第19話 話がしたい
エメラルド色の光を追いかけひたすら潜っていく。
肋骨の中におさまった肺が必死に浮きたがるのを押さえつけて、水をかき分けながらひたすら下へ、下へ。祭壇部屋の照明が次第に届かなくなる中、宝石由来の緑光だけが、水の微妙なゆらぎ越しに存在感を強めていく。鼓膜に圧迫感を感じ、水泳の授業で教わった通り鼻をつまんで揉み耳管に空気を通す。
どこだ、バルバラ。
どこにいる。
ずいぶん昔見たテレビ番組によると、訓練を受けてない人間の素潜り限界深度は五メートル程度。体感的にはその二、三倍潜っている。酸素不足で頭がガンガンしだす前に見つけたい。
緑光の先に目を凝らしたとき、光にみちしるべの終わりが見えた。
自然界ではありえない、両腕をひろげても抱えきれないほど大きな、空気の泡。少しの波にも揺らめいてきらきらと輝いて、巨大な真珠の粒を連想させる。
その中で、ゆらゆらとたゆたいながら浮かぶ、見事な金髪巻き毛の美少女。
バルバラ・アビアーティ。
ああ、昔絵本の挿絵にこんなのがあった。アンデルセンの『人魚姫』。昔美佐緒に母親が買って、美佐緒よりオレが興味しんしんで読んでると『男らしくない』と取り上げられたやつ。
水を掻く手足の力を強め近づいた。手の先で触れてみると泡はポコンと音を立て、拍子抜けするくらいあっさりオレの体を飲み込んだ。
「バルバラ!」
何分かぶりの酸素をめいっぱい吸い込み、叫ぶ。
バルバラはじっと目を閉じ、眠っているように見えた。よく見れば体はうっすらと透き通り、実体でないことがわかる。オレが何度か呼びかけると薄いまぶたを震わせ、ようやく目を開けた。
≪誰、……わたくし……?≫
「詳しくは後で話す。戻ろう、上に。いや、バルバラが帰る場所に」
ここは概念域じゃなく現実域だ。物理法則は水の上と変わらず存在しているはずだ。
なのに重力をまるで感じなかった。足元はふわふわと浮き、泡と外の水とをへだてる境界には触れもしない。
「アスタリアとは話をつけてきた。あの女神、どうしようもなくドン詰まったこの世界を何とか生き延びさせようと必死だったんだ。あんたを長いあいだ縛りつけていたのもそのためだった。でも、その必要がないように、オレが……」
バルバラは十二時間寝た後のような顔で、ぼんやりとこっちを見つめていた。だが次第に細い眉の間に皺が寄り、この半年毎日鏡の中で見ていたのと同じ顔に、明らかな怒りの感情が浮かんだ。
≪お帰りください≫
「うわ、こんな顔できるんだオレ、いやバルバラ……って、そうじゃなくてな、せめて話を」
≪何をおっしゃっても無駄です。わたくしはもう疲れました≫
息を吐くように言い捨てて、再び目を閉じる。眉間に浮かんだ皺はそのまま。
≪何も考えず、ただ眠っていたい。それだけです。もう一度言います。水の上にお帰りください≫
「いいとこのお嬢様ってのは人の話聞かねぇのがデフォなのか? 奇遇だなオレも割と人の話聞かねぇんだ。だからあんたの話を聞く前に、自分の話を一方的にする。あんたはもう自分を偽る必要なんてない」
アスタリア、美佐緒。そしてバルバラ。今日はよくよく美人を怒らせる日だ、本当に。
「オレはな、バルバラ。この世界を造った奴と同じ世界から来た。その世界はここよりずっと広くて複雑だが、うまく使えばその広さ複雑さを物ともしないで、広めたい情報を広めたり、捜してる奴を見つけ出したりできる技術がある。この世界でいう魔術……とは、ちっと違うが、まぁ、そんな感じだ」
きつい表情でオレを睨んだままのバルバラに、オレは更に説明を重ねた。
何もかもを制御可能な枠に押し込め、造物主の定めた通りに収束するよう計らわなければ、この世界は崩壊する。一方で、造物主の筋書き通りの結末に至れば、それはそれでこの世界は終末を迎える運命にある。
であれば、オレが。そして美佐緒が。
≪ゲームを作った奴を捜そうと思うんだ。あんたたち流に言うなら、造物主を≫
