第16話 あんたがオレを

 ばしゃあっ、と水面から顔を出すと、頭上は相も変わらぬ真っ暗闇だった。

 脚で水を掻いて、立ち泳ぎ状態になる。現実世界じゃ月単位へたすりゃ年単位で訓練が要る芸当だが、ここでは体育座りから立ち上がる程度の労力だ。

「アスタリアは……いない?」

≪いや≫


 アステリクの声とともに水面が盛り上がり、オレは体を固くした。

 が、水はオレに覆いかぶさることなく、見えない彫刻刀で削られていくように人の形を取った。

 アステリクの今回の転生体ファビアンの姿だ。憎ったらしいイケメンになるまであと三、四年ってところの整った顔を、硬くこわばらせて一言、吐いた。

≪――おる。気を引き締めよ≫


 息を呑んだ、その瞬間だった。

 蛍火が、闇の中にぽっと灯った。最初にこの空間に誘われたときと同じく、ひとつの蛍火が分裂しながら増殖していく。

 小学生の頃科学番組で見た細胞分裂の映像を思い出した。ぷっくりと膨らんで、中身の半分を膨らんだ先に移して、ぷつっと切れて、分かたれる。命の連環の基礎をなす光景。とうの昔に、生命の概念から切り離された存在にもかかわらず。

 蛍火は収束し、さっきと同様、長い髪の娘の姿をかたどる。女神アスタリア。


≪『蘇芳卿』≫

 呼ばれた二つ名にズキリと胸が痛んだ。

 その名は確かにアステリクを指すもので、それでいて妹から兄への呼び方では絶対にない。

 対するアステリクは――


≪外部からの干渉は拒否せなんだか、アスタリア。儂の関与はとうに承知だったであろうに≫

≪無意味と判断致しましたので。貴方こそ、合理的な行動とはいえませんよ、『蘇芳卿』≫

≪儂が合理的な男であったなら、とうにおまえとのえにしは切れておるよ。きっちり二千と二百と十八年前にな≫

 澄みわたって硬質で、なのにどこまでも伸びるボーイソプラノ。

 鼓膜でなく脳のひだを震わせる声音は、どこまでも美しかった。ストラディヴァリウスだのグァルネリウスだの、名工が造ったヴァイオリンってのは、きっとこんな風に鳴るんだろう。

