第17話 誰より一番望んでた
黒い波が激しくなった。
ひときわ強くうねって自分を飲み込もうとする濁流を、オレは睨みつけた。
アスタリアは現実域に直接干渉できないと、アステリクは言った。彼女がオレの命を危険に晒せるのは、オレの精神を介してだけだ。心さえ折れなければ、どれだけの窮地を演出されようとどうってことはない。
どうってことは……
≪イエナガ・タカヤ。その解は誤りです。思考ごと放棄なさい≫
低く響いた声音とともに、水面が盛り上がる。巨大な手に握りしめられるように渦に巻かれ、オレは空中に押し上げられた。
胸に、腹に、めり込むような重い衝撃。えずく。透き通った苦い粘液が喉奥からせりあがって、糸を引いて黒い水の中に落ちていく。
――どうってことは、うん、ない。多分。きっと。そんなに。
「誤、り……そうは、思わない、ね。むしろ、あんたがそんだけ怒ってる、のが、オレの考えが正しい証拠に見える」
≪その理解も誤りです。怒りこそ最も我らの在るべき姿と無縁なもの≫
「在るべき姿、だろ? 理想と現実にゃ大概ギャップ、が……」
黒い渦の表面がうねった。また飲み込まれる。息を呑んだとき、ピシッと硬い音がした。
凍結音だ。
オレを巻き込み盛り上がった真っ黒な波が、端から凍りついていった。水魔術。白っぽく凍てついた渦は音を立てて砕け、オレは水面めがけて落下した。
ばしゃん。上がるしぶき、沈む体。
水底に吸われそうになるのを、必死に手足を動かして水面に上がる。
≪『
≪最後まで聞いてやれ、アスタリア。この者の口を閉ざしめることも、お主自身の耳を塞ぐことも、儂が許さん≫
ああくそ、イケメンめ、ありがとうよ。今のでめっちゃ水飲んだし、耳奥にも水が詰まって頭がわんわんするし、鼻にも入って粘膜死ぬほど痛ぇけどこの際許してやるよ。
何度か咳き込んでからオレは続けた。
「元々、ずっと考えてた事があった。この世界がこれからどうなるのか。仮にゲーム制作者が意図したシナリオから破綻せず全てが運んで、無事エンディングを迎えたとしてその後いったい、どうなるのか」
物語には必ず終わりがある。
一方、土や風や光や血や肉でできている世界は、物語がどう終わろうとどこまでも続くし、続いていかなければならない。
物語とともに世界が終わるなんて、あってはいけない。
そう思う。そう願う。
けれど。
「もしかして、そのときもやっぱり、終わるのか? この世界」
≪はい。……崩壊とはいささか過程が異なりますが、存在は終了します≫
女神の答えとほぼ同時に、アステリクがゆっくりと、そして深く息を吐いた。
オレは目を伏せた。
――ああ。成る程。知っていたんだこの元『護国卿』も。だからこいつは最初から、あんなにも投げやりだったのだ。
こいつはいっぺんだって、この世界の今後のことなんか口にしなかった。自分と、そして妹が守り続けてきたこの世界の、最期をどんな気持ちで看取るか、そこしか頭になかった。何をどうやっても近々終わる、そこは決して避けられないと知っていた。
胸の奥に苦い感覚がひろがっていった。全身の力を抜き、何も考えずにこの水面にただ横たわって浮かんでいたくなった。できなかった。まだまだ言わなきゃならないことがオレにはあった。
「もう一度言う。あんたがオレをこの世界に呼んだ。あんたに自覚がないって言うなら、あんたの……無意識だか深層意識だかもっと女神っぽくて壮大で深遠な何かだかが、オレを呼んだんだ。あんたはこの世界が終わるのも滅ぶのも避けたかった。だから最後のよすがとして、外に……あんたが言うところの『造物主』の世界に、救いを求めた」
女神アスタリアは現実域に直接干渉できない。
だからオレの召喚はバルコニーから身を投げたバルバラの体を借りる形をとった。オレを体ごとそのままこの世界に転移させることは、彼女の権能では不可能だったのだ。
「誰よりあんたが一番わかってた、この世界に未来はないって。誰よりあんたが一番望んでた、この世界の未来が欲しいって。だからオレが呼ばれた」
オレなら、オレの世界のどこかにいる、この世界の造物主に働きかけることは不可能じゃない。
オレだけじゃ無理でも、美佐緒を介してなら。
造物主だけじゃない。このご時世、SNSなり何なりうまく使えば、多くの人間に『澪底のアスタリア』の物語を知ってもらうことができる。
「オレと美佐緒がうまく立ち回って、『澪アス』を知る人間を増やせれば、この世界はうまく回るようになる。あんたもこの世界の人間を縛る必要はなくなる。そうじゃないか?」
≪その解は誤りです、イエナガ・タカヤ≫
アスタリアが言った。
声が震えているように、少なくともオレには聞こえた。
≪違う。あなたが口にしたことは何もかもが事実と異なる≫
「オレはそうは思わない。何を言われたって撤回する気もない。だってこれは意見じゃなくて確信だ。引っ込めさせるのはたとえ女神でも骨が折れるぜ」
≪違う!≫
黒い海がまたざわりと波立った。
ボコボコと水面に泡が立ちはじめた。
泡? これって……熱っ!