美佐緒は『澪底のアスタリア』を友達から、その子の姉貴の知り合いの同人サークルの試作品としてこのゲームを借りたという。だが何か事情があってゲームは世に出なかった。
「とりあえず、ゲームを頒布してくれるよう頼んでみる。だいぶ前の話らしいし、今見ると拙くて恥ずかしいから出せないって言われるかもしれないけど。ただ、ただオレや美佐緒がやることの本命はそっちじゃなくてさ。もう一つ」
この世界観と登場人物、シェアード・ワールド創作に活かさないか――
そう持ちかけてはどうかと考えているのだ。
「あんたに言ってもピンと来ないかもしれないが。オレの世界のSF物やヒーロー物には、一つの世界観で何人もの著者が作品手がけている有名シリーズが結構あるんだよ。海外が多いけどオレの国にもかなりあるな。それでなくてもSNS……あー大勢が遠くにいても交流できる目に見えない道具? じゃ、企画主が創った世界観をベースに何十人もいる参加者が作品を書(描)きあうなんてのは珍しくないし」
そう、それだ。
特定の製作陣が創った一作のゲームとして完結していた世界を、興味を持った奴が望めば自分の創作スキルで参加できる、『共有された世界』に変えてしまえば。
難しいかもしれない。というかどちゃくそ難しい。
それでも、やってみる価値はある。
少なくとも、女神が自分の望みさえ押し殺して矛盾に満ちた強制を続けるより百億倍建設的だ。
「名乗るのが遅れたな。オレは家永孝也。色々あって世をはかなんで身を投げたとこで女神様の無意識に呼ばれて、この半年ずっとあんたの体を借りてる」
ぴくりと、バルバラの唇の端が震えた。
『世をはかなんで身を投げた』のあたりで、バルバラの口の端がぴくりと震えた。
「この半年、色んなことがあったよ。右も左も分かんねぇで途方に暮れてるところに笑いかけてくれる子がいたり。こんなオレに、まぁ歪んじゃいたけど熱烈に愛情? 向けて求めてくる奴がいて、正直鬱陶しかったそいつもそいつなりに苦しんでたのを後で知ったり。それから……」
唾を飲み込んだ。
その先を言おうかどうか迷った。
自分自身の底の底を、それも実質初対面の女の子に晒す。とても勇気がいる。どれだけ深いか分からない水の淵に飛び込むことの、何千倍、何万倍も勇気がいる。
「苦手意識で何年も距離を取ってた、昔身近だった奴の素顔を見られた。今だからこそできる話もできた。もっと話したい、と思えた」
そう。オレは今、美佐緒と話したいと思っている。
スマホのディスプレイ越しにじゃない。目の前で、顔を見ながら、紡いだ言葉が空気を震わせるのを感じながら、目をしっかり合わせて、吐く息の暖かさも感じられるくらいの近さで、オレの妹と話をしたい。
美佐緒はもう二つ三つの子供じゃなく、思春期まっさかりの十五歳だ。昔のように頬を手で包み込むなんて許しちゃくれないだろう。それでもいい。
今オレはこれまでにないくらい強く思っている。
オレの生まれた、オレを育てた、オレが一度捨てたあの世界に帰りたい。美佐緒と話すために。
「おかげで色々諦めてたもの、また掴みにいく勇気が出た。だから、さ。何つーか、あんたにも」
あの夜風吹きすさぶベランダから飛び降り、それで終わっていたら、決して見えなかったものがたくさんあったのだ。
「おせっかいかもしれないけど諦めて欲しくない。ましてあんたはあんたのせいじゃなく、女神の力でずっと押し込められてたんだ。その拘束がなくなるんなら、ここに閉じこもってる理由なんて何もない。そうだろ?」
≪理由なら≫
バルバラの眉間の皺が深くなった。
気の強そうな厚めの唇が動き――
≪理由ならあります≫
「へっあんのマジで……じゃなくて。じゃあ聞かせてくれよその理由」
≪貴方には分かりません。この世界に生を享けたわけではないなら尚の事≫
「あんたが詳しく話してくれなきゃ、分かんねぇかどうかも分かんねぇだろうよ」
ふわふわと泡の中で浮遊しながら、オレは片脚を上げて折り曲げた。次にもう片脚も同じように。ちょうど胡坐を組むような姿勢になる。