 その美しい声に、聴いたことのない低音が混じった。


≪何のかんのと言い訳を重ねてきたがな。たった今受け入れる事にした。不合理にも程がある己の未練をな≫

 響く声は、ボーイソプラノからバリトンへ。

 水がかたどる絶世の美少年は、やわらかな頬をシャープな稜線に、くりくりした瞳を影を帯びた切れ長の双眸へと変化させ、見る間に精悍な青年へと姿を変えた。


≪貴方の最初の肉体を模して、何になります≫

≪何にもならぬさ。まあ、言うてみればげん担ぎよ≫

 ニィと笑う表情は、確かにこれまで見てきた超絶若作りジジイの顔。

≪賭けの前にはげんを担ぐのが常じゃろう。儂はこの小僧に全財産賭けてみる事にした。お主のいう『合理的』とは相反する思考でな≫


 アスタリアは何も言わなかった。

 ただ凍りついたような美貌が、すっ、と目を細めた。一瞬だけ。

 アステリクがその表情の変化に気づいたのかどうか――


≪さて、タカヤ≫

 黒い水でできた手が、そっとオレの背に触れた。

≪聞いてやれ、言うてやれ、この小娘に。この世界に、その在り方に、お主が疑問に思うておること、その口で文句をつけてやりたいことを全て≫

 イケメンに触れられると全身痒くなるはずのオレが、何故このとき平気でいられたのか。

 中身が約二千歳のジジイと知っているからか。一瞬前まで子供の姿だったからか。肉を纏わぬ水の器でしかないからか。

 どれも違う、きっと。

 オレはアステリクに向けて深く頷き、暗く横たわる水辺でこの世界の女神と対峙した。




「アスタリア。まず聞きたい」

 声を張る。

 遮るものの何もない空間、ただ喋るだけでは声は黒い空に吸われてしまう。

 相手は女神、ましてここは物理法則の関係ない概念域、肉声を相手に届ける努力なんてきっといらない。ただ自分の心を支えるために声を張る。


「あんたが、バルバラや、ジーナちゃん、アレクシオス……それから、まだまだいるだろうオレの知らないこの世界の連中の、思考や行動を縛り続けている理由について」

 一気に喋って、アスタリアを見つめる。

 静かに目を伏せた女神の顔。横にいる彼女の兄の今の姿と、果たして似ているのか、どうなのか。比較は難しい。冷たく凍った面持ちばかりが気になって、細かな顔立ちに目がいかない。

 大理石そのもののような無表情を崩せれば、あるいは――


「なんでだ? 造物主……ゲーム制作者の意図したシナリオに沿うためか?」

≪その通り、ともいえますし、そうではない、とも言えます≫

 ひどく、淡々と返ってくる答え。

≪造物主はこの世界にあるべき流れ、あなたが呼ぶところの『シナリオ』を定めた。我らも、この世界の者たちもその流れに従うことこそ本来の責務。これは、全ての大前提たる事実です。ただ……≫

 少しの間をおいて、女神が言った。


≪この世界は今、『あるべき流れ』の見えぬ状態にあります≫

「それは……」

 たびたび話の出た『造物主によるこの世界の放棄』によるものなのか。

≪その通りです≫

 思考を口に出す前に先回りされる。あまり気持ちのいいものじゃない。


≪造物主は、この世界が辿るべき流れを何十通りと定めました。物事の起こる順番も最終的に至る道も、全てが微に入り細に入り異なります。この点はイエナガ・タカヤ、貴方もご存じでしょう≫

≪うん、まあ……≫

 美佐緒から、シナリオルートがキャラクターや進路ごとに違う話は聞いている。アスタリアの使う用語が違うから分かりにくいが、多分この辺の話だろう。

≪一方、この世界はただ一個の存在。数多くある流れの一つだけがこの世界の辿る未来となります。つまり、選別過程が必要です≫

「……その選別を、造物主がブン投げたってのか?」


≪選別に繋がる過程を放棄した、という方が近いの≫

 アステリクが横から口を挟んだ。

≪造物主はこの世界の創造を無事終えた。お主らの言葉を借りるなら、『げーむ』としての完成には一応至ったんじゃろうな。が、そこからが良くなかった。何の事情があったか知らぬが、この世界をほぼ閉じたままにしておいたのよ。これはお主らの世界でいうなら、ええと≫

「公に発表しなかった……発売、いや頒布しなかったってことか?」


 『澪底のアスタリア』は同人ゲームだ。

 美佐緒の友達の姉貴の知り合いが所属していたサークルの作品で、美佐緒は友達から『感想が聞きたい』とディスクを手渡されたという。

≪そちらの世界の話は分からぬ。お主がそう思うなら、そういうことなのかもしれん≫

 アステリクが黒い水の体で首を振った。

 複数人のサークルなら、頒布前のトラブルで作品が世に出ないこともあり得る。案外そんな理由で、サークル関係者何名かと美佐緒くらいしかプレイしなかったのかもしれない。


「辿るべき未来を選別するには、ゲームが多くの人間に遊ばれる必要があった、って事なのか」

≪『導き手』と我らは呼びます≫

 と、アスタリアが言った。

≪造物主の残された数多の筋書きから、ただ一つの正しき流れを選び取るための存在。造物主の創造したこの世界を賞玩する多数の者たちの集合意識。本来であればジーナ・オータム……貴方の世界で『主人公』と呼ばれる少女が『導き手』の神託を受けることで、あるべき流れが示される筈でした≫