≪いかん!≫
アステリクが手をかざすより早く、水底から熱が噴きあがった。辺りを満たす黒い水は一瞬にして煮えたぎり、浸かった全身を経験したことのない高熱が襲った。
茹でられる。いや、蒸しあげられる!
≪違います。違います違います違います事実と異なります。貴方の言葉を思考を判断を概念を理由を全てを我らは否定します――≫
≪アスタリア!≫
アステリクの手が振られる。女神めがけて冷気が吹き、煮えくりかえる熱湯がピシピシ音を立て凍てついていく。だが足りない。超低温を超える超高熱が凍るそばから氷を溶かし、元『護国卿』の魔術を無に還していく。
ぐらぐら沸く水面に皮膚が
吹き上がる蒸気が目と鼻と喉を蒸す。
視界が真っ白に満たされて、何もかもの輪郭がグズグズに崩れていく――
≪タカヤ! 意識を保て! しょせん概念域の事象じゃ、お主の体は……≫
わかっている。わかっているのに襲う熱も沸く湯面も奪われる呼吸も何もかも圧倒的に現実で、意識も感覚も有無を言わさず呑みこまれる。
ジュッと、アステリクの指の先が蒸発した。手首、肘、肩。見る間に気化していく。
薄れゆく意識の中で、ああ、と妙に納得した。
ここでのこいつの体は水でできている――
≪タカヤ!≫
胴の半ばまで蒸散しながら、アステリクが叫んだ。
≪お主の妹が、ミサオが、お主の名を呼んで泣いておったぞ!≫
頭の中で、聴きなれた声が響いた。半月前にLINE通話で聴いた声だった。
――たまらなかった。
――それで終わりなんて、あんまりだ、って思った。
――少し、泣いた。
美佐緒が、オレを。
歯を食いしばった。腫れ上がり呼吸を拒む気管を鞭打って息を吸い込んだ。
そうだ美佐緒がオレを待ってる。
決して仲のいい兄妹じゃなく、きれいなことばかりの繋がりじゃない。だからこそ、これから話さなきゃならないことがまだまだある。
「美佐緒……」
それに。
「ジーナちゃん」
天使のようなあの笑みを守りたいと願った。
「アレクシオス」
奴が独りこぼす涙を確かに見たと思った。
「バルバラ」
この脆く儚く強い娘を救えればと望んだ。
ここで終わったら、何もかも全て中途半端な積み残しで終わる。
そうだこんなことくらい何でもない。あいつらの苦しみに比べたら。
≪アスタリア≫
アステリクが呼んだ。
兄が妹を呼ぶ声だった。
≪アスタリア……!≫
そうだ。苦しみだったら、こいつらも。
体はどんどん煮えていく。臓物もそろそろモツ煮込みだ。脳まで茹であげられる前に、暴走するこの五感を何とかしなきゃならない。でないとオレのこの領域での認識が、現実域でのオレを殺す。
アステリクの言葉を信じるならこの領域の事象は、女神のオレの精神への干渉で成り立っている。なら、干渉を別の何かで上書きすればあるいは――
食いしばる奥歯に力を込めた。
火の通ったしゃぶしゃぶ肉みてぇに真っ白な手を、ドレスの懐に突っ込んだ。
あるか。あるだろう。あるはずだ。だってオレは今の今までここに突っ込んだものの事なんて忘れていた。アスタリアの干渉による波や渦で、『流されたかも』と一瞬でも思ったなら無くなっていたろう。でも、たった今存在を思い出したものなら。
熱と痛みしか感じない手に、ひときわ強い痛みが伝わる。痛みは丸くて硬い石の形をしている。
宝石。呪具だ。
アステリクから預かり、地下祭壇に繋がる扉を開けた石。元はオパールに似た白、今は扉に込められていた『
きつく握りしめる。痛みが増す。無視する。もっと力を込めて握る。もっと痛い。無視する。
オレは握った石を高く掲げ、そして、自分の頭めがけ振り下ろした。
激痛が走る。石が粉々に砕け散り、破片が皮膚に刺さる。
それはもう、頭蓋骨が割れ砕けそうなくらいの。
――気になるならいっそ針でも刺してみる?