「納得がいかない限り、オレぁここから出てかねぇぜ。あんたの安らかな眠りは台無しだ。ここですやすやお休み決め込みたいつもりなら尚更、その展開は嫌だよな?」
≪馬鹿馬鹿しいことを。貴方には肉体があり、わたくしには無い。貴方の――わたくしの肉体を生かしているこの場の酸素の量も限られている。わたくしに自分の生への執着がない以上、肉体を質に取るのも意味がない。根比べになれば貴方が酸欠で死を迎えるだけです≫
「だったら余計にさ。あんた、オレがここであんたの体ごと死んだとして、ずっと死体ごとここでフォーエバーおねんねする気か? どんどん腐ってひでぇ有様になってく自分の死体と? 育ちのいいあんたにそんなご趣味はないと思いたいね。『
ハッタリだ。美佐緒が待っている以上、自分の命をチップにして賭けることはできない。
それでも、一定の効果はあるはずだと思った。
バルバラの唇から息が漏れた、ように見えた。ゆらゆらとたゆたうこの姿が霊魂だの精神体だのそんな類のものなら呼吸はいらないはずだが、肉体の感覚の名残か。何であれ、それは諦めの吐息に違いなかった。
≪わたくしは、バルバラ・アビアーティは、高慢な性悪娘たることを宿命づけられた女です。女神の拘束が失われても、この世界を創造した造物主の意向がそこにあることは明白です。造物主がこの世界を放棄しても、数々の不測の事態により造物主の筋書きが意味をなさなくなっても、魂に刻まれた在り方は≫
言葉は末尾まで紡がれずに途切れ、バルバラはきつく目を閉じた。深く息を吸いながら顎を持ち上げ、白い喉をさらす様は、嗚咽をこらえているように見えた。
途切れた言葉の先は、聞かなくても分かる。
――魂に刻まれた在り方は、きっと変わらない。変われない。
オレは力いっぱい唇を引き結んだ。受験本番直前の模試でD判定が出たときでも、こんな顔はしなかったと誓って言えた。
「バルバラ……」
こういうとき、じっと向こうの目を見て喋るのがいいとは限らない。圧迫感を与えて逆効果なこともあるだろう。相手次第だ。オレはバルバラが相対者が信頼に足るか量っている方に賭けた。
ままならない現実に傷つき震えながら、独りでずっと戦い続けてきたこの強い娘なら、きっと、対峙する相手の視線に気圧されたりはしない。
「なぁ、バルバラ。今の話、ざっと文句をつけたいとこが五、六箇所あんだけどさ。この世界の仕組みとかそういうのに関してはオレぁ
ああ、きっつい。こちとらこの世界に来る前はクラスで孤立してたんだ。目を逸らして咳払いとかしたい。こらえて続ける。
「性格悪けりゃ生きてちゃいけないのか?」
間があった。
一瞬、どころではない。たっぷり十秒くらいの。
バルバラが唇を動かした。何か言おうとしたのだと思う。でも言葉は出てこなかった。すかさず、オレはまくしたてた。
「オレぁあんたが性格悪いとはまったく思っちゃいないが……それはそれとして、だ。高慢、性悪、それが何だよ。性格の悪さを言うならアレクシオスだって大概だし、アステリク……ファビアンの奴だって相当ひねくれてるし、あいつの妹ってんならアスタリアだってどうせ道徳の教科書に出てくるような良い子ちゃんじゃねえんだろうさ。あ、そうそううちの妹だって相当だぞ。外ヅラいいから何とかなってるみてぇだけど」
≪心優しき者でなければ、生きていく資格などないのではありませんか≫
ようやく、バルバラが声を搾り出した。
≪多くの物語はそのように在り、行い歪んだ者たちを排斥し、こう在ってはならぬと教訓を語ります。この世界もそのような物語の一つ。そしてわたくしは、その排斥されるべき者≫
「優しくなければ生きていく資格がないって、こっちの世界のハードボイルド小説の名台詞にもあんだわ。あれ自体にはキャラにも話にも雰囲気にも噛み合ってたから文句ねぇけどよ。あの小説と関係ねぇとこでその台詞持ち出されると何だかなぁってなるんだよな。いや、あんたをその手合いと一緒にしてる訳じゃあないが」
