。光太に初めてを奪われたわけですし、添い遂げるのみです」
「え、あの、星奈さん? 添い遂げるって……」
「夫婦になるという事ですが?」
星奈の真剣な眼差し。やはり、冗談ですとは言ってもらえそうにない。
「……うん、少し落ち着いて話をしようか」
「子供は三人ですね」
「いや、将来設計じゃなくてですね……」
「式の日取りですか?」
「いえ、そこでもなくてですね。えっとですね、初めてを奪われたっていうのは、ちょっと語弊があるかなぁ……なんて」
「初めてだったのも、奪われたのも、紛れもない事実ですが?」
「うん、そうだね……とりあえず戻ろうか」
「子供は三人ですね」
「いや、戻るのは話じゃなくて浜辺にです」
――星奈が、ヒロインへとクラスチェンジした。
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