――うげぇ、メチャクチャ言うなよ。
――メチャクチャでもないよ。人間の脳って、強い感覚は一回あたり一つしか感じられないらしいから。
ありがとうよ美佐緒。お前のクソみてぇなアドバイスのおかげで、今この場でもう一度だけあがける。
頭蓋の痛みが全神経を支配した。熱も呼吸困難も吹き飛んだ。
ほんの一瞬。一瞬で充分。
この領域の全てはまやかし、現実域のオレは何の影響も受けない。暗示のように、誰かへの誓いのように、強く強く強く強く。
≪否定します。否定します否定します否定否定否定否定否定否定します……≫
こっちの台詞だ。
沸騰する湯面が凪ぎはじめた。温度が下がっていく。
腫れのおさまった喉と鼻で、オレはゆっくりと空気を吐いて吸った。花粉症の季節が終わってマスクを外したときの、何百倍も爽快な気分だった。
確かに割れたと思った頭蓋まで、どさくさ紛れに無傷で笑ってしまう。
ただ、一つだけさっきまでと違うのが。
≪否定します。否定します『
無機質なアスタリアの『声』が響いた。
≪貴方まで、この少年に与するというのですか≫
破片だ。砕け散った緑の宝石の欠片が、光り輝きながら空中で円を造っていた。さながら土星の環のように。
「『常磐卿』?」
地下祭壇への扉を守っていた以外、まるで名前が出てこなかったのは気になっていたが。
「あ……」
この宝石の緑光はあの扉由来。
あのとき吸収した『常磐卿』の魔力が、今ので解放された……?
≪もう良い、アスタリア≫
呻くように、アステリクが言った。
≪この若造の好きにさせてやれ。きっとそれが、お主自身の望んだことでもある。ここ三百年余りお主と共にあった『常磐卿』までこやつに同調しているなら、間違いはあるまい≫
≪『蘇芳卿』!≫
≪もう良いと言っておるのだ、我が妹よ≫
しゅわっ、と、音がして、アステリクの姿が蒸発した。
どこへ――と見回す前に、アスタリアの背後の水面が盛り上がる。
見る間に水は人の姿をとる。闇のごとき黒い水で象られた青年は、光の体を持つ女神を背から抱きしめる。
≪もう良い、アスタリア。これまでずっと気を張ってきたのであろう。今は、ただ休め≫
≪『蘇芳卿』、何を言うのです。貴方には分かりません。だって≫
≪そうさな。文句が山ほどあろうな。お主は儂が表舞台を去ってからも千と九百年余りこの世界を守ってきた。一方儂は……。この際じゃ、言いたいことはすべて聞いてやろう。アスタリア、お主の気が済むまで≫
中空で輝く緑の破片の環が、ひときわ強く光を放った。そのまま高速で回転しだす。
緑の光は次第に強まり、辺りの景色を満たしていく。
概念域、この空間からの解放か。けど、この二人をここで置いていくのは。
そう思ったとき、脳に会話の断片が届いた。
≪『 』、私は……≫
ああ、そうか。
なら、きっと大丈夫だ。
景色がかすむ。体を浸す水の感覚も消えていく。
概念域から現実域へ浮上する。
緑に輝きながら激しく揺れ動く視界に、いっぽうオレの心は落ち着いていた。
きっと大丈夫だ、何もかも。
アスタリアが確かに『兄さん』と呼んだのが聴こえたから。
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