オレはバルバラの日記を読んでいる。暖かで細やかな心を持つ少女が、少しずつ傷ついて疲れ切って倒れてしまうまでを一枚一枚ページを操り追いかけている。
だからオレには『そんなことない』『バルバラは優しい』と言う選択肢もある。日記で読んだエピソードを証拠として挙げることもできる。でもオレはそうはしたくない。
自分は優しくないと思い込んでいるバルバラにそう語りかけたところで届くかそもそも怪しいし、それに。
「なぁ、バルバラ。心ってさ、誰にでもあるもんだよな」
『突然何を?』
「いいから。……天使みたいな良い子にも、逆にめっちゃ迷惑な奴にも、喜んで人に嫌がらせするような奴にも、心ってさ、あるもんだよな」
優しくないと、高慢だと、性悪だと、そんな理由で爪弾きにされる。それは、あまりに悲しくはないだろうか。
優しくあることへの恩恵はあっていい。というか、あるべきだ。でも優しくないからといって、存在そのものさえ否定されるのは、それ自体『優しくない』んじゃないか。
優しくなければ生きる資格すら持てない世界に、優しさなんてありはしないんじゃないか。
「生きてていいと思うんだよ。優しかろうが優しくなかろうが、性格天使だろうが性悪だろうが何だろうが。心がある奴は一人の例外もなく、生きてていいはずなんだよ」
そして、幸せになっていいに決まってるんだよ。
言葉の最後は、さすがに口にできず飲み込んだ。
バルバラは黙っている。この半年毎日鏡の中で見てきた顔で、鏡の中よりも何十倍もきつい目で、オレを見ている。
「心ってやつが優しさだけで出来てたら、その手の綺麗なもんだけでできてたら、そりゃあきっと素晴らしい世界が広がってたんだろうな。そしたらオレぁきっと美佐緒と……妹と、もっと早く向き合えたし言葉も交わせた。冷たい……」
せわしなく動いていた舌が一瞬、こわばる。息を吸って吐き、唾を飲んで続ける。
「……冷たい風がびゅうびゅう吹いてる暗いベランダから飛び降りる必要も、きっとなかった。あんたもきっと、バルコニーから身を投げることなく済んだ。でも心ってやつはもっとぐちゃぐちゃに色んなもんが混ざりあって入り乱れてて、だからオレもあんたも今ここにいる」
苦い思いはある。ここまでずいぶん遠回りさせられた、という。
それでも、ここまで来るのに辿った道を、不思議と今オレは全否定する気になれない。
突っ走って遠巻きにされて孤立して踏みにじられて押さえつけられて恫喝されて捻じくれて、ボロボロになって全てを投げ捨てて、その果てから見た世界はおそろしく荒んでいた。でも、間違いなくその場所からしか見えないものだった。
その荒んだ光景を嫌ってほど見てきたからこそ、存在に気づけた輝きもあった。
この輝きを胸に抱いていければ、この後またどれだけ荒れ果てた景色を見せつけられることになろうと、投げ出さずに進めると思った。
綺麗なものだけでできてたら見えないものが確かにある。
「オレも美佐緒もアレクシオスもアステリクもアスタリアも、それからきっとジーナちゃんも、綺麗なものだけじゃできてない。それでも生きてていい許されないなんてこたぁない。オレたちだけじゃない、あんたもだ、バルバラ」
≪力強い物言いですわね、頼もしいこと。ですが貴方が何をおっしゃろうともこの世界は……≫
「変える」
口元に手を当て、あまりにも気品ある嘲笑を浮かべるバルバラに、オレは言い切った。
「ああそうだあんたの言う通りだ、こっちの気構えがどうだろうとこの世界そのものを変えなきゃ意味はない。だから変える」
≪そんなことが……≫
「オレがやろうとしてることってのはもともと根本的にこの世界を『変える』ための手段だからな。実現すればだが、できると思う」
オレは自分の胸をぐいっと親指で指した。
「だってオレも書くからな! さっき言ったシェアード・ワールド企画!」
顔の下半分を覆う手の向こうで、バルバラの口がぽかんと開いた。
≪あ、貴方、が?≫
「おう、オレが」
そんな苦いものでも食ったような目で見るなよ。これでも一応オタクの端くれ、中二病丸出しの小説をノートに書き散らしまくってたんだから。