 それが、ジーナちゃんが悩んでいた理由。『自分では決められない』『でも誰も代わりに決めてはくれない』と苦しんでいた理由。


≪ですが、そうはならなかった。他ならぬ、造物主によるこの世界の放棄によって。辿るべき未来は選別されない。造物主の決められた道は無数に分岐したまま。我らの世界は貴方がたの世界から忘れ去られ、神託の少女は身動きもままならない≫

 シナリオに沿うため登場人物を縛っていた、のではない。

 とうに造物主の定めたシナリオなんて枠から外れていたのだ、この世界は。


≪……それ、放っておいたら、やべぇんじゃねえのか≫

≪一定程度なら、我ら、そして『護界卿』の手により修正が効きますが≫

 と、アスタリア。

≪放置しておけばいずれ、造物主の定めた数十通りのシナリオの、いずれにも該当しない事件、現象が無数に発生する。それらは――≫

 この世界の崩壊に繋がる。

 女神は、そう語った。


≪……じゃあ、アスタリア。あんたが、バルバラやアレクシオスにやってることは≫

≪貴方の考えている通りです≫

 無感動に、アスタリアが答えた。

≪この世界を、我らが制御可能な枠に押し込めるため。造物主が想定した形から可能な限り離れぬよう世界を保つため≫

 そして、世界の崩壊を防ぐため。


 オレは押し黙った。アスタリアもアステリクも何も言わなかった。

 頭の中をぐるぐると、言葉の断片だけが駆け巡っていた。

 ある断片を別の断片とつなぎ合わせる。違う、これじゃない。オレが言いたいのはこれじゃない。放り出す。

 また別の断片を他のとつなぎ合わせて、違う、これでもない。あれでもない、それでもない、こっちも違う、そんなことをぐるぐるぐるぐるひたすら繰り返して――


「制御可能な枠の中に世界を押し込める。すべてを造物主の定めた通りに収束するよう計らう。だったら……」

 もつれる舌をなんとか動かして、仰ぎ見るように尋ねた。

「だったら、一番邪魔なのは、オレじゃないか」

 家永孝也。そもそもゲームのシナリオ中に登場すらしない存在。

 ありとあらゆる段階において、シナリオで定められた流れをぶち壊しかねない存在。

 本来なら、何をおいても消去すべき存在。


「あんたの言う理屈がその通りなら……なんでオレを生かしておいた?」

 オレがバルバラの中にいることはとうの昔に知ってたんだろう。

 オレがこの世界にとっての猛毒になることだって、やっぱり分かりきっていたんだろう。

 半年。そりゃ、女神にとっちゃ一瞬かもしれない。けど、オレみたいな虫けら一匹潰すには十分すぎる時間だ。


「体がバルバラだからか? いや、あんたならそれくらい何とでもできたはずだ。あんた自身は物理世界に干渉できなくても、当代の『護界卿』が……『常磐卿ときわきょう』がついてる」

 アスタリアは黙している。


「オレが害悪なのに気づかなかった? そんな訳ないよなアスタリア。だってあんたの兄貴はとうに気づいてた。なあ、アステリク」

 小さなため息が聞こえた。肯定の意思表示だった。

≪イエナガ・タカヤ……≫

「小さな逸脱につながるかもしれない住人の行動は事細かに縛りながら、放っておけば世界を滅ぼす存在は完全に放置する。おかしいよなぁ、アスタリア。矛盾だ。明らかに狂ってる。普通に考えればな」


 黒い水辺に波が立ち始めた。

 苛立ち。そう言っていいのだろうか。女神として無機質な存在になったはずのアスタリアにも、動揺はあるのだろうか。それとも、この現象も何らかの『合理的』な在り方の産物なんだろうか。

 よぎる思考を押さえつけてオレは続ける。


「この矛盾を解決する答えはひとつだ」

≪イエナガ・タカヤ≫

「女神アスタリア、あんたが……」

≪イエナガ・タカヤ!≫

 頭が割れそうな、脳への一喝。視界が白い光で満たされる。

 途切れかける意識を、皮一枚で辿った。喉が嗄れるほど、声を張り上げた。

≪あんたが、オレをこの世界に呼んだんだ≫

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