「スマホも……あー、書いてオレの世界に送る道具も代わりにオレの世界で発表してくれる奴もいる。だから不可能じゃねえよ。オレが書く。優しくなくても綺麗じゃなくても生きてていいって、何度でも書いて訴えてやる」
この世界が『多数の執筆者に共有された世界』として変質すれば、オレの書いた内容もこの世界の一部になる。在り方に影響を与えられる。
「他にもあれこれ根本的に腹が立ってるからな。『護界卿』が肉体亡くしてこの世界の人間と意思疎通できなくなるのも、ジーナちゃんが『導き手』とかいう、プレイヤーの集合意識を神託として受け取る存在だってのも」
変えたい。
綺麗じゃなくても存在を認められる世界にしたい。一人一人の人間が自分の足で立って、自分の頭で考えて、自分の心で生き方を決めて、その結果が何に繋がろうと胸を張って受け止められる世界にしたい。
「だから、戻って来いよバルバラ。しばらくはオレとこの体に同居で悪いけど。全部落ち着いたらちゃんと自分の世界に帰るから。それに……」
オレは真上を指で差した。
緑の光が差し入ってくる水面がゆらゆらと揺れていた。
「ルーカが、あんたのお義兄様が、あんたのことを待ってる」
すっと、バルバラが息を呑んだ。
「あんたを助けるために駆けつけてくれたんだよ。追っ手食い止めるために階段に残ってくれたんで、オレが先にこっち来るはめになったけど」
≪お義兄様……≫
「あいつがあんたをどう思ってるか、オレには全部は分からない。ただでさえきょうだいってのは同じパイを奪うことになりやすいし、あんたらの場合は母親が違うから尚更色々あるだろう。ただ、一つだけ確かな事実は」
頭上を差した指の先をくるくる回す。
「ルーカが、自分の命と社会的地位の危険を冒してまであんたを取り戻そうとした、ってことさ」
バルバラが唇を噛んでうつむく。
日記に踊っていた硬く震える筆致を思い出した。あの文字群を綴るときこの娘は、こんな表情をしていたのかもしれなかった。
≪お義兄様が……≫
一瞬。
ほんの一瞬だけ、バルバラの目の縁がたわんだ。
ああ、泣く。そう思った。
だが決壊しかけた涙腺は持ちこたえた。緑の瞳は涙を浮かべることなく、女王めいた威厳を保ってオレを見据えた。
≪お義兄様は……貴方に、わたくしのこと、何か?≫
「んー……これは奴がまだオレをあんただと思ってたときの言葉だからアレなんだが」
思い出す。奴の台詞を。
戸惑いながら、不安にかられながら、それでも伝えたいと願って選んで口にしただろう言葉を。
「何年経っても、どれだけ時間が流れても、あんたの成長が嬉しいって。あんたがどんどん大人になっていくことが喜びだって。あんたが自分をどう思っていたとしても、そこは絶対に変わらないって」
この言葉をルーカの口からこの娘に聞かせてやりたい。
これまで阻まれてきた分を埋め合わせてなお足りないくらい、目一杯、嫌というほど、話をさせてやりたい。
もちろん、オレ自身も言った通り、きょうだい関係はきれいごとばかりじゃない。話すうちにお互い抱いていたどす黒い感情が見え隠れすることもありえる。
でも面と向かってちゃんと話をして、その結果分かり合えずにすれ違うなら、それもいいんじゃないだろうか。少なくとも、語るべき言葉をお互い口にもできず、ただ時間が経って全てが終わるよりずっと。
「オレがどうこう言うより自分で話すのが早い」
頭上に伸ばした手を下ろした。
代わりにバルバラに向けて差し伸ばした。
呼吸いくつか分の間があった。射貫くようにオレを睨んでいたバルバラの目の険が、ふっと緩んだ。
伸ばした手に、まったく同じ形をした、だが実体のない手が重ねられた。
≪わたくしも、……わたくしも、話がしたい。お義兄様と――≫
おずおずと、ぎこちなく浮かべられた微笑みは、オレが半年間鏡の中で見てきたどの顔より美しかった。
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